ジュネーヴ軍縮会議/国際連盟一般軍備制限会議
1932年~34年、ジュネーヴの国際連盟主催で、アメリカ・ソ連も含む64カ国が参加して開催された全般的な軍縮を目的とした国際会議。ドイツの軍備をめぐって対立し、協議は難航し、1933年、日本・ドイツが相次いで国際連盟を脱退したため、成果なく閉会した。
海軍軍縮会議と一般軍縮会議
大戦間時代の軍縮会議には、アメリカ合衆国が主導して大国だけを招集した海軍軍縮会議の流れと、国際連盟の舞台で開催された一般軍縮会議の流れとがある。前者は、1921~22年のワシントン会議、1927年のジュネーヴ海軍軍縮会議、1930年のロンドン海軍軍縮会議がある。これらは列強間の駆け引きで第一次世界大戦のイギリスとドイツの建艦競争のような海軍増強を制限しようとしたもので、ワシントンとロンドンでは一定の妥協が成立してたが、結局は破綻した。それと並行する形で、国際連盟による一般的な軍縮(海軍だけではなく陸軍・空軍を含む軍縮)の努力も続けられていた。そのような国際連盟主催の、一般的軍縮を目指した会議が、ジュネーヴにおいて、1932~33年の第1回と1934年の第2回、開催されている。高校の教科書や用語集で出てくる「ジュネーヴ軍縮会議」は1927年の海軍軍縮会議のことを指しているが、実はより重要なのは1932年に始まる「ジュネーヴ軍縮会議」の方である。こちらは厳密には「国際連盟一般軍備制限会議」ともいうべきものであり、ヒトラーのナチス=ドイツが脱退した軍縮会議とはこちらの方である。以下、この一般軍縮会議の方を見ていこう。
国際連盟の軍縮会議
国際連盟はヴェルサイユ条約の第1編第8条において「連盟加盟国は、平和を維持するためには、国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮小する必要があることを」とし、そのための具体的計画を作成することを理事国の義務としていた。つまり一般軍縮は国際連盟の義務だったのである。1920年の第1回国際連盟総会で軍縮問題に関する臨時混成委員会の設置が決議された。この委員会は24年まで継続され、具体的な成果は得られなかったが20年代後半の国際協調気運の高まりの中で、一定の前進が見られた。特にドイツ共和国(ヴァイマル共和国)の安定に伴って、1925年にロカルノ条約が成立したのがその端緒であった。それに伴って1926年、ドイツの国際連盟加盟が実現し、最初の西ヨーロッパにおける地域的集団安全保障の取り決めであるロカルノ体制が成立した。
ドイツの主張
ロカルノ条約の交渉でドイツはすでに軍備平等権を主張していた(つまり、ヒトラー登場前から)。連合国がドイツの軍備を制限しておきながら自国の軍縮を実行しないことは、ヴェルサイユ条約の規定に照らして不合理である、というのである。ヴェルサイユ条約の第一編である国際連盟規約の第8条の、連盟加盟国は「最低限度まで、その軍備を縮小する必要がある」という規定はドイツが連盟に加盟すれば「ドイツのレベルまで他国も軍縮せよ」と解釈される。ドイツ以外の国が軍縮をしないなら、著しく不平等になるというドイツの主張はスジが通っていた。国際連盟は委員会を軍縮会議準備委員会に衣替えし、1926年5月、連盟非加盟国のアメリカ合衆国・ソ連邦にを加えて軍縮条約最終案の作成に入った。国際連盟主導で、ドイツも加わり、アメリカ・ソ連が参加した軍縮への取り組みは、見逃すことの出来ない第一次世界大戦後の世界平和への取り組みであったと言える。ソ連の全面軍縮提案と不戦条約
この委員会に参加したソ連代表リトヴィノフは、1927年11月、全世界の全面軍縮を提案した。しかしこの提案はドイツとトルコには支持されたが、他の強国によってソ連の宣伝に過ぎないとして一蹴されされた。リトヴィノフはさらに段階的な軍縮計画案を提案したがそれも否決された。しかしこの間、フランス外相ブリアンと、アメリカ国務長官ケロッグの間で協議された不戦条約がまとまり、翌28年にはソ連も含む15カ国が加わり多国間の条約として成立した。世界恐慌という障害
