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建艦競争(イギリスとドイツの)

19世紀末から20世紀初頭、ドイツとイギリスが軍艦の建造を競った海軍軍備拡張競争。1898年、ドイツのウィルヘルム2世の艦隊法に始まるが、本格化するのは1905年から第一次世界大戦直前まで。帝国主義の時代における列強の軍備拡張競争の最も典型的な例と言える。

建艦競争
建艦競争
 ドイツ帝国ヴィルヘルム2世世界政策のもとで、1898年、イギリスに対抗できる海軍力の建設を開始、イギリスも対抗して艦隊建設を進め、両国はその後それぞれの国力、工業力を挙げて艦隊建造を競った。1905年にはイギリスはドレッドノート級とわれる大型戦艦の建造を開始、ドイツもそれに対抗して建艦競争は歯止めなく進行した。二国間の競争がそれぞれの経済負担が増大したため、たびたび両間の調停が試みられたがいずれも失敗し、第一次世界大戦へと突入した。

ドイツの外交政策転換

 ドイツは19世紀後半に普仏戦争の勝利を契機としてドイツ帝国を成立させ、ビスマルクの主導のもと、工業化を達成するとともに軍国主義態勢を作り上げ、19世紀末の帝国主義時代には世界の強国の一つとされるに至った。しかしビスマルク外交は勢力均衡論に基づき、列強のバランスを重視するものであり、また植民地獲得ではイギリス、フランスに後れを取っていた。1888年に皇帝となったヴィルヘルム2世は、1890年にビスマルクを辞任させ、ドイツの対外政策を大きく転換させた。

建艦競争の開始

 ウィルヘルム2世のドイツは1898年に第1次の艦隊法を制定、戦艦、巡洋艦を含む艦隊計画を実施に移した。さらに、1901年の第2次の建艦法で、艦隊建造予算は単年度ではなく数年にわたる予算として決定し、議会の抵抗を抑えた。海軍拡張計画は主として海軍大臣のティルピッツによって立案、推進された。
 このドイツの海軍拡張は当然イギリスを刺激し、両国による激しい建艦競争が展開された。イギリスが1905年にドレッドノート級(弩級)戦艦の建造に着手すると、ドイツも計画を拡大、さらに1908年には毎年4隻の戦艦建造を計画した。それに対してイギリスは「二国標準主義」を唱え、ドイツの4隻に対して8隻建造する計画を立てた。

参考 イギリスの「二国標準主義」

 イギリスの「二国標準主義」とはドイツの2倍の戦艦を建造する、という意味ではなく、それ以前からイギリス海軍の基本方針でとして海軍力世界第一位の優位を保つには、海軍力第二位と第三位の二国の合計海軍力を上まわっている必要があるという思想のことを言う。19世紀末までは第二位がフランス、第三位がロシアだったが、フランス海軍は伸び悩み、ロシア海軍が日露戦争で敗れたことにより、情勢は大きく変化し、1905年からは第二位がアメリカ、第三位がドイツとなった。イギリスはそれぞれ相手を仮想敵国の対象とするようになった。ここからイギリスはドイツの海軍力の増大を抑える必要があると意識し、建艦競争が本格的にスタートする。<この項、代ゼミ教材センター越田氏のご教示による>

ティルピッツの「危険」理論

 帝国主義の全地球的な拡大によって、海軍力が世界の強国としての地位を得る条件であると考えられるようになり、各国が海軍の強大化を競ったが、そのなかでも特に急激な艦隊の建設を推進したのがドイツであり、それを提唱したのが海軍大臣ティルピッツであった。ティルピッツは、他国がドイツ海軍と戦う場合に、それによって危険にさらされることを覚悟しなければならない程度にドイツ海軍を強化するという理論(?)をたて、それは「危険」理論といわれた。このティルピッツの理論は、ドイツの世界政策をささえるものでもあった。<岡部建彦『二つの世界大戦』世界の歴史20 1978 講談社 p.15>

