アメリカの外交政策
18世紀末に独立してから、初代大統領ワシントン以来、伝統的に孤立主義を採り、19世紀前半にモンロー主義として外交の基本姿勢とした。しかし19世紀後半、大国化するとともに帝国主義的な海外介入を展開、第一次世界大戦に参戦した。戦間期を通じて孤立主義か国際協調主義か揺れが続いたが、ファシズムの台頭はアメリカを第二次世界大戦に巻き込み、連合国の勝利をその力で実現したことから、戦後は世界的覇権を握った。20世紀末の冷戦終結からその力は大きく揺らいだとはいえ、現在もなお強大な影響力を有しながら、孤立主義的伝統の傾向もときおり表面化している。
- ・アメリカ外交姿勢の概観
- (1)アメリカ外交の孤立主義
- (2)アメリカ帝国主義
- (3)戦間期のアメリカ外交
- (4)冷戦とアメリカ外交
- (5)アメリカ外交の多面化
- (6)冷戦終結後のアメリカ外交
- (7)9.11以後
アメリカ外交姿勢の概観
近代世界最初の民主主義国家であったアメリカ合衆国は、1774年の建国当時のワシントン、ジェファソン以来、孤立主義といわれ、ヨーロッパの君主国家とは一線を画して、ヨーロッパ諸国の戦争に対しては中立策をとっていた。それは1823年のモンロー教書によって明確にされたのでモンロー主義とも言われ、以後のアメリカ合衆国の外交姿勢の基本となった。19世紀末にはアメリカは世界の大国となると、ヨーロッパへの不介入という孤立主義を維持しながら、ラテンアメリカさらに太平洋方面に進出し、1898年の米西戦争でフィリピンなどを殖民地として所有する帝国主義国家となった(アメリカ帝国主義)。孤立主義を守ることを公約し、ヨーロッパ列強の対立から中立を守っていたウィルソン大統領であったが、ドイツの侵略的な軍事行動が強まると、途中から民主主義の擁護の立場から第一次世界大戦に参戦し、孤立主義を転換させて国際協調を提唱して戦後国際社会のリーダーをめざした。しかし、議会の反対で国際連盟に加盟できず、戦後は孤立主義に戻ってしまった。戦間期には孤立主義の時期であったが、世界の最強国という立場となったアメリカはドイツ賠償問題の解決、不戦条約、ワシントン海軍軍縮条約などでは国際協調の重要な役割を担うこととなった。しかし世界恐慌後の30年代に、ヨーロッパでファシズムが台頭すると、アメリカの孤立主義の基本姿勢はかえって強化され、1935年に中立法を制定した。
こうして第二次世界大戦の勃発に対しても当初は参戦しなかったが、ファシズムの脅威が強まる中、F=ローズヴェルト大統領はイギリス・ソ連との連合国結成に動き、日本の真珠湾攻撃を受けて第二次大戦への参戦、再び世界戦争に直面して孤立主義を放棄した。以後、アメリカ合衆国は現在まで孤立主義をとることはなくなっており、逆にファシズムや共産化の脅威から世界を守り、「自由主義・民主主義」といったアメリカの理念を世界に拡大していくという、ウィルソン的な理念型の外交姿勢が目立つようになる。大戦後はアメリカは国際連合を中心とした国際協調の中で重要な役割を果たすこととなったが、社会主義国ソ連の東欧での進出を受けて関係が悪化して東西冷戦期となると、資本主義陣営の盟主として、厳しくソ連陣営と対立し朝鮮戦争・ベトナム戦争などに積極的に関わった。
しかし、1970年代には冷戦の枠組みが変化し、アメリカもドル=ショック(ドル危機)にみまわれ反戦運動が激化し、中国との国交回復など大きな転換を余儀なくされ、資本主義陣営でもアメリカの一極支配は終わり、西欧と日本との三極構造に転換した。さらにオイル=ショックが世界経済のあり方を大きく変化させることになり、アメリカの主導権は失われ、世界経済は先進国首脳会議(サミット)を最終調整の場とするようになった。
1989年の東欧革命から一気に冷戦の終結に進み、ソ連の崩壊した1990年代以降は、各地で民族紛争、宗教対立が吹き出すこととなった。国際連合とアメリカの関係はからずしも良好ではなくなり、アメリカの中に国連の枠組みの中で行動するより、単独で軍事行動を展開する傾向が強くなり、孤立主義に代わる、単独行動主義(ユニラテラリズム)が台頭した。それは2001年の9.11同時多発テロ後に、対テロ戦争を掲げた共和党ブッシュ(子)政権から顕著となった。21世紀に入ったアメリカ合衆国は、かつてのような優越した軍事力を背景として世界の警察官としてふるまうことはなくなった。また冷戦という枠組みがなくなったことにより、明確な外交基軸をもつこともなくなった。そのなかで民主党オバマ政権、共和党トランプ政権という政権交代により、アメリカ外交は国際協調と単独行動主義との間で激しく揺り動くこととなった。
以上、アメリカ合衆国の外交政策の推移の素描であるが、各時期を補足すると次のようになろう。
(1)アメリカ外交の孤立主義
孤立主義の源泉
アメリカ合衆国初代大統領ワシントンは離任に際しての告別演説で「世界のいずれの国家とも永久的同盟を結ばずにいくことこそ、われわれの真の国策である」と述べている。これはアメリカ外交における孤立主義の源泉とされているが、正確に言えば非同盟主義である。近代世界最初の共和制国家として独立したアメリカ合衆国が、新興の弱小国として「旧世界」ヨーロッパ君主国の権謀術数に巻き込まれないようにする叡知であり、外交よりも内政を重視する姿勢であった。この姿勢は1800年に大統領となったジェファソンによって外交路線として定着した。彼は国内発展に先進して1803年にフランスからルイジアナを購入し、国土を独立時から一挙に倍となり、アメリカの大国化の基礎が出来上がった。 → アメリカの領土拡大
