ワシントン海軍軍備制限条約
1922年、ワシントン会議の結果成立した海軍軍縮条約。主力艦の総トン数比率を、米・英・日・仏・伊の間で、5:5:3:1.67:1.67と定めた。日本では軍部の反対が根強く、戦時体制が強まる中、1934年12月に破棄した。
1922年2月、ワシントン会議の結果成立した条約。「ワシントン海軍軍縮条約」ともいう。日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5ヶ国が調印。主力艦(戦艦と生まれたばかりの空母。巡洋艦は入らない)建造を10年間停止、保有比率を英米各5、日本3、仏伊各1.67と定めた。日本はこの条約によって、1907年から進めていた「八・八艦隊」(戦艦・巡洋艦を各8隻を中心とした艦隊編制)計画を断念した。画期的な海軍軍縮が合意されたことで、第一次世界大戦前から続いた列強による建艦競争は終わりを告げ、海軍休日(または建艦休日)といわれる時代に入った。
なお、ワシントン会議では、太平洋地域に関する四カ国条約と中国に関する九カ国条約がそれぞれ締結され、アメリカは国際連盟に不参加であったものの、アメリカの外交政策の大きな勝利といわれ、戦間期の国際秩序としてのワシントン体制を現出させることとなった。
日本の受諾と実利 こうして5ヵ国の比率は当初、5:5:3:1.75:1.75と定められることとなった。しかし日本は、代表団の一人加藤寛治海軍中将の要求を入れて、対米英は7割にすることを主張、交渉は難航した。もう一つ、戦艦陸奥については米英は建造中だから破棄せよと迫り、日本はすでに完成しているとしてその廃棄を拒否した。結局日本は対米英6割(つまり5:3)を受け容れる代わりに、陸奥を廃艦としないこと、太平洋の軍事施設は現状のまま(新たな要塞は建設禁止)とすることを提案した。その結果、比率が再検討され、最終的に5:5:3:1.67:1.67に落ち着いた。<今井清一『大正デモクラシー』日本の歴史 23 中公文庫 p.344>
イギリスの後退 ワシントン海軍軍備制限条約の成立で、最も多くの巨艦を廃艦としたのはイギリスだった。これによって世界の最強と言われたイギリス海軍の地位は著しく低下した。日本は存続が認められた陸奥と、すでに建造していた長門と併せて巨艦を二隻所有し、対英米6割という屈辱を甘んじて受けたものの、実を取った形となった。
日米対立への布石 しかし、ワシントン海軍軍備制限条約は、海洋国家日本が太平洋に進出しようとするとき、アメリカが将来的な仮想敵国となるであろう事を軍部に強く意識させた。それをうけて、日本軍中枢は日露戦争後の1907年に定めた「帝国国防方針」で仮想敵国がロシア、アメリカ、中国の順であったものを、アメリカ、ロシア、中国に変更した。アメリカ海軍も将来、日本海軍と衝突する事態を想定し、戦略を練り始める。日米戦争への密かな布石が打たれ始めた。
しかし、日本国内で軍を中心に反対運動がおこり、統帥権干犯問題(軍備や作戦は天皇の統帥のもとで軍にあるから、政府が外国と軍縮を協議決定するのは天皇の統帥権を犯すことになるという、文官統制=シビリアンコントロールを否定する軍国主義的主張)に発展し、軍部はそれを梃子に単独行動を強化、翌1931年に満州事変をおこした。
また、敗戦国ドイツにおいても、ヴェルサイユ体制による軍備制限に対する国民的不満を梃子に、ヒトラーの率いるナチスが台頭、平等な軍備を要求するようになった。
そのような危機の到来を受けて、1932年から国際連盟が主催してジュネーヴ軍縮会議が開催され、アメリカ、ドイツ、ソ連も参加して一般的な軍備制限に関する初の国際会議となったが、ドイツの再軍備問題から決裂し、翌33年にはドイツが国際連盟を脱退、日本も満洲問題で国際的に孤立したため同じく国際連盟を脱退し、軍縮の気運は一気に消滅した。
ワシントン海軍軍備制限条約の失効 日本はついに1934年12月3日、単独でワシントン海軍軍縮条約を破棄を閣議決定(岡田啓介内閣)、アメリカに通告した。1936年正月には、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告した。こうして両海軍軍縮条約は実効力を失い、ワシントン海軍軍縮条約は同年12月末を以て期限切れとなった。これによって海軍休日といわれた軍縮時代はほぼ15年で終わり、第二次世界大戦に向かうこととなる。日本は翌年ただちに巨大戦艦の「大和」と「武蔵」の建造を開始した。
