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インドの反英闘争(20世紀)

20世紀初め、帝国主義イギリスがベンガル分割を強行しようとしたことから、国民会議派は四大綱領を掲げて民族意識を強め、反英の姿勢を明確にした。民族運動の高揚をみたイギリスは第一次世界大戦で植民地の協力を得るため、一定の譲歩をはかった。国民会議派はイギリスが戦後の自治を約束したと捉えたが、戦後の改革は一部の自治が認められただけで不十分であり、しかも運動を弾圧する法律が制定されたため、1919年に反英闘争は一気にもり上がった。そのなかで国民会議派の新たな指導者としてガンディーが出現、非暴力・不服従を掲げて広範な民衆の支持を受け、完全な自治を求める運動となっていった。運動は弾圧と挫折を繰り返し、30年代にはガンディーの指導する「塩の行進」で再び高揚した。しかし、内部にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立、カースト制の問題を抱え、イギリスの巧みな分断策もあって第二次世界大戦期にはインドの統一的な独立は困難になっていった。ガンディーは最後まで統一国家としての独立を模索したが、宗教対立は厳しさを増し、1947年、インドとパキスタンの分離独立となった。

 インド大反乱がほぼ鎮圧された1858年を機に、イギリスのインド支配のあり方は、それまでの東インド会社に植民地統治を請け負わせる方式から本国政府の直接統治に改められ、本国にインド担当国務大臣を置き、現地のインド総督(副王)を指揮する体制が整えられた。さらに1877年ヴィクトリア女王を皇帝とする「インド帝国」とした。同時に税の徴収を主体とした植民地統治を維持、拡大するためインドの現地人を官吏や軍人に登用する必要が強くなり、英語教育を強制した。しかし、そのことは社会上層の知識人が人権思想や民族意識を持つ契機ともなり、一方で苛酷な植民地支配で疲弊した農村での不満が鬱積し、全体的に反英感情が強まって、イギリスのインド植民地支配と、それに対すインドの反英闘争が本格化していく。 → インド植民地支配

国民会議派の設立と変身

 イギリスは反英感情の強まりに危機を感じ、1885年インド国民会議の開催を支援し懐柔しようとした。同時にイギリスはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用した分割統治を策し、1905年ベンガル分割令を強行しようとしたところ、国民会議は急進派ティラクを中心に激しい運動を展開、1906年12月、カルカッタで大会を開き、四大綱領をその闘争の理念として掲げた(英貨排斥スワデーシスワラージ民族教育)。これは明確な民族要求として掲げられたもので、具体的な反英運動の始まりを意味していた。国民会議自身も、実質的に国民会議派として政治活動を行う団体(政党)へと変質していった。
ムスリムの反英運動 イギリスは会議派急進派を弾圧する一方、同じ1906年12月の末に、イスラーム教徒の全インド=ムスリム連盟の結成を支援して対抗させようとした。しかしこの段階での反英闘争は、民族の「独立」は明確に打ち出されていたわけではなく、イギリスの宗主権を認めた上で、「自治」を実現することを目指すものが主体であった。これらの動きに対してイギリスは1909年にモーリー=ミントー改革と言われるインド統治法の改正をおこない、立法参議会に一部選挙を導入、インド人の選出を可能にしたが、選挙はムスリムの要求を容れて分離選挙制とし、分割統治によるインド民族運動の分裂を図った。