米英戦争
ヨーロッパでナポレオン戦争が激化してもアメリカ合衆国は既定路線どおり、中立策を維持していた。しかし、1806年、ナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスもそれに対抗してアメリカとフランスの貿易を妨害するようになると、中立政策を維持することは困難となった。議会内には戦争に乗じて西部進出の障害となっているインディアンとイギリスの同盟を断ち切り、あわよくば英領カナダ進出などを目論む好戦派(タカ派)が台頭、1812年にイギリスに対して宣戦布告して米英戦争に踏み切った。この戦争ではアメリカはカナダに侵攻するなど膨張的であったが、かえって首都をイギリス軍に占領されるなど苦戦し、南部でジャクソン将軍が一矢を報いただけで痛み分けで終了した。米英戦争でイギリスに味方したインディアンの土地を奪っただけでなく、1819年にはフロリダをスペインから買収した。そのころアメリカの独立とフランス革命に刺激されてラテンアメリカの独立が次々と達成されていった。
モンロー教書
ウィーン体制下のヨーロッパでロシアを中心とした君主国による神聖同盟が結成され、メッテルニヒがラテンアメリカの独立運動に干渉、ロシアがアラスカから太平洋岸を南下するなどが明らかになってきたのを受け、1823年、モンロー大統領はモンロー教書を発表した。それはヨーロッパへの不介入を宣言したもので、孤立主義の路線を継承した面もあるが、さらに一歩進めて西半球からヨーロッパ諸国の勢力を排除し、合衆国の覇権を確立するねらいが付け加えられたものであった。モンロー主義は対ヨーロッパでは孤立主義であるが南北アメリカ大陸に対しては覇権主義的な二面性を持っていた。国内では、19世紀の前半はジャクソン大統領の時代に西部開拓が進むとともに、ジャクソン=デモクラシーといわれるアメリカの民主主義が定着ししていった。
メキシコとの戦争
1821年に独立したメキシコ共和国は現在のアメリカ領であるカリフォルニアやテキサスまでを含む広大な領土をもっていたが、その辺境地帯には共和国の統治は十分行き渡らず、アメリカ人の入植者が次々と入り込んでいった。テキサスでは1836年にアメリカ人入植者が一方的に独立を宣言しテキサス共和国を樹立、公然とメキシコと敵対することとなった。アメリカ国内にもテキサスを支援する動きが強まり、1845年12月にアメリカ政府はそれを併合した。それを認めないメキシコとの間で1846年に強引にアメリカ=メキシコ戦争に持ち込み、首都メキシコシティを占領するなど武力行使によって1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得した。この戦争はアメリカ国内でも正義に反するという反対論(例えば後の大統領リンカン)もあったが、議会多数の支持で実行された。これはアメリカが大陸での大国主義、覇権主義に傾き、そのためには侵略も辞さないという国家に転換したことを示していた。太平洋・アジアへの関心
1848年、この時獲得したカリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まると、フロンティアをめざすアメリカ人の西漸運動が「明白な天命」という標語のもと展開され、アメリカ合衆国は太平洋岸に達することとなった。アメリカが太平洋に進出することによって、アメリカのアジアへの関心が生まれ、捕鯨船の寄港地を得るために日本の開国を求めるべくペリーを派遣、1854年の日米和親条約を締結、アメリカのアジア外交が開始された。太平洋の捕鯨業の拠点ハワイは、当時ハワイ王国が統治していたが、アメリカ人の入植が次第に増加し、特にサトウキビを栽培して砂糖プランテーションを経営する者が増え、砂糖産業が一大産業となっていった。現地のアメリカ人の中にはハワイをアメリカに併合する主張も強くなった。
(2)アメリカ帝国主義の外交
南北戦争の克服
アメリカ合衆国の19世紀に入っての急速な領土拡張の結果、工業を主体とした北部と、黒人奴隷労働による綿花大農園を基盤とする南部との構造的対立が深刻となり、ついに南北戦争の勃発となった。この戦争がリンカンの指導する北部の勝利に終わったことよって、アメリカ合衆国は、政治体制・経済体制において北部工業地帯の主導する大国となり、ナショナリズムが高揚することとなる。並行してアメリカの産業革命が進行し、アメリカ資本主義は莫大な資源と、移民という安価な労働力によって急成長を遂げることとなった。帝国主義期の外交
そして1890年代にフロンティアの消滅、さらにアメリカの工業力がイギリスを抜いて世界一となると、孤立主義外交路線は変質し、ラテンアメリカ・太平洋方面への膨張的な動きが強まった。米西戦争 このアメリカ帝国主義が明確に現れたのが、共和党のマッキンリー大統領の時の1898年4月に開戦した米西戦争であった。その勝利によってキューバの保護国化、フィリピン領有をはかり、かつて植民地であったアメリカがこんどは植民地をもつ国となり、大国となった(もっともまだ国民的なレベルでは大国意識は成立していない)。
ハワイ併合 ハワイでは1893年、アメリカ人入植者のクーデタによってハワイ王国が倒され、その首謀者は直ちにアメリカへの合併を望んだが、時の民主党クリーブランド大統領はそれを拒否した。ところが大統領が共和党マッキンリーに交代したことによって1898年8月、議会も合併を承認した。このあたりでは膨張の抑制か拡大かはまだせめぎ合う関係であったことが判るが、米西戦争の勝利が一気にアメリカ外交の姿勢をアイガイ膨張路線に舵を切らせることとなったことがわかる。
