ハーシム家
メッカのムハンマドの出身一族。20世紀のその子孫、フセインはオスマン帝国でメッカの太守に任命されたが、イギリスとフセイン=マクマホン協定を結び、1916年に「アラブの反乱」を起こしヒジャーズ王国を建てた。その子たちは、イラク王国、ヨルダン王国の国王となった。
アラビアのヒジャーズ(聖地メッカやメディナを含む地方)で遊牧活動をしていたベドウィンの中のクライシュ族の有力な12家の一つの豪族で、ムハンマドの出身一族とされる名門。系図ではムハンマドの曾祖父ハーシムから出ているという。ムハンマドの血筋は娘のファーティマが第4代カリフ・アリーに嫁したことによって伝えられた。ハーシム家の家系はムハンマドにつながることからイスラーム教の聖地であるメッカとメディナのあるヒジャーズ地方(紅海沿岸)では「高貴な家柄」を意味するシャリーフといわれ尊崇されていた。アリーから数えて第38代にあたるのがフセインであった。
イブン=サウードの台頭 しかしアラビア半島の内陸ネジュド(ネジド)にはリヤドを本拠とするサウード家のイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)がワッハーブ教団系の武装集団と結んで徐々に勢力を伸ばしていた。イギリスはイブン=サウードに対しても軍事支援を行い、アラブの両勢力を戦わせることで「漁夫の利」を得ようとした感がある。
さらにそれだけでなく、イギリスは第一次世界大戦中にバルフォア宣言を出してユダヤ人に戦後の国家建設を約束した。また、イギリス・フランス・ロシアはサイクス=ピコ協定を結び、大戦後のオスマン帝国領の分割を密約していた。1917年、ロシア革命が起こり、レーニンが平和についての布告で秘密外交の禁止を提唱、帝国主義諸国が結んだ密約の一つとしてサイクス=ピコ条約を暴露した。フセインはイギリスの背信を知って激怒したが、イギリスはアラブ人同士の争いでもフセインを裏切ることとなった。
イギリスは1921年にフランスと分割したアラブの地をさらに分割しフセインの子供たちに与えた。紆余曲折の末、ファイサルはイラク王国、アブドゥッラーはトランスヨルダン王国として落ち着いた。
しかしこのうち、長男のアリーはヒジャーズ王国を継承したがイブン=サウードととの戦いに敗れて1925年に滅んでおり、ヨルダン(旧トランスヨルダン)のアブドゥッラー王も1951年にパレスチナ人に暗殺された。イラクのファイサル王は1933年に死去、後継のファイサル2世は1958年のイラク革命で殺害されてハーシム王家は滅び、イラクは革命によって共和国となった。ヨルダン王国だけはアブドゥッラーの子のフセインが王位を継承し、王政を維持している。つまりハーシム家の王統で現在まで残っているのはヨルダン王国だけとなった。
38代目のフセイン、アラブの反乱を起こす。
ヒジャーズ地方がオスマン帝国の支配下に入ったため、ハーシム家もそれに従い、フセイン(フサイン)はオスマン帝国からメッカの太守の地位を与えられた。しかし、機会があれば自立して王国を建てようと考えていたフサインは、第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツ側に参戦すると、イギリスと結んで反乱を起こすことを決意、1915年7月14日にイギリスの高等弁務官マクマホンとの間でフセイン=マクマホン協定を締結し、戦後のアラブの独立の保障を取りつけて、1916年6月5日オスマン帝国に対する「アラブの反乱」に起ち上がった。アリー、アブドゥッラー、ファイサルらの子供たちも父と共に戦い、各地でオスマン軍を破った。このときフサインに協力してその軍事行動を指導したのが「アラビアのロレンス」といわれたイギリスのロレンスだった。フセインの軍勢はイギリスの後押しで勝ち進み、フセインはヒジャーズ王国を建国した。さらに三男ファイサルはヒジャーズ軍を率い、イギリス軍の協力もあって1918年にはダマスクスを征服し、アラブ人の念願である大シリアの復興を実現しようとした。イブン=サウードの台頭 しかしアラビア半島の内陸ネジュド(ネジド)にはリヤドを本拠とするサウード家のイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)がワッハーブ教団系の武装集団と結んで徐々に勢力を伸ばしていた。イギリスはイブン=サウードに対しても軍事支援を行い、アラブの両勢力を戦わせることで「漁夫の利」を得ようとした感がある。
さらにそれだけでなく、イギリスは第一次世界大戦中にバルフォア宣言を出してユダヤ人に戦後の国家建設を約束した。また、イギリス・フランス・ロシアはサイクス=ピコ協定を結び、大戦後のオスマン帝国領の分割を密約していた。1917年、ロシア革命が起こり、レーニンが平和についての布告で秘密外交の禁止を提唱、帝国主義諸国が結んだ密約の一つとしてサイクス=ピコ条約を暴露した。フセインはイギリスの背信を知って激怒したが、イギリスはアラブ人同士の争いでもフセインを裏切ることとなった。
フサイン、イブン=サウードに敗れる。
オスマン帝国降伏後、アラビア半島の主導権を巡るヒジャーズ王国ハーシム家のフセインとネジュド地方を基盤とするサウード家のイブン=サウードの戦いは、後者の優位で進んだ。イギリスはその情勢を見てフセイン支援をやめ、さらにアラビアの有力部族も次々とサウード家側につき、1919年5月、フルマの戦いでネジュド軍が大勝、ハーシム家側は守勢に回らざるを得なくなった。フセインは空位になっていたカリフに就任することで全アラブの主導権を握ろうとして1924年3月にカリフ就任を宣言した。しかしそれは裏目に出て、アラビアの多くの部族はかえって反発し、イブン=サウードにフセイン打倒の口実を与えてしまった。9月、攻勢を開始したイブン=サウード軍はメッカに迫まり、フセインはやむなく長子アリーをヒジャーズ王の後継者に指名して、アカバに退いた。10月16日、イブン=サウードはメッカに無血入城、翌年ハーシム家のヒジャーズ王国は滅亡した。フサインはアカバからイギリス軍に保護され、キプロスに亡命した。ハーシム家の国王たちの末路
フセインには長男アリー、次男アブドゥッラー、三男ファイサル、四男ザイードがいた。イギリスはハーシム家のフセインとサウード家のイブン=サウードを「天秤にかけ」、敗れたフセインを見捨てるという非情な行いをしたが、さすがにフセイン=マクマホン協定で「アラブの反乱」の代償としてアラブ国家の建設を約束したという借りがあったので、フセインの子供たちを優遇した。というより第一次世界大戦後にイギリスが委任統治とすることになった西アジアをおさえるために、フセインの子供たちを利用しようとした。イギリスは1921年にフランスと分割したアラブの地をさらに分割しフセインの子供たちに与えた。紆余曲折の末、ファイサルはイラク王国、アブドゥッラーはトランスヨルダン王国として落ち着いた。
しかしこのうち、長男のアリーはヒジャーズ王国を継承したがイブン=サウードととの戦いに敗れて1925年に滅んでおり、ヨルダン(旧トランスヨルダン)のアブドゥッラー王も1951年にパレスチナ人に暗殺された。イラクのファイサル王は1933年に死去、後継のファイサル2世は1958年のイラク革命で殺害されてハーシム王家は滅び、イラクは革命によって共和国となった。ヨルダン王国だけはアブドゥッラーの子のフセインが王位を継承し、王政を維持している。つまりハーシム家の王統で現在まで残っているのはヨルダン王国だけとなった。