ワシントン会議
1921~22年の海軍軍縮と太平洋・中国問題に関する国際会議。アメリカの主導のもと、海軍軍縮、中国に関する九ヵ国条約、太平洋に関する四国条約などが成立して国際協調の成果とされ、ヴェルサイユ体制とともに戦間期の国際秩序となった。日本は海軍軍拡が制限され、山東半島の権益を放棄するなど中国進出を抑制された。
第一次世界大戦後、各国は経済復興に取り組んでいたが、その際に軍備の中心であった海軍力の維持は大きな負担となっていた。当時は世界の平和維持の原理は「勢力均衡」と考えられていたので、各国が歩調を合わせて海軍軍縮に当たる必要があると意識されるようになった。軍縮問題は、当然国際連盟でもテーマとなったが、アメリカは国際連盟に不参加であったため成果を上げることが出来なかった。かわって、もっぱらアメリカが主導する大国による国際会議で協議されることとなった。その最初が1921年11月に開会し、22年初頭まで続いたワシントン会議であり、アメリカのハーディング大統領が提唱し、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ベルギー・中国の9ヶ国が参加し、海軍軍縮と太平洋・中国問題に関して協議した。日本の代表は加藤友三郎・幣原喜重郎らが務めた。中国は北京政府が代表を派遣した。
しかし、大戦後のアメリカは戦勝国、同時に債権国として強い権限と同時に責任も持つこととなった。特にドイツ賠償問題ではアメリカの経済力で解決の方向が生まれ、否応なくアメリカは国際政治の主導権を持つ国となった。アメリカはモンロー主義という内向的性格が急速に失われ、1920年代の「永遠の繁栄」といわれた国内経済の繁栄と同時に積極外交へと舵を切った。
ソヴィエト=ロシアとドイツの不参加 また、それまで中国に対し強い権益を有していたロシアは大戦中にロシア革命で倒され、革命政権であるソヴィエト=ロシアは1919年7月、中国人民に対しカラハン宣言(第1次)を送り、旧ロシアが締結した不平等条約や権益を放棄することを表明していたが、ワシントン会議には招聘されなかった。また、中国・太平洋にもっていた権益を第一次世界大戦の敗北で放棄していたドイツも参加していない。
アメリカの関心事は海軍の軍縮問題とアジアの情勢であった。アメリカはアジア地域において日本の中国及び太平洋地域への進出を大きな脅威と見ていたので、日本を抑えるための国際的合意作りを目指したのであった。
この会議で作り出された、東アジア・太平洋地域の国際秩序をワシントン体制といい、ヨーロッパ国際秩序であるヴェルサイユ体制と並んで、戦間期の国際協調をささえる体制となった。 → アメリカの外交政策
中国に関する九カ国条約では中国の主権尊重・領土保全の原則が認められ、中華民国(北京政府)としての国際的地位は認められたといえるが、同時に門戸開放・機会均等の原則のもとに置かれることになった。
アメリカの転換 孤立主義から積極外交へ
アメリカ合衆国は民主党ウィルソン大統領の提唱によって発足した国際連盟に対して、議会では従来のアメリカの外交政策の基本であるモンロー主義=孤立主義を守るべきであるという主張が優勢であったため、加盟しなかった。また大戦後の大統領選挙で共和党のハーディングが当選、ウィルソンの国際協調主義は否定された。それは対戦に参戦したことによって多数のアメリカの若者が、遠いヨーロッパで戦死したことへの素朴な反省が国民に広がったからでもあった。しかし、大戦後のアメリカは戦勝国、同時に債権国として強い権限と同時に責任も持つこととなった。特にドイツ賠償問題ではアメリカの経済力で解決の方向が生まれ、否応なくアメリカは国際政治の主導権を持つ国となった。アメリカはモンロー主義という内向的性格が急速に失われ、1920年代の「永遠の繁栄」といわれた国内経済の繁栄と同時に積極外交へと舵を切った。
(引用)アメリカ上院によるヴェルサイユ条約の批准拒否に続いて、1920年の大統領選挙において共和党のハーディングが勝利をおさめ、以後のアメリカは孤立主義をその外交方針として掲げた。しかし、第一次世界大戦後の世界の覇権を握り、優越した国際的地位の上に立ったアメリカの孤立主義は、ヨーロッパから自己を隔離する伝統的な孤立主義ではあり得なかった。それは、むしろ条約上の束縛を離れて行動の自由を確保しようとする優越的地位の自認であり、その必要とする限りでの対外干渉と両立するものであった。1920年代にはアメリカの外交政策はむしろ積極化するのである。<斉藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.113-117>
中国での日本の台頭
アメリカにとって警戒すべき情勢は中国における日本の勢力拡大であった。日本は1915年の二十一カ条の要求でドイツの山東省権益の継承その他の利権を獲得、1917年は日米はドイツを牽制する意味から石井・ランシング協定を締結していたが、大戦後は中国での利害は対立するようになっていった。特に1914年にパナマ運河が開通したことによって中国はアメリカにとって直接的な市場としての価値が高まっていた。東アジア・太平洋における日本の勢力拡大を抑えることがアメリカの外交課題と考えられるようになった。ソヴィエト=ロシアとドイツの不参加 また、それまで中国に対し強い権益を有していたロシアは大戦中にロシア革命で倒され、革命政権であるソヴィエト=ロシアは1919年7月、中国人民に対しカラハン宣言(第1次)を送り、旧ロシアが締結した不平等条約や権益を放棄することを表明していたが、ワシントン会議には招聘されなかった。また、中国・太平洋にもっていた権益を第一次世界大戦の敗北で放棄していたドイツも参加していない。