中国への進出 アメリカは列強の中国分割に後れをとっていたため、翌1899年には、国務長官ヘイの名で、中国の門戸開放宣言を発した。これは中国の“領土保全”を言いながら、市場へのアクセスを”機会均等”にせよ、という主張であり、アメリカ資本主義が太平洋を越えて中国という巨大な市場に目を向け始めたことを意味する。そしてその利害はイギリス、日本と鋭く対立することとなり、その2国は間もなく日英同盟(1902年)締結する。 → 帝国主義 帝国
棍棒外交 アメリカのカリブ海政策は、さらにT=ローズヴェルト大統領(在職1901~1909)のもとで積極化された。彼は中米地域に対して棍棒外交といわれる強圧的な進出を図り、キューバを保護国化し、パナマ共和国を強引に独立させ、パナマ運河の権利を獲得するなどラテンアメリカ地域を「わが庭」とする姿勢をとった。このようなモンロー主義の拡大解釈は「ローズヴェルトの系論」といわれた。
対日外交の変質 T=ローズヴェルトは1905年に日露戦争の仲裁を行い、桂=タフト協定で日本の朝鮮半島支配とアメリカのフィリピンの領有を相互に承認させた。しかし、日本の満州進出が明確になると、アメリカは次第に日本を警戒するようになり、翌年には日本人移民排斥運動が西海岸で激しくなった。1908年の高平・ルート協定で沈静化を図った
ドル外交 次の共和党タフト大統領(在任1909~1913)は、軍事力よりも経済面での覇権を強め「ドル外交」といわれた。それは「弾丸に代えてドルで」という、経済力によってラテンアメリカ地域の支配と東アジアに門戸開放を図ろうとしたものだった。しかし、中国への進出は、満州への進出を図っていた日本との対立をさらに強め、アメリカ外は新たな局面を迎えることとなった。このように、1905年の日露戦争後に、アジアをめぐる日米の対立という新たな対立軸が生まれた。
宣教師外交 1913年に就任した民主党ウィルソン大統領はラテンアメリカに対しては民主主義を育成するという姿勢に転じ、メキシコ革命に介入したが、その宣教師外交といわれるアメリカの理念を他国に押しつける外交は失敗した。これは、後のアメリカのベトナム戦争の失敗や、現在のイラク問題の混迷などの先例として見ることが出来る。
第一次世界大戦とアメリカ外交
1914年7月、第一次世界大戦が勃発したが、世論や議会はヨーロッパの戦争にアメリカの青年の血を流すべきでないという声が強く、ウィルソン大統領も当初は中立を守った。しかしが、英仏が敗北すれば債権の回収が困難になることを恐れ、経済支援を強めていった。直接的にはドイツ軍の無制限潜水艦作戦宣言を受け、大戦後半の1917年4月に第一次世界大戦に参戦した。これはアメリカ伝統の外交政策である孤立主義を放棄したことを意味している。ウィルソンは参戦するにあたって、その大義を、「専制政治に対する民主主義の戦い」と表明し、同時に秘密軍事同盟や、領土獲得や賠償金を戦争目的とするそれまでの大陸諸国の外交原則を非難した。また同年、ロシア革命が起こって社会主義政権が登場し、11月にレーニンが「平和についての布告」で無賠償・無併合・民族自決による即時講和や秘密外交の禁止を提唱したことに対する対抗もあって、ウィルソンは戦後国際社会の主導権を握るため、1918年1月に14カ条の原則を提示し、秘密条約の禁止、民族自決とともに国際連盟の設立など、従来のヨーロッパ列強間の勢力均衡論による平和の維持に代わり、集団安全保障による平和維持の理念を提唱した。
第一次世界大戦中の1915年、日本は中国に対して二十一カ条の要求で山東半島や南満州に大きな利権を獲得した。それに対してアメリカは批判的態度であったが、大戦中は日本に対する圧力を加えることはなく、大戦後の国際協調路線の中で日本を孤立化させ、山東半島については中国に返還させることに成功した(ワシントン会議)。また、大戦末期にロシア革命が起きると、イギリス・フランス・日本と共に1918年、チェコ兵捕虜の救出を口実にシベリア出兵を行った。ウィルソンはロシア革命には同情的であったが、日本の大陸進出を牽制する意味もあって共同出兵に踏み切った。
(3)戦間期のアメリカ外交 孤立か協調か
ウィルソン外交
パリ講和会議では敗戦国に対する賠償金請求や領土併合を極力抑えようとしたが、その意図は実現せず、英仏の主張するドイツに対する苛酷な戦後処理が行われることとなり、ウィルソンの新外交原則は実現せず、旧外交原則が復活してしまった。1919年に締結されたヴェルサイユ条約に盛り込まれた国際連盟の設立は実現したが、アメリカ議会は孤立主義の原則の維持を主張する声が大勢を占め、その批准を拒んだため、結局アメリカは国際連盟に加盟せず、戦後の集団安全保障体制は不完全なものとして出発しなければならなかった。ウィルソンの提言は完全には生かされなかったが、人類最初の国際協調機関である国際連盟が発足したことは意義深いものがある。国際協調か孤立主義か
二つの大戦の間、戦間期のアメリカ合衆国の外交政策は国際協調主義と孤立主義のせめぎあいという状況が続いた。議会の保守勢力(共和党)の中には孤立主義が根強く、国際連盟には加盟しなかったが、第一次世界大戦を機にワシントン体制 すでに1914年にパナマ運河が開通し、アメリカの世界戦略の視野に太平洋、中国大陸が入ってきていた。第一次世界大戦後は中国を潜在的市場と考えるようになり、そこでは日本との利害対立が明確になっていった。また、大戦前の海軍大国イギリスに替わって、アメリカと日本が急速に海軍力を拡大し、両国の新たな建艦競争は戦争の再発の不安増大と経済圧迫の要因となっていった。その解消を図るためにアメリカは1920年代には国際協調という理念の下で海軍軍縮と中国・太平洋問題の解決を図り1921年からのワシントン会議を主催、巧みな外交で日本を押さえ込むことに成功した。九カ国条約では山東半島の利権を返還させ、四カ国条約では日英同盟を破棄させることに成功した。ここで創り出されたアメリカの優位なアジアの国際秩序はワシントン体制と言われる。
