ラクナウ協定
1916年、インド国民会議派と全インド=ムスリム連盟の間で、植民地下のインド州議会などでの分離選挙を認めることで合意した協定。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協調が初めて成立したが、後のインドとパキスタンの分離独立を招くこととなった。
第一次世界大戦が勃発したことで、イギリスが植民地インドに対して妥協せざるを得ない状況となったことを受け、それまでインドの反英闘争を別々に行っていたインド会議派と全インド=ムスリム連盟の間で初めて共同行動の気運が生まれた。両者はベンガル分割令にたいしては、国民会議派はベンガルが宗教によって分断されることに反対であったが、全インド=ムスリム連盟は、もともとイギリスの支援で結成された組織であり、ベンガル分割案も少数派のイスラーム教徒(ムスリム)にとっては有利になる側面があるので反対しなかった。
注①ムスリム人口は50%以上なので、ムスリム側が譲歩している 。注②ムスリム人口は14%程度なのでムスリムが得する。
POINT 最も重要なポイントは、会議派がいわゆる「分離選挙」を認めたことである。ムスリムが選ぶムスリム代表に、ヒンドゥーは口を出さないし、出せない制度がここでてきた。この取り決めにもとづいて、ヒンドゥー・ムスリムの両者は一致してイギリス政府に議会主義的譲歩を迫ることになった。当時のヒンドゥー・ムスリムの勢力関係を見る限り、ムスリムにとって有利な妥協であり、ジンナーの勝利と言っていい協定だった。しかしこれが将来、インドとパキスタンの分離独立を生む遠因となる。 <長崎暢子『自立に向かうアジア』世界の歴史27 1999 中央公論社 p.300-301>
全インド=ムスリム連盟、反英に転換
バルカン情勢の悪化し、イギリスはドイツ帝国との戦争が迫ってくると、イギリスはインド側の要求を入れ、1911年12月にベンガル分割令を撤回した。また戦争が始まるとオスマン帝国はドイツと同盟したため、イギリスはオスマン帝国を敵国とすることになったが、それはインド内のイスラーム教徒のイギリスへの反感を募らせた。このような状況の中で、全インド=ムスリム連盟は1913年、親英的立場を捨て、インド帝国内での自治政府の実現を掲げて活動することに転換した。その新たな動きを指導したのがジンナーであった。ヒンドゥー教徒とムスリムの協調成立
第一次世界大戦が始まるとともにムスリムの反イギリス感情が高まり、国民会議派と全インド=ムスリム連盟は合同会議を開催することで歩み寄った。1916年12月、国民会議派は第31回・全インド=ムスリム連盟は第9回となる大会を、インド中央のウッタル・プラディシュ州の州都ラクナウで同時に開催、ラクナウ協定を結んだ。会議派と妥協しながら協定締結を進めたのは、あらたに議長となったジンナーであり、それを受けて会議派内をまとめたのはベテランのティラクであった。協定の意義と内容
ジンナーの立場は、ヒンドゥーとムスリムが議会制の枠内で統一し、権利を獲得するなかで、少数派であるムスリムの地位向上を図る、というものであった。後にジンナーは会議派とムスリム連盟を決定的に分離させ、インドの分離独立という状況を生み出し、1947年にパキスタンの初代総督となる人物であるが、この段階ではまだ統一を優先する立場にあった。 ラクナウ協定は、インドの自治の範囲として認められた州議会と中央議会のインド人議員の拡大と選挙権の拡大を要求しており、次のような取り決めの要点は次のようなことであった。- ムスリムは分離選挙を継続する(そのことを会議派認める)。
- 分離選挙の結果、ムスリムに割り当てられる州議会の議席配分は以下のとおり。
- パンジャーブ州・・・50%
- ベンガル州・・・40%注②
- 連合州・・・30%注①
- ビハール州・・・25%
- 中央州・・・15%
- マドラス州・・・15%
- ボンベイ州・・・15%
- 関係する社会集団の75%が反対した場合、いかなる法や決議も通過させない。
注①ムスリム人口は50%以上なので、ムスリム側が譲歩している 。注②ムスリム人口は14%程度なのでムスリムが得する。
POINT 最も重要なポイントは、会議派がいわゆる「分離選挙」を認めたことである。ムスリムが選ぶムスリム代表に、ヒンドゥーは口を出さないし、出せない制度がここでてきた。この取り決めにもとづいて、ヒンドゥー・ムスリムの両者は一致してイギリス政府に議会主義的譲歩を迫ることになった。当時のヒンドゥー・ムスリムの勢力関係を見る限り、ムスリムにとって有利な妥協であり、ジンナーの勝利と言っていい協定だった。しかしこれが将来、インドとパキスタンの分離独立を生む遠因となる。 <長崎暢子『自立に向かうアジア』世界の歴史27 1999 中央公論社 p.300-301>