帝国主義下の民族運動

 ベンガル分割令反対運動は抑えつけられ、帝国主義の植民地支配が強まる中で、インドの民族運動・反英闘争も暴力的となり、インド総督を狙ったテロ事件などが起こった。第一次世界大戦が始まると反英闘争を進めていた革命家は好機と考え武装蜂起を計画するグループも現れた。1915年にはラホール事件では武装蜂起が鎮圧され、逮捕4000人、処刑800人という犠牲が出た。首謀者の一人ラース=ビハリー=ボースは日本に亡命した(東京新宿中村屋の長女相馬淑子と結婚し「中村屋のボース」として知られる)。これらの過激な反英闘争は「ガダル(反乱の意味)」と呼ばれ、イギリス当局は1915年にインド防衛法を制定し、インド人の政治活動の自由を制限し、危険人物を予防拘束して取り締まった。
 しかし、第一次世界大戦でイギリスがオスマン帝国を敵国としたことは、インドのムスリムの反イギリス感情を高めることとなり、全インド=ムスリム連盟も親英的立場を捨て、明確にインドの自治政府の樹立を要求するようになった。このころ新たにムスリムの指導者となったジンナーは、国民会議派のティラクと交渉し、1916年12月ラクナウ協定を締結し、インド帝国内での州議会や中央議会でのインド人議席の拡大を要求するとともにムスリムへの分離選挙をみとめるという国民会議派の妥協が成立、インドの反イギリス闘争の中ではじめてヒンドゥーとムスリムの共同歩調が生まれた。

イギリス、戦後の自治を約束

 第一次世界大戦が勃発すると、インド植民地では、おおかたは積極的にイギリスのドイツとの戦争を支援し、多数の兵士が徴兵に応じてイギリス軍に参加した。イギリス国内でもインドへの一定の自治を認める声が出始め、インド担当相のモンタギューは、1917年8月に大戦後のインドの自治を約束する「モンタギュー宣言」を出した。モンタギューはインド総督チュムズファドと1918年4月から調査・検討にあたり、7月に「モンタギュー・チュムスファド報告」(モン=ファド報告)といわれる具体案を発表した。
分裂と弾圧 しかし、自治の内容は州政府の一部にインド人が参加することににとどまっていたので、インド国民会議は不満を表明した。その一方で、一定の前進があると認めたバネルジーら穏健派は、報告を承認したことで、国民会議は分裂した。
 戦争が長期化する中で反英闘争も復活し、イギリスは一転してインド支配の強化にのりだし、1918年にローラット法を制定、翌1919年3月に施行して弾圧を強化した。

第1次非暴力・不服従運動

 それに対してインド民衆の反英闘争は激化、あらたに国民会議派の指導者となったガンディーによって、1919年4月~22年に第1次非暴力・不服従運動サティヤーグラハ運動とも言われる)として盛り上がった。同年4月6日にはガンディーの指示で全国的なハルタール(同盟休業)が行われ、インド最初の組織的な民族運動が展開されたが、1919年4月13日、弾圧に抵抗した一部民衆が暴徒化しイギリス官憲が発砲して多数の死傷者が出たアムリットサール事件が起こり、ガンディーは一旦運動を停止した。

ヒラーファト運動と非協力運動の連携

 そのころ、インドのムスリム(イスラーム教徒)のなかに、第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国で、カリフが廃位されたことに衝撃を受け、カリフ擁護運動であるヒラーファト運動が起こっていた。ガンディーはムスリムとの連帯が必要であると考え、1919年11月、デリーで開かれたヒラーファト運動の大会に出席し、その場で非協力運動を呼びかけた。それはイギリスのインド統治のあらゆる面での非協力を呼びかけたもので、インドの反英闘争にヒンドゥーとムスリムが統一して行動するという新たな情勢を作り出した。
 イギリスはそのような状況に対応し、同1919年12月インド統治法を制定した(実施は21年)。それはモンタギュー=チェムズファド改革の具体化であり、地方政治で部分的自治を認めたが、財政・警察はイギリス人知事が握り、中央の議会に対してもインド総督が拒否権を持つという自治を認めるには不十分なものであった。そのため全面的な自治を要求するガンディーの求心力は強まることとなった。

