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インド統治法

1858年以降のイギリスのインド直接統治のために制定された法律の総称。1919年制定の統治法では州行政の一部をインド人にゆだねるなどの懐柔を行った。それに対してガンディーらの非暴力・不服従運動が繰り返され、1935年に新インド統治法が制定された。

 イギリスのインド植民地支配は、当初の東インド会社に統治を委任していた時期から、さまざまな関連法案を制定してきた。広義にはイギリス議会でインド統治のために制定されたあらゆる法律がインド統治法に含まれ、その早いものには1773年のノースの規制法、ピットのインド法などがあるが、一般的には、狭い意味で、1858年の東インド会社の解散、インドの直接統治開始以降のインド統治法のことを指している。インド統治法は、国民会議派やムスリム連盟などのインドの反英闘争を抑えながら、一部で妥協し、改訂を繰り返した。その過程で特に1909年のモーリー=ミントー改革で制定されたもの、1919年のモンタギュー=チェムズファド改革で制定されたものが重要とされている。また1935年に制定されたものは新インド統治法とも言われる。

1858年のインド統治法

 イギリスは1857年5月に起こったインド大反乱(シパーヒーの乱)をほぼ鎮圧した翌1858年8月に「インド統治改善法」(一般にこれをインド統治法という)を制定し、インド統治を東インド会社を通しての間接統治から、「国王の名の下に、国王の名による」直接統治に改めた。そのため、内閣に新たに「インド担当国務大臣」を置き、現地のインド総督に「副王(Viceroy)」の称号を与えて、本国政府から直接指揮される機関に改めた。
 同年11月1日には、ヴィクトリア女王の宣言によって、イギリスはインドを直接統治することを改めて表明、その中で東インド会社とインド諸侯との取り決めや法令はそのまま継続すること、インド人の土地所有権や慣習、慣例は尊重すること、キリスト教の強制は行わず、インドの宗教の諸派の信仰の継承を認め、また宗派による差別待遇は行わない、と約束した。
 1877年1月1日、ディズレーリ首相はヴィクトリア女王がインド皇帝として戴冠することによってインド帝国を成立させ、インドを大英帝国の中に取り込んだ。

イギリスによる統治への反発

 イギリスは1858年の女王の宣言ではインドの宗教や文化の尊重、インド人への対等な扱いを掲げていたが、実際には統治は末端までイギリス人のみで行われてインド人が採用されることは少なく、またインドの伝統や文化の尊重がうたわれていたにもかかわらず公用語は英語とされて土着語は使用が許されなかった。また宗教についても、イギリスは統治のためにカースト間の対立やヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用した(いわゆる分割して統治せよ)ので、宗教的対立が始まった。
これらの差別的な統治にたいするインド人の不満は次第に強くなり、1883年、バネルジーらが指導する全インド国民協議会が結成された。イギリスはその動きに対抗して、イギリスに協力する勢力を結集してインド国民会議を開催し、そこに結集した人びとは1885年国民会議派を結成した。インド国民会派は当初はイギリスに協力的であったが、次第に植民地支配の矛盾が深まり、イギリスが統治を強化するために1905年ベンガル分割令を制定しようとしたことから、国民懐疑派もイギリス植民地統治に反対する運動に立ち上がった。これがインドの反英闘争の本格的な段階へと入ることとなった。

1909年のモーリー=ミントー改革

 厳密にはインド参事会法の改定であるが、広い意味でインド統治法の一部を構成している。モーリーはインド担当大臣でミントーはインド総督。ベンガル分割令に対する国民会議派の反対運動の盛り上がりに対応して、同派の孤立化を狙ったもの。内容は、インド参事会の議員の一部に選挙による選出を導入し、インド人から選出させるようにしたが、その選挙区にムスリム側の要求を容れて分離選挙区を設けた。それは少数派保護の名目でムスリムだけを選出する選挙区を設けたことである。これは国民会議派はどの選挙区でも多数を占めることはできないしくみであった。これはイギリスの分割統治策の一環であり、ここから始まる分離選挙制はこれ以後のヒンドゥーとムスリムの対立を固定化させ、将来の分離独立への要因をつくってしまったとされている。

自治約束とローラット法

 第一次世界大戦でインドの協力が必要となったイギリスは、インド担当国務大臣モンタギューの名でインドの戦後自治約束した。またそれはロシア革命(第2次)の波及を警戒したものでもあった。イギリスは一方でローラット法1919年3月に施行して反英闘争を厳しく取り締まる姿勢を示したが、それは却ってインド人の強い反発を受け、1919年4月にはガンディーの指導する第1次非暴力・不服従運動(第1次サティヤーグラハ運動)が開始された。その過程で1919年4月13日アムリットサール事件が起こり、イギリス軍によって多数の市民が虐殺されたことで、ガンディーはいったん運動を中断した。しかし、大衆の中に巻き起こった自治実現への願いは強く、またイスラーム教徒のヒラーファト運動(カリフ擁護運動)が起きると、ガンディーはそれとの協調による、寄り幅広い反英闘争として非協力運動提唱、再び民衆運動が活気づいた。これをきっかけに1920年代にインド民族運動は「自治を与えよ」という運動から「完全な自治、つまり独立を認めよ」という要求に深化した。

1919年のインド統治法

 インド民族運動に対するムチがローラット法であったとすれば、アメとして制定されたのが1919年のインド統治法であったといえる。インド統治法は1919年12月に制定され、施行は21年となった。この改革は、統治の機構を中央と地方とに分け、中央政府には自治を許さず、州政庁にだけ自治を導入し、州行政の一部をインド人にゆだねた。地方政治でインド人に一定の自治権を与えたこの体制は「両頭制」といわれている。またこの制度は第一次世界大戦中のインド担当大臣モンタギューとインド総督チェムスファドが関わったので、モン=ファド改革とも呼ばれている。
  • 中央政府については、形式的には近代的な議会制度を採用して、上下二院を設けたが、実権はすべてインド総督と総督参事会が握り、総督には議会が採択した法案をくつがえす権限さえ付与された。
  • 州政庁は、次の二系列の行政機関に分かれる。(1)教育・保健衛生・農業・地方自治などは州知事によって州議会から任命されたインド人が担当する。(2)治安維持・司法・州財政・地税・灌漑などは知事の直接管轄下に置かれる。
 ガンディーによって指導された、1919年4月~22年の第1次非暴力・不服従運動はローラット法反対に的を絞り、インド統治法に対しては事実上それを承認した。それによって実現した州議会選挙では国民会議派議員も生まれ、地方自治に加わる道が開けたことによって、20年代には比較的安定した。

新インド統治法制定へ

 1927年、インド統治法は1929年に10年後の改定期を迎えるため、イギリスは憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を設けて検討に入ることとしたが、それにインド人委員を加えなかったためインドで激しい抗議行動が起こった。その第2次非暴力・不服従運動は、1930年3月に始まった塩の行進などの大衆運動として盛り上がり、イギリスも追い込まれていった。イギリスは英印円卓会議を提唱、 第2回にはガンディーも参加させ運動の鎮静化を図った。1932年8月にはマクドナルド挙国一致内閣が「コミュナル裁定」を行い、宗派別・社会集団別の代表権を求めると、ガンディーは獄中にありながら「死にいたる断食」を決行して反対した。このときはアンベードカルが妥協し、1932年9月24日にガンディーとの間で「プーナ協定」を締結、不可触民の分離選挙区は見送られた。その代わり不可触民に立候補の留保枠が設けられるという妥協が図られた。この経過の結論として制定されたのが、1935年のいわゆる新インド統治法であった。
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