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ワシントン体制

ヴェルサイユ体制を補完するワシントン会議で成立したアジア・太平洋地域の枠組み。1931年、日本の満州事変で崩壊した。

 ワシントン会議によってつくられた、中国に関する九カ国条約と太平洋地域に関する四カ国条約の二つの条約によって形成された、第一次世界大戦後1921~1930年代初頭までの東アジア・太平洋地域の国際秩序。ドイツ脱落後、日本の進出をアメリカ・イギリスが抑える構図となっている。ヨーロッパの「ロカルノ体制」と並んで、ヴェルサイユ体制を支えるものであったといえる。
 ワシントン体制が形成され、日本も調印した九カ国条約で中国の主権尊重・領土保全が認められたことで、日本が第一次世界大戦中に中国に認めさせた「二十一カ条の要求」の中の膠州湾(青島)などの山東省の旧ドイツ権益は中国に返還されることとなり、山東問題は最終的に解決された。またアメリカとの間で交わされていた石井・ランシング協定も破棄されることとなった。このような一連の日本の中国での勢力拡大を制約することができたことは、アメリカの外交上の勝利と言われた。

ワシントン体制の動揺と崩壊

 日本は1920年代には、幣原喜重郎外相が主導し、世界的な国際協調に歩調を合わせる「協調外交」を掲げ、ワシントン体制の枠内で外交を展開していたが、1929年の世界恐慌が波及して、1930年には昭和恐慌に見舞われ、その頃からの軍部・右翼の台頭によって、次第にワシントン体制打破を主張する声が強まり、軍の政治介入と相まって、幣原外交は困難となっていった。
最終的には、1931年に中国駐留軍である関東軍が、満州事変を起こし、満州国を樹立したことによって、日本はワシントン体制の東アジア国際秩序を真っ向から否定することとなった。
 日本は1932年、国際連盟から脱退して国際協調に背を向けることになった。1934年末にはワシントン海軍軍備制限条約破棄を各国に通告し、最終的にワシントン体制から離脱した。1937年7月に日中戦争が起きると、10月に国際連盟は日本の行動を九カ国条約違反であるとして非難決議を出し、11月にはベルギーのブリュッセルで九ヶ国条約締結国会議を召集したが、日本は参加を拒否した。

第二次世界大戦へ

 アジアにおけるワシントン体制の崩壊は、ヨーロッパにおいてナチス=ドイツ、ファシスト党=イタリアの台頭によってヴェル サイユ体制が崩壊していくことに歩調を合わせており、ヴェルサイユ体制打破を叫ぶヒトラーの指導するナチスが1933年にドイツの権力を掌握、同年日本に続いて国際連盟を脱退し、さらにロカルノ体制打破を掲げて1936年3月7日ラインラント進駐を強行した。
 ワシントン体制、ロカルノ体制の動揺から崩壊への過程は、1939年の第二次世界大戦太平洋戦争へと収斂していく。
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