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オスマン帝国の第一次世界大戦参戦

オスマン帝国の青年トルコ革命で政権を握った青年トルコが主導して、ドイツ・オーストリアの同盟側について第一次世界大戦へ参戦した。

ドイツへの接近

 オスマン帝国は1908年の青年トルコ革命で立憲君主政を復活させ、青年トルコ政権による革新的な政治が展開された。新政権は近代化のために西欧諸国から外人顧問を招聘したが、軍事面ではドイツ軍人のザンデルス将軍を顧問とした。バルカン戦争(第1次と第2次)でこのザンデルスの指導を受けた青年トルコの急進派エンヴェル=パシャが活躍し、両者の結びつきは強くなった。政府内には親フランス勢力もあったが、エンヴェル=パシャがドイツとの同盟を推進、秘密条約でドイツ=トルコ同盟条約を成立させた。

オスマン帝国の参戦理由

 第一次世界大戦が勃発するとオスマン帝国は1914年11月11日に同盟国側に参戦し、14日には参戦は「聖戦」であるとの宣言を行った。ただちにダーダネスル=ボスフォラス海峡のドイツ軍艦の通過を認め、ドイツ海軍は黒海のロシア基地を攻撃した。
 オスマン帝国の第一次世界大戦への参戦を主導したのは青年トルコ政権の陸軍大臣エンヴェル=パシャであった。彼は、最大の敵国ロシア帝国を解体してオスマン帝国の自然国境を回復することを参戦の目的として正当化した。その意図の中にはロシアの支配を受けている中央アジアのトルコ系民族を解放し、サマルカンドを都としたトルコ人の帝国を樹立するというパン=トルコ主義の思想があった。しかも、彼が巧妙であったのはパン=トルコ主義を突出させることなくパン=イスラーム主義に結びつけ、大戦にあたってジハードを宣言し、ロシア領内だけではなくアフガニスタンやインドなどのイスラーム教徒には反英闘争を呼びかけた。<山内昌之『納得しなかった男』1999 岩波書店 p.43~43>
 しかし、この呼びかけにはほとんど反応がなく、かえって戦争中にアラブ人のオスマン帝国からの独立を目指す「アラブの反乱」が起こることとなる。

ガリポリの戦い

 イギリスはオスマン帝国とドイツが結ぶと、ドイツの中東進出が容易になのでオスマン帝国の参戦を恐れた。また、ドイツ海軍が黒海に入り、同盟国ロシアが危機に陥ったので、1915年4月、海峡地帯のガリポリに出兵した。しかしこのガリポリ上陸作戦はドイツ軍とオスマン帝国軍の同盟軍によって上陸を阻止された(オスマン帝国側でこの勝利を指揮したのがムスタファ=ケマルであった)。

大戦中の民族問題

 エンヴェル=パシャのかかげたパン=トルコ主義とパン=イスラーム主義は矛盾せざるを得なかった。パン=トルコ主義の立場からはオスマン帝国領内のアラブ人、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ教徒などの自治独立の要求を抑えなければならなくなる。事実、大戦中にはオスマン軍によってアルメニア人に対する大量虐殺、ギリシア人に対する弾圧が行われた。またイギリスはオスマン帝国の背後を攪乱するためにこの民族対立を利用しようとして、アラビアの反オスマン帝国勢力であるハーシム家のフセインと結び(フセイン=マクマホン宣言)、その反乱を支援した。この時アラブ軍を指導したのが「アラビアのロレンス」であった。

大戦の敗北

 オスマン帝国はガリポリの勝利以外は各地で敗北を重ね、1918年9月にはブルガリアが降伏したため首都イスタンブルに連合軍が迫り、中東ではエジプトを拠点としたイギリス軍がパレスティナなどに進出、さらにイギリスのロレンス大佐に指導されたアラブの反乱が拡大してフセインがダマスクスにヒジャーズ王国を樹立するなど、危機が迫った。スルタンのメフメト6世は秘密裏に交渉して1918年10月30日、戦後の地位の保障をうけて連合軍に降伏した。
 裏切られたエンヴェル=パシャら、青年トルコの指導者は国外に逃亡した。中東で戦っていたムスタファ=ケマルは、いったんイスタンブルに戻った後、連合国への降伏を拒否して反乱軍を組織し、オスマン帝国にかわる新国家樹立に向かう。

オスマン帝国の滅亡

 スルタンのメフメト6世の政府は連合国との間でセーヴル条約を締結しその領土の大半を失うこととなった。1920年には、連合国はオスマン帝国領の西アジア諸地域の分割を行った。一方、1919年にはイギリスの支援を受けたギリシアがイズミル地方に侵攻してギリシア=トルコ戦争が勃発した。ここで救国の英雄としてムスタファ=ケマルが登場し、アンカラに大国民会議を招集し、トルコ国民軍を組織してギリシア軍との戦いを逆転させて勝利に導き、国民会議は満場一致で帝政廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、これによってオスマン帝国の滅亡が確定した。1923年7月、セーヴル条約に代わってローザンヌ条約が締結され、独立とアナトリアの領土を回復し、トルコ共和国が成立する。第一次世界大戦への参戦はオスマン帝国の消滅を決定づけたと言える。 → トルコ革命
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