Episode “超弩級”の意味

 最近はあまり聞かれないが、以前は良く“超弩級の大作”とか“超弩級のスペクタクル”などと映画の宣伝によく使われていた。この“超弩級”とは、弩級を超えるという意味で、弩級とはイギリスの戦艦ドレッドノート号クラスのこと。超ド級と書いてもよい。ドレッドノート Dreadnought とは「恐れを知らない」という意味で、ドレッドノート号は1906年に建造された排水量17900トンで30センチ砲10門を備えていた(広辞苑)。それを超える大型戦艦を超弩級といったわけで、建艦競争時代の言葉として日本でも大正年間からよく使われた。しかしその後、大艦巨砲時代に突入すると、各国の戦艦は殆ど「超弩級」となった。第二次世界大戦期には日本海軍の戦艦「大和」(排水量64000トン)や「武蔵」(排水量65000トン)が建造されたが、その頃には航空機の発達で無用の長物になってしまった。

建艦競争から世界大戦へ

 イギリス・ドイツの二国間軍拡はこうして展開されたが、その一方でイギリスは単独でのドイツ包囲は困難と判断してフランスとの提携を重視するようになり、1904年に英仏協商を成立させた。またドイツの3B政策は、イギリスの3C政策との対立、二度にわたるモロッコ事件などでイギリス・フランスの提携は強まり、1913年には英仏海軍協定を締結、イギリス海軍は主力を北海に置き、フランス海軍は地中海に置くことで合意し、ドイツ海軍に備えることとした。
 一方ドイツは、バルカン方面ではオーストリアとともにロシアの南下と敵対しており、次第に英独の二国間競争という形態ではなく、英仏露の三国協商と独墺を軸とした三国同盟の軍事同盟間の対立へと転換し、1914年の第一次世界大戦勃発へと向かった。

海軍軍縮「海軍休日」へ

 大戦後、ヴェルサイユ条約によってドイツの軍備制限は大幅に実施され、ドイツは海軍力をほぼ失った。代わってイギリスに対抗できる海軍力を持ったのはアメリカ合衆国であり、それとともに日本であった。日本は日露戦争で勝利し、第一次世界大戦では被害を受けることなく軍備拡張の機会を得て新たな海軍大国として登場した。世界大戦後の国際協調の気運が高まる中で、平和維持のためには列強と言われた国々が歩調を合わせて軍備拡張路線を放棄する必要が認識されるようになり、特に海外領土獲得手段としての海軍力の制限が課題となったが、そこでの制限の対象となったのは日本の海軍力であった。国際協調の最初の成果は、1921年からのワシントン会議によって翌1922年にワシントン海軍軍備制限条約が締結された事に現れた。これは主力艦を対象としたものであったが、その締結によって新規の戦艦建造はできないことになったので建艦競争の時代は終わり、海軍休日(建艦休日)といわれる時代となった。しかし、海軍力はイギリスとアメリカの優位が固定されたため、日本海軍には強い不満が残るものであった。

繰り返された軍拡競争

 第一次世界大戦前のイギリスとドイツの建艦競争と同じような軍拡競争は、第二次世界大戦後の冷戦時代に米ソの核兵器開発競争として再現された。しかしこの競争は、アメリカ・ソ連ともにその経済や社会を行き詰まらせることになり、両者は中距離核戦力全廃条約で「おたがいにやめましょ」方式でその制限に同意せざるを得なくなった。核戦争防止協定も成立している。しかし、ワシントン海軍軍縮条約がイギリス・アメリカの優位を維持するために妥協したものであったのと同じように、核不拡散条約(NPT)は核保有国を固定化するという妥協の道を選んだ。こう見てくると、軍縮協定は当事者だけでなく「みんなでやめましょ」方式でなければ意味がないというのが歴史の教訓であるようだ。
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