アメリカの関心事は海軍の軍縮問題とアジアの情勢であった。アメリカはアジア地域において日本の中国及び太平洋地域への進出を大きな脅威と見ていたので、日本を抑えるための国際的合意作りを目指したのであった。
ワシントン会議の成果
ワシントン会議の結果、1921年12月に四カ国条約が、1922年2月に海軍軍備制限条約(五カ国条約)・九カ国条約がそれぞれ締結され、アメリカの外交政策は大きな勝利を収めたと言える。- 海軍の主力艦の制限:海軍軍備制限条約によってアメリカ合衆国・イギリス・日本・フランス・イタリアの五カ国で、5:5:3:1.67:1.67の比率で制限されることになった。大戦前の英独の無制限な建艦競争が戦争に結びついたことから、五大国が互いに制限することに合意した。アメリカとイギリスが同率とされたことは、イギリス海軍の大きな譲歩であった。なお、ドイツ海軍はすでにヴェルサイユ条約で大きく制限されている。
- 中国に対する主権尊重、領土保全の確認:九カ国条約の成立によって、アメリカが1899年の門戸開放宣言以来の主張である中国の主権尊重・領土保全の原則を各国が承認し、別に関税に関する条約(一律従価5%の関税の他、2.5~5%の付加税を認める)、山東懸案に関する条約が成立した。これによって日本は1915年の二十一カ条の要求によって獲得した旧ドイツ租借地の膠州湾などの山東半島における特殊権益を放棄して中国に返還した。また1917年のアメリカとの石井・ランシング協定は破棄された。
- 太平洋諸島の現状維持:四カ国条約によって、アメリカ・イギリス・日本・フランスは太平洋諸島分割競争を棚上げし、現状を維持することを約束した。この条約の第4条で日英同盟の破棄が盛り込まれた。
ワシントン体制の成立
東アジア・太平洋地域での国際秩序は、第一次世界大戦前の状態から、中華民国の地位の確定、ドイツ領の消滅という新しい状況が生み出された。相対的にアメリカの発言権が強化され、日本は1920年代の国際協調が大きく進む中で、大きな後退を余儀なくされた。さらに唯一日本だけが撤退していなかったシベリア出兵についても、1922年10月までに撤兵を約束した。ただし南樺太ではなおも1925年まで駐留した。この会議で作り出された、東アジア・太平洋地域の国際秩序をワシントン体制といい、ヨーロッパ国際秩序であるヴェルサイユ体制と並んで、戦間期の国際協調をささえる体制となった。 → アメリカの外交政策
その後の海軍軍縮会議
ワシントン海軍軍縮条約は主力艦に関する制限で合意したものであったので、補助艦(1万トン以下の巡洋艦など)の制限が次に問題となった。1927年にジュネーヴ海軍軍縮会議が開催されたが、仏伊が参加を拒否し、英米が対立したために失敗した。世界恐慌の後に、改めて1930年、ロンドン海軍軍縮会議が開催され、一定の成果を収めたが、ファシズム国家の急速な勢力拡大という新たな状況が現れ、海軍軍縮は困難さを増していく。ワシントン会議と中国
ワシントン会議は、日本にとっては海軍軍拡が抑えられたこと、中国大陸・太平洋地域での勢力拡大を制限されたことが重要であるので、その観点からだけ説明されることが多いが、中国にとってもより重要な国際会議であった。ワシントン会議の当時、中国には軍閥が牛耳る北京政府と孫文が江南の勢力と合同して建てた広東軍政府とがあって対立していた。しかし国際的にはパリ講和会議で北京政府が中国代表として認められていたため、ワシントン会議にも北京政府が代表を送った。しかし北京政府は軍閥が激しく主導権争いをしている最中であり、当時は直隷派が権力を掌握していた。直隷派北京政府は外交総長顔恵慶を団長とする7人の代表団を送り、ヴェルサイユ条約の時に提出した要求を発展させた10項目を提出した。しかし、北京政府の要求はほとんど成果を得られなかった。中国に関する九カ国条約では中国の主権尊重・領土保全の原則が認められ、中華民国(北京政府)としての国際的地位は認められたといえるが、同時に門戸開放・機会均等の原則のもとに置かれることになった。
(引用)九国条約は、中国の半植民地的な現状を何ら変えるものではなく、むしろ「機会均等」の名において軍閥支配下の中国を列強の共同管理下におき、それによって日本の独走的な中国進出を牽制しようとするものであった。<池田誠他『図説中国現近代史』第3版 2009 法律文化社 p.100>中国代表は日本の関東軍もふくめて、外国駐屯軍の撤退も主張し、議題とされた。中国の要請があれば駐屯の根拠である中国の外国人保護能力に関して調査することとなり、条約上根拠のない部隊の駐屯は難しくなった。また九ヵ国条約で中国の領土保全を認めたので、割譲や租借によって支配権を得ることは困難となり、日本政府は親日的な勢力を支援して間接的に支配及ぼす方式に転換、満州では奉天派の張作霖との関係を深めていった。