ティラク
19世紀後半から20世紀初頭のインド独立運動の中心人物。国民会議派急進派として1905年のベンガル分離令に反対運動を指導し、四大綱領採決に尽力した。逮捕されるなど厳しい弾圧を受けたが、その後のインド独立運動に大きな影響を与えた。
Bal Gangadhar Tilak
Sketch of Indian freedom fighter Bal Gangadhar Tilak(Indrajit Das)
Wikimedia Commons
しかし翌年、独立運動の激化を恐れたイギリスがインド統治法の改正を示して懐柔を図り、穏健派がそれを受け入れようとしたため、ティラクら急進派は国民会議派を脱退した。さらに1908年にイギリスの官憲に不当逮捕され、1914年までビルマのマンダレー監獄で獄中生活を送り、出獄後もスワラージ(自治獲得)を大衆運動の目標に設定し、イギリスに対する民族解放の戦いを続けた。 → イギリスのインド植民地支配と民族運動
ティラクの思想
ティラクは民衆から「ロカマーニャ(民衆に愛される人)」と呼ばれ、敬愛されていた。彼の運動の根底にあるのは、インドの伝統的な宗教であるヒンドゥー教の「神の歌」とされる『バガヴァッド=ギーター』(『ラーマーヤナ』の一部を構成する)であり、そこに示される唯一の真理への帰依という信仰心であった。その点はガンディーの運動とも共通しており、単に近代的な意味の民族独立を目指す反植民地運動ではなく、インドの伝統宗教に依拠する復古主義的な側面が強かった。スワデーシの呼びかけ
インド総督カーゾンは「会議派を静かに葬ってやる」ことを任務と考え、ベンガル分割令を1905年10月16日に強行した。インド国民会議派の急進派指導者であったティラクは「大衆に、スワデーシ運動、すなわちイギリス製品をボイコットして、国産品を愛用するよう呼びかけた。チャテルジーの愛国歌“バンデ・マータラム”が、闘いのスローガンとして各地の集会や行進で高らかにうたわれた。10月16日には、カルカッタでは市場や商店は閉ざされ、交通はストップして、市をあげてこの記念すべき日を喪に服した。」<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.85>ラクナウ協定
ティラクはようやく出獄し1915年、ビルマからインドに戻った。1916年12月には、国民会議派の代表として全インド=ムスリム連盟のジンナーとの間でラクナウ協定を締結し、イギリスとの交渉で協力することを約した。これはそれまで別個に活動していたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が協力する態勢をつくったことで画期的なことだったが、そのとき国民会議派側は、イスラーム教徒側が要求した分離選挙に同意したことで、かえって後に深刻な対立を生むことになる。その頃イギリスは、第一次世界大戦に直面し、その兵力を確保するために植民地インドに対しても協力を要請、一定の妥協を図らなければならなくなっていた。1917年には大戦後のインドの自治を約束したのはそのためでああったが。その具体化された内容は、州レベルの政治へのインド人の参加を認めただぇだったので、国民会議派は強く反対した。しかし、ティラクはイギリスの大きな譲歩であり、前進であるとしてそれを容認した。かつて急進派だったティラクは、時代とともに穏健派に変化したといえる。
インド独立運動の転換
彼は1919年にイギリスに渡り、第一次世界大戦後の世界の民族主義の高揚とロシア革命で社会主義国家の出現という新たな世界の二大潮流に強い影響を受け、帰国後は労働運動にも取り組もうとした。しかし、それを果たすことはできずに翌1920年8月1日に志し半ばで死去した。そのときすでに国民会議派の主導権はガンディーが握っており、熱狂的な民衆の支持の下で1919年4月~22年の第1次非暴力・不服従運動が行われていた。インド独立運動は、そのもとで新たな展開を遂げていくこととなる。