孤立主義の変質 第一次世界大戦を転機として、伝統的なヨーロッパからの干渉からアメリカを隔離するための隔離的孤立主義から、アメリカの優越的立場を守るための優越的孤立主義に変質したと捉えることが出来る。
(引用)アメリカ上院によるヴェルサイユ条約の批准拒否に続いて、1920年の大統領選挙において共和党のハーディングが勝利をおさめ、以後のアメリカは孤立主義をその外交方針として掲げた。しかし、第一次世界大戦後の世界の覇権を握り、優越した国際的地位の上に立ったアメリカの孤立主義は、ヨーロッパから自己を隔離する伝統的な孤立主義ではあり得なかった。それは、むしろ条約上の束縛を離れて行動の自由を確保しようとする優越的地位の自認であり、その必要とする限りでの対外干渉と両立するものであった。1920年代にはアメリカの外交政策はむしろ積極化するのである。<斉藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.95>
世界恐慌とファシズムの台頭
しかし、1929年に世界恐慌が起こると、フーヴァー大統領はアメリカ経済の破綻から始まった問題であったにもかかわらず対応に後れをとり、フーヴァー=モラトリアムでの賠償金の1年間支払い停止も効果なく、世界は急速にブロック経済化へと突き進んでいった。こうして資本主義経済の矛盾は、帝国主義の第二段階とも言うべき領土拡張、植民地拡大へと突入させていった。とくに、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制に不満を強めていた後発帝国主義諸国であるドイツ・イタリア・日本にはファシズムが台頭した。1930年代に入るとドイツではヒトラーのナチスが権力を奪い、ナチス=ドイツはヴェルサイユ条約を否認して再軍備を強行、イタリアのムッソリーニはエチオピア侵攻を行い、アジアでは日本が満州事変から満州国建国に向かい、その動きは国際連盟を中心とする国際協調をつき崩していった。
ニューディールと善隣外交 ファシズム国家の軍事的膨張が明確な脅威となる中で、民主党F=ローズヴェルト大統領は1933年からニューディール政策による経済立て直しに着手し、外交面ではラテンアメリカ地域に対する従来の強圧的な外交から善隣外交に転換した。これは、ドイツ・日本との戦争に備えてラテンアメリカを自陣に引き留めておく必要から出されたと言える。1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
中立法 F=ローズヴェルトはソ連を承認するなど協調的な姿勢も示したが、ヨーロッパでの英仏と独伊の対立、アジアでの日本の中国侵略、その背後にあるソ連の脅威など戦争の危機がますます強まった。しかしこの段階でもアメリカの世論は戦争には加わらないという孤立主義の立場を支持する声が強かった。それは、1935年8月に議会が中立法を可決したことにも表れている。中立法は交戦中の国に対しては武器輸出を行わないことなどを定めたもので、孤立主義の伝統を受け継ぐ外交姿勢であった。F=ローズヴェルトはファシズム国家との戦争は不可避と考えていたようだが、この段階では中立法に従っていた。
ローズヴェルトの隔離演説 しかしファシズム国家の攻勢は止まず、1936年にはいるとドイツはラインラント進駐を強行、イタリアはエチオピア侵略を実行し、スペイン戦争でもファシズム陣営が勝利した。そして翌1937年には日本が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まった。この危機の進行を受けて、F=ローズヴェルト大統領は1937年10月にシカゴで演説し、ドイツ・イタリア・日本を名指しを避けつつ、他国を侵略するという危険な感染症にかかった患者になぞらえ、世界から隔離すべきであると主張した。これは「隔離演説」(または防疫演説)として知られる演説で国際的にも反響が大きかったが、アメリカ国内の世論は批判的であり支持は広がらなかった。この時点でもアメリカ人の多くは参戦に反対するという孤立主義を支持していたのであり、それは第一次世界大戦への参戦に対する悔恨の気持ちがまだ強かったからであった。
第二次世界大戦 孤立主義の放棄
1939年、第二次世界大戦が勃発してもアメリカは参戦しなかったが、次第にファシズムの脅威が明らかになり、またアジア・太平洋方面では日本の進出がアメリカの利権を脅かすようになってくると、国内でも参戦の声が強まった。F=ローズヴェルトは1941年1月3期目の大統領就任演説で「言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」の「四つの自由」を護る戦いが必要であると訴え、同1941年3月、武器貸与法を制定してイギリスなどへの軍事支援に踏み切った。さらに独ソ戦の開始を受けて8月にチャーチル英首相との間で大西洋憲章を発表し、ファシズムに対する自由と民主主義の戦いという戦争目的を明らかにし、さらに戦後の国際平和維持機構の設立などで合意したが、ローズヴェルトは参戦には踏み切らなかった。第一次世界大戦の記憶が残る国内の世論では依然として孤立主義、というより、ふたたびヨーロッパの戦場でアメリカの青年の血を流すな、という声も根強かったからである。第二次世界大戦への参戦 1941年年12月の日本軍の真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦への参戦に踏み切った。国内世論の動向を見て、参戦の機会を探っていたローズヴェルトにとって、格好の口実を与えることになった。こうしてアメリカは孤立主義を放棄し、国際協調主義に転換した。
