バルフォア宣言
第一次世界大戦末期の1917年11月、イギリスがユダヤ人にパレスチナ国家建設を認めた宣言。それ以前にアラブ人の独立を認めたフセイン・マクマホン協定、フランスなどとのオスマン帝国領分割を密約したサイクス・ピコ協定と矛盾し、現在にいたるパレスチナ問題の原因となった。
第一次世界大戦末期の1917年11月、イギリスが大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めた宣言。ロイド=ジョージ挙国一致内閣の外相バルフォアからロンドンのウォルター=ロスチャイルドへの書簡として出された。ロスチャイルドは19世紀以来、ロンドン・パリを拠点に活動し、大きな資産をもつユダヤ系財閥の当主で、当時、ユダヤ人のパレスティナへの移住と建国を目指すシオニズム運動の代表を務めていた。バルフォア宣言はロスチャイルドへの書簡という形を取ったが、イギリス政府が正式に表明したもので公開された。
この宣言は、ユダヤ国家の建設を求めるシオニズムに「いい顔」をすることによって、パレスチナでの対オスマン帝国戦を有利に進めることと、ヨーロッパにおけるユダヤ系大資本の代表であるロスチャイルド家の支援を取り付けることを狙っていたのである。
ユダヤ人国家の出現 第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊したことを受け、1920年4月に連合国が開催したサン=レモ会議において、イギリスはパレスチナを委任統治とし、ユダヤ人の入植が始まった。
イギリスは、第二次世界大戦直前の1939年5月に「パレスチナ白書」を出して事実上バルフォア宣言を撤回し、さらにロンドンにアラブ側・ユダヤ側の双方の代表とエジプト、イラク、サウジアラビアなどのアラブ諸国代表を招いて円卓会を開催、その懐柔を図った。しかし、その後もアラブ側の反英行動が続き、イギリスのパレスチナ統治は次第に困難になっていった。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.198>
これに対し、パレスチナ自治政府のアッバス議長は「英国は歴史的な不正をただす行動を一切とらず、謝罪も補償もしていない」と強く非難し、謝罪や国家承認を求めた。パレスチナ自治区の各地で2日、宣言を批判するパレスチナ人らの抗議活動が行われた。一部では、メイ首相とバルフォア卿を模したと思われる人形が燃やされた。<以上、2017年11月3日の各社ニュースより>
イギリス政府がバルフォア宣言を誇りに思うということは、誤りではなかったといっていることとおなじである。パレスチナ問題に関して、欧米圏での解釈は、
バルフォア宣言を「誇りに思い」誤りだったと認めないのは、それがフセイン・マクマホン宣言、サイクス・ピコ協定というイギリス外交の全否定につながるからであろう。「誇り高い」イギリス帝国主義思想はみごとに生き残っていると言うことか。それがまたアラブ側がカチンとくる理由であろう。この関係は日韓関係の歴史認識の違いにも当てはまるのかもしれない。
ユダヤ人国家の建設を認める
その文面の要点は「イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の民族ホーム A National Home の樹立に賛同して、目的の達成のために最善の努力を払う」という点であった。それには「パレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民的及び宗教的諸権利」を害することのないこと、という条件が付けられていた。この宣言は、ユダヤ国家の建設を求めるシオニズムに「いい顔」をすることによって、パレスチナでの対オスマン帝国戦を有利に進めることと、ヨーロッパにおけるユダヤ系大資本の代表であるロスチャイルド家の支援を取り付けることを狙っていたのである。
矛盾した宣言
イギリスはバルフォア宣言を出す一方で、すでに1915年7月にアラブ人の実力者フセインとの間で秘密協定であるフセイン・マクマホン協定を結び、さらに1916年5月にはフランス・ロシアとの間でオスマン帝国領土を分割することの秘密協定としてサイクス・ピコ協定結んでいたので、それらと矛盾することとなった。ユダヤ人国家の出現 第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊したことを受け、1920年4月に連合国が開催したサン=レモ会議において、イギリスはパレスチナを委任統治とし、ユダヤ人の入植が始まった。
資料 バルフォア宣言
バルフォア宣言は長くないので全文をあげておこう(右上の原文を参照)。(引用)私は国王陛下の政府を代表いたしまして、ユダヤ人シオニスト諸君の大望に共感を示す以下の宣言を、閣議の同意を得て貴下にお伝えすることができて非常に悦ばしく思っております。POINT バルフォア宣言の問題点 バルフォア宣言には、フセイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定との矛盾の他に、本文の中に大きな問題を含んでいた。
「国王陛下の政府はパレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです。また、パレスチナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティーの市民および信仰者としての諸権利、ならびに他のあらゆる国でユダヤ人が享受している諸権利および政治的地位が侵害されることは決してなされないことはないと明確に理解されています。」
貴下がこの宣言をシオニスト連盟にお知らせいただけましたならば光栄に存じます。
アーサー・ジェームズ・バルフォア
※私=バルフォア(イギリス外相) 貴下=ロスチャイルド卿(シオニスト連盟会長) <『世界史史料10』歴史学研究会編 2006 岩波書店 p.41>
- 「民族的郷土」という曖昧な表現で、しかもその範囲は示されていなかったが、ユダヤ人は明確な「ユダヤ人国家」と受けとった。
