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九カ国条約

1922年、ワシントン会議で成立した中国に関する国際条約。中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等の原則を定め、ワシントン体制を構成した。調印した日本は二十一カ条要求で得た山東権益を返還した。その後も日本の中国侵出を抑える働きをもったが、日本は事実上、条約を無視するに至る。

 1922年2月、ワシントン会議によって成立した中国に関する条約。中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・機会均等を確認し、日本の二十一カ条の要求で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを決めた。9カ国とは日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国。中国が参加していることに留意しよう。
 アメリカは1899年にジョン=ヘイ国務長官が門戸開放宣言を発表、翌年の領土保全とあわせて中国の門戸開放・機会均等・領土保全を三原則とすることを主張しており、この九カ国条約はその主張を国際法規として認めることとなった。

資料 九カ国条約(要約)

  1. 第1条 中国以外の締約国は、以下に同意する。
    1. 中国の主権、独立、領土的ならびに行政的保全を尊重すること。
    2. 中国に対して効率的かつ安定した政府の確立、維持に最大限の支障のない機会を提供すること。
    3. 中国全域で、すべての国民が通商と産業に関する機会均等の原則を・・・行使すること。
    4. 友好国の臣民ないし市民の権利を減殺するような特別の権利や特権を追求するために、中国における情勢を利用することや友好国の安全に有害となる行為を容認することを慎むこと。
  2. 第3条 中国における門戸開放あるいは通商と産業に関する機会均等の原則をすべての国民により効率的に適用するために…………独占権、優越権を中国に要求しない。
  3. 第4条 締約国は、中国領土における勢力圏の設定あるいは相互の独占的機会を享受するため…………締結するいかなる協定も支持しないことを約定する。
  4. 第7条 締約国は、そのうち一ヶ国の意見でも本条約の条項の適用に関わり、そうした問題について協議することが望ましいと認めるような事態が生じたときにはいつでも、関係条約締結国の間で十全かつ隔意なく意思の疎通がなされることを約定する。
問題点 この条約で日本を含む締約国は中国の領土保全、門戸開放を約束したが、その原則を侵犯したときの制裁措置の規定はなく、また当事者である中国が要求したそれまでの列強による特殊権益や不平等条約の解消など含まれず、将来に問題点を残した。<歴史学研究会編『世界史史料10』2006 岩波書店 p.101-102>

ワシントン体制

 アメリカ合衆国は国際連盟に不参加であったが、1920年代は世界最大の工業力を背景に、国際関係の基軸となることを自覚して外交政策を積極外交に転換した。特にアジア・太平洋地域での主導権を得て、日本の侵出を抑えることを目指した。ワシントン会議の開催はその表れであり、海軍軍備制限条約(五カ国条約)の他、太平洋に関する四カ国条約とこの中国に関する九カ国条約の締結を実現した。これによってできあがった、アジア・太平洋地域の国際秩序をワシントン体制といい、ヨーロッパ国際秩序であるヴェルサイユ体制とともに戦間期の国際協調をささえる体制となった。

日本、山東省権益を中国に返還

 実質的なねらいは、大戦中に「二十一カ条の要求」を中国に認めさせ、ドイツとロシアの後退に乗じて大陸進出を積極化させた日本の動きを、アメリカとイギリスが抑えようとしたことであった。日本は国際協調の国際世論に押され、二十一カ条の要求で獲得した山東省の旧ドイツ権益(膠州湾)の返還を認め、アメリカの外交上の勝利と言われた。またアメリカとの間で交わされていた石井・ランシング協定も破棄されることとなった。なお、日本と中国の間には山東省権益の返還については「山東懸案に関する条約」が締結され、山東問題は最終的に解決を見た。

九カ国条約の効力と限界

 ワシントン体制に組み入れられることとなった日本も、1920年代には幣原喜重郎外務大臣が主導する協調外交を展開した。日清・日露戦争・第一次世界対戦参戦と10年ごとの戦争によって、日本は中国大陸侵出の足場を築いていったが、九カ国条約で中国の主権尊重・領土保全を認めたことで、その勢いは停滞せざるを得なくなると同時に、軍事行動の口実を「権益の自衛」と「居留民の保護」に置くこととなった。
 中国では五・四運動以降、列強の帝国主義に従属している北京の軍閥政権に対する非難が急速にたかまり、民族の統一と独立を求める運動具体化していった。1924年には孫文の主導する第1次国共合作が成立、翌年には大規模な反帝国主義民衆蜂起である五・三〇運動が起こった。1926年には蔣介石北伐が開始され、北京に迫った。これを中国の混乱ととらえた日本は、2度にわたり山東出兵を行ったが、これは九カ国条約に反することであったので、口実を「居留民保護」として実行された。一方、日本は満州では軍閥との提携を進めていたが、1928年には関東軍張作霖爆殺事件によって満州での権益拡大をはかった。日本政府は国際的非難を避けるために事件を明らかにすることができなかった。

ワシントン体制の崩壊

満州事変 関東軍による武力による大陸権益拡張の動きはさらに強まり、1931年9月18日の満州事変勃発となったが、これらは九カ国条約および不戦条約(1928年8月、日本も調印して成立)に違反することなので国際的に認められることではなく、国際協調の立場に立つ日本政府は苦慮することとなった。アメリカ(フーヴァー大統領)は1932年1月、スティムソン・ドクトリンを発表、日本の軍事行動は九カ国条約と不戦条約に違反しているので承認できないと表明した。しかし、当時アメリカは世界恐慌の渦中にあったので、それ以上の行動に出ることはなかった。
 関東軍の北満、錦州への戦線拡大を抑えられなかった幣原外相は、国際公約とした満州事変の不拡大を守れなかったとして辞任、若槻内閣が倒れて国際協調外交は終わりを告げ、次の犬養内閣は満州国承認に消極的であったことから海軍軍人に殺害されて政党政治も終焉を迎えた。
 その後も日本は中国大陸侵攻は、九カ国条約の建前があるため、あからさまな侵略という形になることをさけて「事変」という名の権益の防衛、居留民の保護を口実として進められ、さらに満州国設立に成功してからは、現地の民族の自治・独立を支援するという形をとった。1935年以降進められた華北分離工作や内蒙古工作もそのような論理であった。
 しかし、世界的な動きは、ヨーロッパにおいてナチス=ドイツ、ファシスト党=イタリアが急速に台頭し、正面からヴェルサイユ体制の打倒を掲げて行動を起こし、周辺への領土的野心を露わにしていく中で、国際連盟の限界が明瞭となってロカルノ体制と言われたヨーロッパの協調態勢が崩れるとともに、アジア・太平洋においてもワシントン体制とそれを支えた九カ国条約は実効性を失っていった。日本は1934年末にワシントン海軍軍備制限条約破棄を通告し、最終的にワシントン体制から離脱した。
 1937年7月7日、盧溝橋事件から日中戦争が始まったことをうけ、10月には国際連盟は日本の行動を九カ国条約違反であるとして非難決議を出した。さらに、11月3日には国際連盟の提唱でベルギーのブリュッセルで九ヶ国条約締結国会議が召集されたが、日本はすでに国際連盟脱退しており、その要請にも応えず、出席を拒否して事実的に条約を廃棄した。
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