国際連合の結成 第二次世界大戦では、スターリン体制下のソ連とも体制の違いを超えて対ファシズム戦争という目的で一致して連合国の枠組みを作り、大戦中からたびたび首脳会談を重ねて国際連合の設立など基本的な戦後国際社会の枠組みで合意した。最終的には1945年2月4日のヤルタ会談で戦後の国際秩序の大枠で合意し、ドイツ・日本の降伏前の1945年4月にサンフランシスコ会議で連合国の会議を開き、国際連合憲章の採択した。F=ローズヴェルト大統領はそれより前の1945年4月12日に死去していたが、アメリカが国際連合に最初から加盟しそれを主導したのはその遺志に従って国際協調を外交の基本に据えたことを意味していた。
冷戦の萌芽 ヨーロッパ戦線、太平洋戦線で多大な兵力を投入して戦争を勝利に導いたが、戦後国際社会の主導権をめぐる米ソの対立は大戦中から始まっており、トルーマン大統領はアメリカが広島・長崎で人類最初の原子爆弾の使用に踏み切った背景でもあった。
(4)冷戦とアメリカ外交
冷戦前期(50~60年代)のアメリカ外交
アメリカ合衆国は戦後においても国際連合の中心となり、またブレトン=ウッズ体制で国際経済の復興をを支える役割を担うなど、国際協調主義の立場に立った。二つの世界大戦という大きな犠牲を払って到達した、集団安全保障という理念を現実のものとしたといえる。封じ込め政策 しかし、社会主義陣営ソ連との対立はまもなく表面化し、戦後は東西冷戦構造の中で、アメリカは自由主義・民主主義陣営の盟主をもって任じ、トルーマン=ドクトリンによって東側に対する封じ込め政策を提唱し、マーシャル=プランによって西欧諸国の経済支援を行ってその共産化を防ごうとした。それに対してスターリン体制下のソ連は強く反発し、チェコスロヴァキアのクーデターで親ソ政権を成立させるなどの攻勢を強めた。西ヨーロッパ諸国は西ヨーロッパ連合条約を締結して集団的自衛体制をつくり、アメリカにも協力を要請してきた。
ヴァンデンバーグ決議とNATO加盟 アメリカは国連の中心メンバーとして国際協調主義を取ることを明白にしていたが、この戦後のヨーロッパでの新たな危機に直面し、軍事的なリスクを負いながら集団的防衛に加わるのか、孤立主義に戻るのか、アメリカが試されることとなった。共和党の上院議員ヴァンデンバーグは、戦前は孤立主義を主張していたが、1946年1月に第1回国連総会にアメリカ代表の一人として参加して以来、その主張を転換させ、孤立主義を廃棄してヨーロッパの西側諸国との共同防衛に参加すべきであると主張するようになった。それは西ヨーロッパにおけるソ連の脅威を強く意識するようになったからであった。1948年6月11日に上院で可決されたヴァンデンバーグ決議は、アメリカはヨーロッパの軍事的同盟に積極的に参加することを認めたものとなったので、1949年4月に結成された北大西洋条約機構(NATO)に加盟することとなった。その後アメリカは、ソ連中心の共産主義陣営を封じ込めるためのいくつかの軍事同盟に加盟し、軍事同盟網を強化することで相手を抑止しようという外交姿勢を明確にしていく。これは国際連合の本来の理念である集団安全保障と矛盾する方向であった。東側陣営も軍事同盟結成を急ぎ、また1949年にソ連の核実験を成功させ、核開発競争によって軍事力のバランスを取るという、危険な状態に突入したが、東西両陣営の対立は東アジアでまず火を吹くこととなった。
朝鮮戦争
アメリカの支援した蔣介石が国共内戦で敗れ、共産党政権が1949年10月1日に中華人民共和国を成立させると、アメリカは東アジアの共産化の危機ととらえ、翌1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると国連軍としての出兵した。そのために日本との軍事協力を必要としたアメリカは日本に対して再軍備を指示するとともに、1951年にはサンフランシスコ平和条約で占領を終わらせ、日米安全保障条約を締結するという対日政策の転換をはかった。冷たい平和
1953年1月にトルーマンに代わって登場した共和党アイゼンハウアー大統領は、国務長官ダレスの提唱するまき返し政策をかかげ、ソ連との対決色を強めたが、同年のスターリンが死去を契機にソ連の共産党指導部がマレンコフ首相・フルシチョフ共産党書記らの集団指導体制に移行し、てから平和共存を模索するようになった。1955年の西側における西ドイツのNATO加盟と再軍備、東側におけるワルシャワ条約機構の結成は、冷戦構造を確定すると共に、両陣営が相互に相手を交渉相手として認めあう“冷たい平和”と呼ばれる状況を生じさせ、同じ55年のジュネーブ4巨頭会談でその端緒についた。キューバ危機
次いで1956年にソ連でスターリン批判が行われ、平和共存路線が明確になったが、一方でソ連は東欧共産圏への締め付けの強化(ハンガリー事件など)とともに核武装を強化してアメリカに対抗しようとした。1959年にはベトナム戦争とアメリカ一極体制の終わり