なお、ワシントン会議では、太平洋地域に関する四カ国条約と中国に関する九カ国条約がそれぞれ締結され、アメリカは国際連盟に不参加であったものの、アメリカの外交政策の大きな勝利といわれ、戦間期の国際秩序としてのワシントン体制を現出させることとなった。
海軍軍縮の駆け引き
1921年11月12日、ワシントン会議の第1回総会が開催されると、アメリカ全権の国務長官ヒューズは慣例を破って公開議場でアメリカがまず率先して建造中の巨艦15隻を廃棄すると宣言、ついでイギリス、日本などにも協調を迫った。この「みごとな演出」で会場は大きな拍手に包まれた。そのような雰囲気のなか、第2回総会ではイギリス全権バルフォアが「イギリスは世界最大の海軍国としての伝統的地位を放棄するという犠牲を払うことを強調した」上で、米英均等を受諾して拍手を浴びた。日本全権加藤友三郎もヒューズ提案を喜んで受諾し、進んで積極的に海軍軍縮に賛成した。日本の受諾と実利 こうして5ヵ国の比率は当初、5:5:3:1.75:1.75と定められることとなった。しかし日本は、代表団の一人加藤寛治海軍中将の要求を入れて、対米英は7割にすることを主張、交渉は難航した。もう一つ、戦艦陸奥については米英は建造中だから破棄せよと迫り、日本はすでに完成しているとしてその廃棄を拒否した。結局日本は対米英6割(つまり5:3)を受け容れる代わりに、陸奥を廃艦としないこと、太平洋の軍事施設は現状のまま(新たな要塞は建設禁止)とすることを提案した。その結果、比率が再検討され、最終的に5:5:3:1.67:1.67に落ち着いた。<今井清一『大正デモクラシー』日本の歴史 23 中公文庫 p.344>
イギリスの後退 ワシントン海軍軍備制限条約の成立で、最も多くの巨艦を廃艦としたのはイギリスだった。これによって世界の最強と言われたイギリス海軍の地位は著しく低下した。日本は存続が認められた陸奥と、すでに建造していた長門と併せて巨艦を二隻所有し、対英米6割という屈辱を甘んじて受けたものの、実を取った形となった。
日米対立への布石 しかし、ワシントン海軍軍備制限条約は、海洋国家日本が太平洋に進出しようとするとき、アメリカが将来的な仮想敵国となるであろう事を軍部に強く意識させた。それをうけて、日本軍中枢は日露戦争後の1907年に定めた「帝国国防方針」で仮想敵国がロシア、アメリカ、中国の順であったものを、アメリカ、ロシア、中国に変更した。アメリカ海軍も将来、日本海軍と衝突する事態を想定し、戦略を練り始める。日米戦争への密かな布石が打たれ始めた。
その後の軍縮の動き
第一次世界大戦後の国際協調の高まりのなか、1927年に補助艦(巡洋艦など)を対象にジュネーヴ海軍軍縮会議が開催されたが、米英の意見対立から決裂、1929年の世界恐慌勃発で軍縮に暗雲が立ち始めた。それでも1930年のロンドン海軍軍縮会議で補助艦について協議が再開され、保有比率を米英日それぞれ10:10:7とし、主力艦建造停止の1936年までの延長が決められた。しかし、日本国内で軍を中心に反対運動がおこり、統帥権干犯問題(軍備や作戦は天皇の統帥のもとで軍にあるから、政府が外国と軍縮を協議決定するのは天皇の統帥権を犯すことになるという、文官統制=シビリアンコントロールを否定する軍国主義的主張)に発展し、軍部はそれを梃子に単独行動を強化、翌1931年に満州事変をおこした。
また、敗戦国ドイツにおいても、ヴェルサイユ体制による軍備制限に対する国民的不満を梃子に、ヒトラーの率いるナチスが台頭、平等な軍備を要求するようになった。
そのような危機の到来を受けて、1932年から国際連盟が主催してジュネーヴ軍縮会議が開催され、アメリカ、ドイツ、ソ連も参加して一般的な軍備制限に関する初の国際会議となったが、ドイツの再軍備問題から決裂し、翌33年にはドイツが国際連盟を脱退、日本も満洲問題で国際的に孤立したため同じく国際連盟を脱退し、軍縮の気運は一気に消滅した。
ワシントン海軍軍備制限条約の失効 日本はついに1934年12月3日、単独でワシントン海軍軍縮条約を破棄を閣議決定(岡田啓介内閣)、アメリカに通告した。1936年正月には、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告した。こうして両海軍軍縮条約は実効力を失い、ワシントン海軍軍縮条約は同年12月末を以て期限切れとなった。これによって海軍休日といわれた軍縮時代はほぼ15年で終わり、第二次世界大戦に向かうこととなる。日本は翌年ただちに巨大戦艦の「大和」と「武蔵」の建造を開始した。