- 「パレスチナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティー」としてアラブ人(ムスリム)・少数のキリスト教徒などを一括して区別した。
- シオニスト以外の世界中のユダヤ人の権利は侵害されることは決してない、と述べたが、その後のドイツでのユダヤ人排斥が起こった。
バルフォア宣言の事実上の撤回
1920年以来、イギリスは委任統治としてパレスチナを統治し、そのもとでユダヤ人の入植が始まった。しかし、ユダヤ人入植が増えると共に、パレスチナに居住するアラブ系住民との衝突が続いていった。イギリスは軍隊を駐屯させていたが、次第に統治能力を低下させ、治安を維持することが困難になっていった。1930年代になって、ドイツ・イタリアのファシズム勢力が台頭し、イギリスの中東支配やインド支配も脅かされるようになると、アラブ諸国との関係もよくしていかなければならず、バルフォア宣言によるユダヤ人との協力態勢だけに依存することが困難になってきた。1936年にはパレスチナ問題を解決するため「ピール案」というアラブ人地区とユダヤ人地区に分割する案を作成したが、それは双方からの反対で実現しなかった。イギリスは、第二次世界大戦直前の1939年5月に「パレスチナ白書」を出して事実上バルフォア宣言を撤回し、さらにロンドンにアラブ側・ユダヤ側の双方の代表とエジプト、イラク、サウジアラビアなどのアラブ諸国代表を招いて円卓会を開催、その懐柔を図った。しかし、その後もアラブ側の反英行動が続き、イギリスのパレスチナ統治は次第に困難になっていった。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.198>
国連のパレスチナ分割決議
ついに第二次世界大戦の終結と共に、イギリスはパレスチナの委任統治を放棄することを決定し、その処置を発足したばかりの国際連合に委ねることにした。国際連合は1947年12月に「パレスチナ分割案」を総会に提出し、それが議決された。しかし、ユダヤ人側に有利に過ぎるとしたパレスチナ・アラブ人が強く反発、衝突が始まり、多数の難民が発生した。さらに国連決議にもとづいて、1948年にイスラエルが建国を宣言、形の上でかつてのバルフォア宣言が実現した。しかし、ただちにアラブ諸国はイスラエルとの開戦に踏み切り、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)を初めとする4次にわたる中東戦争を経て現在のパレスチナ問題へとつながっていった。このように、バルフォア宣言は現在に至る中東問題のの原因の一つと作った。News バルフォア宣言草案、競売に
朝日新聞、2005年5月26日の記事によると、6月16日にバルフォア宣言の手書きの草案がニューヨークでオークションにかけられることになったと、競売会社サザビーズが発表したという。草案は17年7月17日、ロンドンであったユダヤ人の帰還運動を進めるシオニスト政治委員会の会合で中心人物の一人が書き留めた。ホテルの紙に鉛筆で「国王陛下の政府は、パレスチナがユダヤ人の国家的居住地として再建されるという原則を認める」と書かれている。草案のコピーの送り先として、当時、軍需相だったウィンストン・チャーチルの名前がメモされている。11月2日に実際に外相バルフォアの名で発表された宣言では「国王陛下の政府は、パレスチナにユダヤ人の国家的居住地をつくることを好意的に見る」という表現に弱められた。<朝日新聞 2005年5月26日>News 100年後の謝罪拒否
2017年は、バルフォア宣言が発せられてから100年に当たっている。11月2日、ロンドンでイスラエルのネタニヤフ首相と会食したイギリスのメイ首相は、「バルフォア宣言」についてのイギリスの謝罪を拒否することを明言した。新聞記事は次のように伝えている。(引用)パレスチナにユダヤ人国家を建設することを英国が支持した「バルフォア宣言」から100年を迎えた2日夜、記念の夕食会がロンドンで開かれ、英国のメイ首相は「イスラエル国家建設のための我々の先駆的な役割を誇りに思う」と述べた。パレスチナが求める謝罪は「絶対にない」と拒否する考えを示した。一方、会談の中で、メイ首相はネタニヤフ首相に対し、イスラエルが占領地で拡大させる「違法入植地への重大な懸念」を表明。和平の障害を乗り越え、同国と将来の独立したパレスチナの「2国家共存」による解決を支持するとした。
夕食会には、イスラエルのネタニヤフ首相や、宣言を出した当時のバルフォア外相の親族らが参加。メイ氏は、宣言によって「類いまれな国家を誕生させた」として「歴史上最も重要な書簡の一つ」と評価した。イスラエルメディアによると、ネタニヤフ氏は「宣言とそれを記念することは英国を歴史の正しい側に置く」と応じた。<朝日新聞 2017年11月3日>
これに対し、パレスチナ自治政府のアッバス議長は「英国は歴史的な不正をただす行動を一切とらず、謝罪も補償もしていない」と強く非難し、謝罪や国家承認を求めた。パレスチナ自治区の各地で2日、宣言を批判するパレスチナ人らの抗議活動が行われた。一部では、メイ首相とバルフォア卿を模したと思われる人形が燃やされた。<以上、2017年11月3日の各社ニュースより>
イギリス政府がバルフォア宣言を誇りに思うということは、誤りではなかったといっていることとおなじである。パレスチナ問題に関して、欧米圏での解釈は、
- フセイン・マクマホン協定は,パレスチナ・シリアの沿岸部をハーシム家に領土として認めた地域から除外している。
- バルフォア宣言は「民族的郷土 National home」という言い方で,国家(NationやState)としての建国を認めるとは明言していない。
- サイクス・ピコ協定ではパレスチナは国際管理としており、そこにユダヤ人が入植することは出来る。
バルフォア宣言を「誇りに思い」誤りだったと認めないのは、それがフセイン・マクマホン宣言、サイクス・ピコ協定というイギリス外交の全否定につながるからであろう。「誇り高い」イギリス帝国主義思想はみごとに生き残っていると言うことか。それがまたアラブ側がカチンとくる理由であろう。この関係は日韓関係の歴史認識の違いにも当てはまるのかもしれない。