キューバ危機は解消されたものの、1960年代のアメリカ合衆国はアジアの共産化の防止という意図からベトナムへの介入を強めてベトナム戦争に突入した。しかしその長期化はアメリカ経済の行き詰まりとともに激しい反戦運動の広がりをもたらし、アメリカ合衆国の一体感を損なうこととなり、1971年にはニクソン大統領はドル危機の解消のためドル=ショックといわれる処置をとらざるを得なくなった。これは戦後の資本主義陣営の中のアメリカ一極体制が崩れたことを意味しており、統合を進めた西ヨーロッパ諸国、戦後復興を遂げた日本との三極構造に転換することとなった。戦後のもう一つの大きな変化であるアジア・アフリカ・中東などでの民族独立の進展が、新しい国際情勢をもたらした側面もある。(5)アメリカ外交の多面化
冷戦後期(70~80年代)のアメリカ外交
キッシンジャー外交 1970年代、共和党ニクソン政権・フォード政権の国務長官キッシンジャーによって主導されたアメリカ外交は大きく転換する。それは従来の理念的な孤立主義外交や国際協調外交といった枠組みではなく、国際社会の勢力関係の中で現実的な国益を探ろうという現実主義外交であり、ベトナム戦争の有利な終結をめざして中国と関係改善に踏み切るという大胆な転換を行った。キッシンジャーはまず1971年、日本の名古屋で行われた世界卓球選手権の際に中国がアメリカの卓球チームを招待したことからひそかに中国との接触を開始、パキスタンを通じて極秘裏に中国訪問を訪問、毛沢東や周恩来に接触し、1971年7月15日に翌年の2月にアメリカ大統領ニクソンの中国訪問を発表して世界を驚かせた。ニクソンの訪中は1972年2月21日に実現、ニクソンと毛沢東の会見が行われ米中共同声明(上海コミュニケ)で相互に承認するという成果をもたらした。キッシンジャーの活躍は「ピンポン外交」とか関係国を頻繁に往来することから「シャトル外交」と言われたり、また日本などの関係国にも交渉を事前に知らせなかったので、「隠密外交」などと言われた。1973年は米中和解を実現したことなどでノーベル平和賞を受賞、一躍国際的な名声を獲得した。 → キッシンジャー外交の特質
ベトナム戦争の終結 ベトナム戦争の和平協議は1968年以来のパリ和平会談がようやく最終局面を迎え、1973年1月27日にべトナム和平協定(パリ和平協定)が成立、同年3月、ニクソン大統領はアメリカ軍の撤退を開始、1973年3月29日までに完了した。1975年に南べトナム解放民族戦線によるサイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結した。
デタントからサミット外交へ
またキッシンジャー外交はデタント(緊張緩和)を進展させ、核軍縮を現実的にした。さらに第4次中東戦争の影響で起こった1973年のオイル=ショックによって、アメリカを先頭とした戦後資本主義経済の成長は終わり、低成長時代に入るという大きな変化が起こった。ニクソン大統領の辞任を受けて昇格したフォード大統領は1974年にブレジネフと戦略兵器制限交渉(第2次)(SALT・Ⅱ)を協議し、1975年には全欧安全保障協力会議(CSCE)を主催してヘルシンキ宣言をとりまとめた。しかし、1975年からは国際社会の調整はサミットの場に移り、アメリカもその一員に過ぎない存在となっていった。カーターの人権外交 1970年代末の民主党カーター政権は人権外交を掲げ、パナマとの新パナマ運河条約締結に合意、将来の返還を約束するなど協調的な外交を展開した。また70年代を通じて進展した中華人民共和国との米中国交回復は、1979年1月1日にカーターと鄧小平との間で正式な国交正常化が取り決められて終わった。そレニしたがってアメリカは台湾の中華民国政府と断交し、1980年に米華相互防衛条約が失効した。しかし、カーター外交は1979年2月のイラン革命に介入しようとしてイラン・アメリカ大使館人質事件が起こると、その処置に失敗し、次の大統領選挙で強硬外交を主張する共和党レーガンに敗れることとなった。
レーガン外交と新冷戦
一方の東側のソ連社会主義もこの間、硬直化、行き詰まりが深刻になっていた。硬直したブレジネフ体制の下で1979年12月にアフガニスタン侵攻が強行され、米ソ関係は新冷戦という対立に戻ってしまった。アメリカは共和党レーガン大統領が戦略防衛構想(SDI)強硬な核武装強化路線をとり、ラテンアメリカでは1983年のグラナダ侵攻や、ニカラグア革命への干渉など、強硬策をとった。このような「強いアメリカ」を掲げたレーガン外交は、新冷戦という新たな国際的緊張関係をもたらしたが、アメリカ国内では軍事支出が増大して財政赤字と貿易収支の赤字という「双子の赤字」で悩むこととなり、その解消のための「小さな政府」の提唱、社会福祉の縮小、規制緩和などの新自由主義経済政策が採られるようになった。冷戦の終結
このように米ソ両陣営で体制矛盾が強まる中、1985年のソ連のゴルバチョフ政権の登場以降、急速に社会主義陣営の自己解体が進み、1989年11月9日には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が開放され、一気にブッシュ=ゴルバチョフのマルタ会談での冷戦の終結宣言となり、その勢いはさらに91年のソ連崩壊に行き着くこととなった。(6)冷戦終結後のアメリカ外交
湾岸戦争とアメリカ外交