しかし、翌1929年10月、アメリカで世界恐慌が発生、アジアからヨーロッパにもその影響がおよび、特に1930年にはアメリカ資本に依存していたドイツ経済が破綻し、多数の失業者が発生する中、ヒトラーのナチ党が選挙で台頭するという情勢となった。アジアでは1931年、日本が満州事変を起こし、大陸への侵略を開始した。ジュネーヴ軍縮会議開催
そのような中、1932年2月2日、ジュネーヴで国際連盟主催の一般軍備制限会議が開催され、アメリカ合衆国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加した。これはパリ講和会議以来の大きな国際会議であり、折から日本が上海事変を起こし、戦火を中国本土に拡大したため会議の成功に国際社会の期待が高まった。アメリカは日本の中国進出に態度を硬化させたが、イギリスはアメリカとの共同歩調を取ろうとしなかった。恐慌にあえぐ各国はそれぞれ自国の労働運動の高揚や植民地の独立運動を抑え、ブロック経済体制を維持するために軍隊の拡大を図っており、またイギリス、フランス、ドイツの軍需工業資本家は盛んに軍縮条約が成立しないよう暗躍した。(引用)ジュネーヴ軍縮会議はこのようにして始めから失敗を予告されていた。軍備平等権を要求するドイツと、安全保障の優先を主張するフランスとの対立によって会議は行き詰まった。ようやく12月11日に至って、ドイツの軍備平等権を「原則として」認める英米仏伊四国宣言が出され、ドイツはこれを受諾した。これは事実上は、連合国の側からするヴェルサイユ体制の崩壊の端緒であったとみて良いであろう。<斎藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波書店 p.145>
ドイツの脱退とジュネーヴ軍縮会議の破綻
ジュネーヴ軍縮会議開催中の1933年、世界は激動した。まず1月にドイツでヒトラー内閣が成立、7月までに一党独裁体制を急速に作り上げ、再軍備の準備に入った。日本は3月、リットン調査団の報告に基づき、国際連盟が満州事変を侵略と認定したことに反発して国際連盟を脱退した。このような差し迫った情勢の中、ジュネーヴ軍縮会議は9月に英米仏伊の共同提案で、まず4年間はドイツの軍備を拡張を禁止し、次の4年間で他の諸国間の軍縮を開始する、という提案を提示した。これに対してヒトラーは、不平等の強制であるとして1933年10月14日、ジュネーヴ軍縮会議と国際連盟からの脱退を通告した。こうしてジュネーヴ軍縮会議は何らの成果も得ずに34年5月、幕を閉じた。世界恐慌後の経済協力を話し合ったロンドン世界通貨経済会議と、軍縮について話し合ったジュネーヴ軍縮会議がいずれも失敗したことは、国際紛争を会議と交渉でよってでなく、軍事力で解決しようとする「全体主義的無法状態」の到来を物語っていた。<斎藤孝 前掲書 p.147>なお、このジュネーヴ軍縮会議で、1933年2月6日、ソ連代表のリトヴィノフが「侵略の定義に関する条約」を提案している。この会議では成立しなかったが、東欧諸国を中心に十数カ国が承認にして締結しており、注目できる。
Episode 軍需産業の暗躍
このジュネーヴ軍縮会議の裏面では、軍縮の成功を不利とするイギリス、フランス、ドイツ三国の軍需工業資本家が会議の挫折のために暗躍していたことが伝えられている。恐慌下で何とかして利潤を上げようとしていたフランスのコミテ・ド・フォルジュやドイツのティッセンなど軍需工業資本家は、軍縮の各国合意を阻止しようと働きかけていた。国際連盟のILO事務局長だったフランス人のアルベール=トーマは密かにその資料を収集していたが、1932年5月、パリで暗殺され、彼が集めた資料も盗まれたという。<斎藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波書店 p.145,151注17>