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フォード

アメリカの「自動車王」。1909年、T型フォードの大量生産を開始。1913年にベルトコンベア=システムを導入して低価格化に成功して、自動車の大衆化を実現した。。

T型フォード
T型フォード
 アメリカ合衆国の1920年代の経済繁栄を代表する自動車製造会社フォード社を創設した人物。ヘンリー・フォード(1863~1947)はミシガンの農民出身で出稼ぎに出て、エジソンの電灯会社で働いた後、1896年にガソリン-エンジンで走る自動車の試作に成功、1903年にフォード自動車会社を設立した。分業によって部品を生産し、車体を移動させて組み立てる方式によって大量生産を開始、1909年にはT型フォードが爆発的な売り上げをみた。需要に追いつく生産を実現するため、フォードは1913年にベルトコンベア=システムを導入、始めはエンジン組み立てラインだけであったが、車体組み立てにも応用することに成功し、自動車生産は短時間で大量に生産が可能となり、価格を低下させ、一気に大衆化した。ベルトコンベア=システムはフレデリック=テイラーによって理論づけられて、合理的な流れ作業による生産性を向上は「テイラー・システム」、あるいは「フォーディズム」と言われるようになった。このようにフォード自動車が他に先駆けて導入したベルトコンベアによって大量生産が可能となった自動車は、1920年代に急速に大衆化してアメリカ社会を一変させ、さらに世界に広がっていった。

自動車の大衆化に成功

 そのフォードTモデルは1925年には285ドルまで価格を下げることが出来、平均年収1200ドルの労働者や、2000ドルのホワイトカラーが買える値段となった。彼はまた購買力を高めるためには労働者の賃金を上げる必要があると考え、賃金を世界最高水準に引き上げた。この自動車産業の成功は1920年代のアメリカ経済に大きな刺激となり、関連する道路の建設、鉄鋼・ガラス・ゴム石油などの製造業、さらにガソリンスタンド・モーテル・レストランなどのサービス産業を呼び起こし、郊外への住宅の拡大をもたらした。<有賀夏紀『アメリカの20世紀』上 中公新書などによる>

フォードの三つの革新

 19世紀末にドイツのダイムラーとベンツが内燃機関を動力とする自動車の基本構造を発明し、フランスのエミール=ルヴァッソールが商業化に成功したことから自動車産業は始まったが、ヨーロッパでは鉄道が公共輸送機関としてすでに発達してこともあって普及しなかった。自動車は製造に手間がかかるので価格もきわめて高く、少数の金持ちしか持てなかった。アメリカでも初めは都市の金持ちのスポーツないし娯楽として普及したに過ぎなかった。
 だが、アメリカはヨーロッパと異なり国土は広大で、鉄道網の普及も限られていたので、農村地帯ではヒトとモノの移動に使える大量輸送手段はないに等しく、自動車の大量需要が見込めたのだった。そこに着目し、試行錯誤の上に実現したのが「農村出身の有能な機械技術者」ヘンリー=フォードだった。フォードの革新は要約すれば次の三点にあった。
  • T型車の開発 構造と素材の上で当時の最新技術を集め、低価格な大衆車を開発することに成功した。それは材料コストをさげることではなく、高価な素材や部品を惜しげもなく使いながら、軽量でも頑丈、運転が容易で故障しても誰でも直せるような車体設計にしたからだった。そのため徹底した製品の規格化をおこない、モデルチェンジはしない、色は黒のみとすると宣言した。「徹底した規格化により生産を一車種に限定して大量生産する」ことでコスト引き下げに成功した。
  • 生産工程の革新 まず部品を互換性のあるものに、単純で操作が容易な専用機械を導入、未熟練工による生産を可能にした。それによって組み立てもそれまでの一台一台ずつ完成させる静止式組立方式ではなく、分業システムによる組み立の単純化、細分化を可能にした。その上でベルトコンベアによる移動式組立方式が完成した。フォードの工場では原料から部品製造、組み立てまで一貫して行うシステムが出来上がり、「鉄鉱石が溶鉱炉に搬入されてからわずか33時間後に完成車が出荷される」という生産時間の短縮を自慢した。そこでは効率的、合理的なライン管理、徹底的な無駄の排除が行われた(この点は後に日本のトヨタでさらに徹底された)。
  • 新たな労務管理法の確立 工場での労働は徹底して機械化、細分化された(これはテイラー主義を採用した結果ではなく、フォードが独自に実現した)。労働の質も単純化、標準化され当時急増していた東南欧からの移民を大量に採用した。それでも当初デトロイトでは大量の未熟練工の不満は強く、無断欠勤や離職する者が多いなど不安定だった。フォードはそこで賃金・人事・労務を管理する雇用部を創設するなど一連の労働改革を行った。その中でも画期的で、最も効果が上がったのが1914年に実施された日給5ドル制度だった。労働者にも自動車を買える賃金を支払うことで、同時に自動車の購買者とすることで大量生産の市場を拡大した。

Episode フォードの「日給5ドル」制度

(引用)この制度は一日の労働時間を8時間へと短縮すると同時に、日給を2倍の5ドルへと引き上げるものだった。だが、日給5ドルを得るには、出勤状態、工場での作業態度はもとより、貯蓄、節酒、住居の整理整頓、英語学校への出席など会社が定めた「適切な」個人生活の基準に達せねばならなかった。それは移民労働者をアメリカ社会へと同化させ、工場労働者として陶冶することをねらったものだった。工場の規律に従う労働者は高賃金を獲得し、自動車の購入者となりえた。大量生産に必要な市場も確保されるのである。かくて、日給5ドル政策はこの二重の意味においてシステムを完成させる要の位置にあった。<鈴木直次『アメリカ産業社会の盛衰』1995 岩波新書 p.49>

世界恐慌とフォード

 フォードは利潤分配制、8時間労働制、最低賃金制などを導入し、現代の労働慣行のスタンダードを作り上げたこと、またいち早く労務管理と生産管理を厳格に行う産業合理化運動を提唱し、アメリカの労働者の生活水準を引き上げたことで革新的な経営者であった。その手法はフォーディズムとも言われ、資本主義の新しいあり方と評価された。
 1929年の世界恐慌が起こると、フランクリン=ローズヴェルト大統領のニューディールの前提となる国内購買力の維持をささえていたが、次第にその独裁的な経営は保守的性格を強め、労働組合を敵視し、全国産業復興法(NIRA)には反対するようになった。
 しかし、「自動車王」と呼ばれ、エジソンと並ぶアメリカのヒーローとしての名声は、1947年の死去まで衰えなかった。
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書籍案内

有賀夏紀
『アメリカの20世紀』上
 中公新書

鈴木直次
『アメリカ産業社会の盛衰』
1995 岩波新書