冷戦構造解体後の1990年代以降の国際社会では、湾岸戦争に見られるような地域紛争、さらに民族紛争・宗教対立が激化し、国際連合のPKO活動が行われるようになった。イラクのフセインによるクウェート侵攻に対しては共和党ブッシュ(父)政権は国連の多国籍軍の主力となって1991年1月に湾岸戦争を遂行した。ブッシュ共和党政権の覇権主義的な行動は、すでに1989年のパナマ侵攻に見られており、それはブッシュ(子)のイラク戦争の予行演習とも言われており、軍事力によって他国の主権を侵害し、アメリカにとって不都合な政権を排除するという、国際連合の精神に反する単独行動主義であった。クリントン外交
レーガン・ブッシュ政権の覇権主義的外交と緊縮財政は次第に国民のいらだちを強め、1993年から民主党クリントン政権に交替した。クリントン政権は経済復興を優先して安定を取り戻し、外交では中東和平でのオスロ合意、95年のベトナムとの国交回復などの成果を上げたが、パレスチナ問題はその後再び悪化している。旧ユーゴのボスニア紛争にも介入し、95年末にボスニア=ヘルツェゴヴィナ和平合意を成立させたた。1999年のコソヴォ紛争ではNATO軍とともに人道的介入と称してセルビアへの空爆に踏み切り、アメリカの軍事力依存体質が再び顕著となった。冷戦終結後、各地で民族紛争が激しく起こるようになり、アフリカでもソマリアやルワンダで深刻な危機に陥った。クリントン政権は国連平和維持軍(PKF)の主力として兵力を派遣したが、実効的な効果は上げることができなかった。
パックス=アメリカーナ
1990年代、冷戦の終結、ソ連の崩壊という事態からアメリカが唯一の軍事大国として存在感を増すこととなり、「民主主義と自由」を守る「世界の警察」として世界各地に軍事力を展開する姿勢は、「パックス=アメリカーナ」という言葉さえ生んだが、また同時に中東やアフリカ、中米、アジア各地で反米感情を根強くさせることとなった。参考 アメリカ外交の4潮流
アメリカの外交は必ずしも孤立主義が不動の原則なのではなく、いくつかの路線、理念が複雑にからまりながら、国際情勢と国内情勢の変化に伴って変転している。アメリカの外交政策に、(1)ハミルトン型、(2)ジェファーソン型、(3)ウィルソン型、(4)ジャクソン型、の4つの潮流があることをウォルター・ミード『神の特別なお慈悲』2001をもとに、村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.35-41で論じられている。それによると、各潮流は次のようにまとめることが出来るという。- ハミルトン型(ハミルトニアン) ・海洋国家をめざす。対外関与に積極的。国内の限界に楽観的。
- ジェファーソン型(ジェファーソニアン) ・大陸国家をめざす。選択的な対外関与。国力の限界に自覚的。
- ウィルソン型(ウィルソニアン) ・普遍的な理念を外交目標として追求。
- ジャクソン型(ジャクソニアン) ・国権の発動や国威の高揚を重視。軍事力に傾斜。
(7)9.11以後
9.11同時多発テロ
しかし、湾岸戦争以来のアメリカの行動に対する中東でのアラブ人の中に反発がかえって強くなり、21世紀に入った2001年9月11日に9.11の同時多発テロという事態となった。テロを国家に対する宣戦布告と見た共和党ブッシュ(子)政権は、報復的なアフガニスタン攻撃を行い、さらに2002年に「アメリカ合衆国の国家安全保障戦略」(ブッシュ=ドクトリン)を発表してテロリストとの戦いでは「先制的攻撃」が許容されるという、いわゆる先制攻撃論を明確にした。イラク戦争とユニラテラリズム
その上で、2003年3月、イラク・フセイン政権がタリバンの背後にあり、大量破壊兵器を所有していると判断して、国連決議のないままイラク戦争に踏み切った。このように9.11以後は、テロとの戦いという名目でのアメリカの軍事的な単独行動主義(ユニラテラリズム)が顕著になってきた。 しかしこのような強硬路線にもかかわらず、アフガニスタンとイラクの情勢は好転せず長期化の様相を見せ、またアメリカ経済の破綻もあって2008年の大統領選挙は民主党のオバマが勝利し、アメリカ合衆国の外交も協調路線、平和路線に転換したかに見えた。「オバマのアメリカ」の試練
オバマは黒人最初のアメリカ大統領として、マイノリティへの配慮やオバマケアと言われた医療保険制度の導入など国内政治では一定の成果を上げ、就任から間もない2009年4月5日、プラハ演説で「核廃絶に向けてアメリカは責任がある」と表明、それが評価されて同年のノーベル平和賞が贈られた。外交政策では2015年7月14日にはイラン核合意を成立させ、さらに同年7月20日にはキューバとの国交回復に踏み切った。2016年5月27日には現職アメリカ大統領として初めて広島を訪問した。一方、アメリカが軍事的行動を自制しようという動きに転じると、残る二つの大国、ロシアと中国がそれぞれ強硬姿勢を見せ始めた。ロシアのプーチン政権はウクライナに介入してクリミア半島を強制的に併合し、中国の習近平政権は南シナ海や東シナ海への海洋進出を強めフィリピン、ベトナム、日本など周辺諸国との緊張を高めた。また、中東情勢でも「アラブの春」以来、アメリカは主導権を発揮できず、シリア内戦、ハマスとイスラエルの対立など、混迷が強まった。
2014年には、中東での新たな原理主義運動「イスラム国」の台頭など、難しい問題が持ち上がり、平和路線を採るオバマ政権に対して「軟弱だ」という共和党からの非難が強まり、10月の中間選挙で共和党が圧勝するという事態となった。
オバマ外交の二面性 オバマの「核なき世界」を目指すメッセージは、特に日本では大きな期待を持って迎えられたが、核廃絶の具体化は進んだとは言えなかった。むしろ2010年には臨界前核実験を行うなど、失望が広がった。外交政策ではキューバとの国交回復、イラン核合意など見るべき動きもあったが、イラク・アフガニスタンへの派兵は続け、シリア内戦ではアサド政権の化学兵器使用疑惑を追求しながら中途半端に終わり、シリア難民の増加という局面の悪化を招いた。
無人機(ドローン)攻撃の急増 報道ではオバマ在任中の8年間に、アメリカの陸上部隊による軍事行動は抑制されたが、反面、無人機(ドローン)を使用したテロ拠点攻撃が急増したという。2016年7月、ホワイトハウスが公表した数字では、2009~2015年の間に米軍による無人機(ドローン)攻撃で殺害された戦闘員の数は2372~2581人、死亡した民間人はイラクとアフガニスタン以外の地域で64~116人と推計されることを明らかにした。<CNNニュース2016/7/2>
実際の被害はもっと多いのではないか、と疑われている。パキスタンでもアメリカ軍によるドローンを使ったテロ拠点の攻撃が盛んに行われ、民間人にも犠牲が出ており、マララ=ユスフザイ(2014年ノーベル平和賞受賞者)さんがオバマ大統領にその使用を中止するよう訴えたという。オバマ政権の下で急増したパキスタンやアフガニスタンでのドローン攻撃は、テロに対する先制防衛という口実以外に正当性はない。中東情勢の混迷が続く背景に、アメリカが常にこのような「軍事技術」の「改良」を続け、軍需産業が潤っているという現実も見逃してはならない。
共和党トランプ大統領の登場と退場
2016年の大統領選挙では、イスラム国を絶滅すると宣言した共和党トランプが当選した。トランプは何かにつけて“アメリカ・ファースト!”と絶叫し、国連軽視、自国第一主義を隠そうとせず単独行動主義(ユニラテラリズム)に逆戻りしている。まず不法移民の流入を阻止するとしてメキシコとの国境に壁を設けることを実行に移した。その他、オバマ政権時代の外交面を全否定するトランプ政権は、イランとの外交関係修復を否定(イラン核合意からの離脱)する一方で、北朝鮮の金正恩とは2018年6月にアメリカ大統領として初めて会見するなど、予測のできない動きをしている。しかし北朝鮮との交渉は期待された朝鮮戦争終結宣言、国交開始、北朝鮮の核開発停止、あるいは日本人拉致問題の解決などはいずれも成果がなかった。その他、気象変動に関する枠組み合意であるパリ協定はアメリカ産業の成長にとって障害になるとして離脱を表明し、さらにコロナ禍が蔓延する中、WHOの中国寄りの姿勢を非難して脱退を表明するなど、国際協調を否定する外交政策を次々と打ち出した。また中東ではイェルサレムをイスラエルの首都と認定してパレスチナ側の反発を受けている。その一方で2019年10月、シリアからの米軍の撤退を実行、それを受けてトルコ軍がシリア内の反トルコ勢力であるクルド人勢力を攻撃するなど、事態は予断を許さない。対イランでは、2020年1月、イラン革命防衛隊の指揮官スレイマニをドローン攻撃で殺害、世界に衝撃を与えた。これらの外交も2020年秋の大統領選挙で再選を目指すトランプの選挙アピールとして行われている面が強い。
2020年8月、トランプ大統領は、イスラエルとUAE(アラブ首長国連邦)の両国を仲介し、国交が樹立されると発表した。明確にイスラエル寄りのトランプ政権の外交成果として喧伝され、8月13日に正式に国交が樹立された。その後もアラブ諸国のイスラエルとの国交樹立が続いた。
トランプ政権は4年でおわり、バイデン政権への交代となったが、この間の外交政策の激しい揺れは、孤立主義と国際協調主義というアメリカ外交に従来から見られた相反する理念の衝突と見ることができる。ただしトランプの打ち出したことはオバマ政権への揺り戻しであり、「アメリカ第一」という国内向けの受けの良い主張を補足することにすぎなかった。いわばワシントンやジェファーソンに見られる理念的な孤立主義ではなく、国益優先という単純で狭隘な政策であったため、一部の狂信的な支持者を除いては支持を拡げることは出来ず、もとより国際的な支持を受けることはなかった(日本の安倍政権は除き)。
バイデン大統領就任
2020年11月の大統領選挙は、トランプの駈け込み的なイスラエル外交での成功は効を奏せず、民主党バイデンの勝利となった。トランプ陣営は不正選挙が行われたとしてバイデンの勝利を認めず、2021年1月6日には大統領選挙確定の行われるワシントンの連邦議会にむけてトランプ支持者が乱入するという事態となった。結局、1月20日、トランプ支持者の動きとコロナ蔓延に対する厳戒の中でバイデンが新大統領として就任、ただちに大統領令でメキシコとの国境の壁の建築中止、気候変動に関するパリ協定から脱退の撤回、世界保健機関(WHO)脱退の撤回など、トランプ政権の外交姿勢を転換させた。バイデン大統領は2月、新型コロナウィルスによるパンデミック対策を話し合うG7首脳のオンライン会議で「アメリカは帰ってきた」と表明、国際協調重視の姿勢への転換を鮮明にした。外交政策では新STARTの延長合意などにもあらわれており、トランプ政権で離脱したイラン核合意への復帰も予測されている。また、トランプ劇場の観があった北朝鮮の金正恩との関係については、慎重な姿勢に戻った。
しかし、中国の膨張政策や人権抑圧に対する警戒は継承し、さらに香港やウイグル人問題では緊張が高まるものとみられている。また大使館をイェルサレムに移転させたイスラエル政策や、中東でのアメリカ軍の撤退の推進(ただしアフガニスタン撤退は見直される可能性が強い)などでは変化は見られないと思われる。
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