国民会議派の転換

 1920年9月の国民会議特別大会でガンディーは、旧来の主流派ラージパット=ラーイ、ビービン=チャンドラ=パール、ロカマーニャ=ティラクなどに替わって多数派の支持を受けた。国民会議は新たに綱領を制定し、目標を合法的・平和的方法で「スワラージ(自治)」を実現することとし、執行部と地方組織をもつ組織に改編された。これによって国民「会議」とはいえない、明確な政党組織となったので、これ以降は「国民会議派」といわれる。ここにインドの民族運動は、不服従・非暴力・非協力というインド独自の方法論と、宗教の違いを克服した運動体を持つ、ガンディーの指導する国民会議派によって進められることになった。
 インドの反英闘争は、かつての上・中流階級・知識人を中心とした国民会議が、イギリス議会政治に倣って帝国内での自治を求めるという面が強かったが、国民会議派への転換によって、広く中下層の市民、農民、労働者を含む大衆政党として自治の実現を要求する全国的な政治運動となり、また一時的であったがヒラーファト運動で宗教の壁を越えた統一的な反英闘争が実現したことの意義は大きい。

運動の高揚から停滞へ

 1920年から22年にかけて、ガンディーの主導する国民会議派による非協力運動が展開され、同時にヒラーファト運動との連携も実現して、インドの反英闘争は高揚期を迎えた。非暴力・不服従(ガンディーのことばでいればサッティヤグラハ)も運動の理念として守られ、その姿勢はインド大衆の支持を受けただけでなく、世界に知られ、イギリスのインド支配への非難が広がっていった。しかし、運動が順調だったわけではなく、イギリス当局による弾圧はさらに強まり、またヒラーファト運動はカリフ退位が現実のものとなるに従って低調となり、インドのムスリムの中にもジンナーなどがそこから離れていった。そして、1922年2月5日、チャウリー・チャウラーという村で農民が警察官を襲撃して殺害するという事件が起き、非暴力主義が守られなかったためガンディーは衝撃を受け、非協力運動の中止を決定、若い国民会議派のメンバーだったネルーは運動中止に反対しガンディーを批判したが、ガンディーは大衆の暴力といえどもそれを認めることはできないとして決断を変えなかった。ガンディー自身も逮捕されたため、この運動は実を結ばず終わった。
 ガンディーの突然の運動中止とムスリムとの対立再燃によって、1923年から27年は国民会議派主体の運動は停滞した。

運動の多様化

 1920年代には、インドにおいても民族産業の発達に伴う労働運動が活発となり、またロシア革命の影響で社会主義の運動も開始された。1920年にボンベイで結成された全インド労働組合会議(議長は会議派の有力指導者ラージパット=ラーイ)、1925年に国内での創立大会を開いたインド共産党が活動するようになった。またヒラーファト運動も1924年にオスマン帝国のカリフの退位によって自然に退潮し、ヒンドゥー教徒とムスリムは再び対立するようになってしまった。ヒンドゥー教徒にもヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム)を掲げるヒンドゥー大協会(ヒンドゥー・マハーサバー)がムスリムと衝突を辞さない過激な活動を開始した。さらにその影響下からより行動的な民族奉仕団(RSS)が結成される。彼らはムスリムへの反感を隠さず、インドの宗教対立の問題(コミュナリズム)は申告の度合いを深めていく。
 宗教的対立とともにインド社会の抱える問題としてカースト制度があり、特にカースト外とされる不可触民に対する差別が深刻化していた。ガンディーは熱心なヒンドゥー教としてカーストについては容認し、不可触民に対する差別はヒンドゥー教内部の問題として解決できると考えていたが、不可触民の中からは自らの手で解放をめざす思想が生まれていた。その代表がアンベードカルであった。不可触民の問題についてイギリスの対応をめぐってガンディーとの対立が深まっていく。

第2次非暴力・不服従運動

 イギリスがインド統治法の改訂にそなえて1927年に憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を設置すると、その委員にインド人が含まれていないことから、激しい反発が生じ、1928年2月3日、サイモンがボンベイに到着すると、ガ全土に「サイモン帰れ!」の声があふれた。1929年、イギリスで最初の労働党内閣マクドナルド内閣が成立し、インド総督はインド代表も加えてインド自治のあり方を検討するためにロンドンで英印円卓会議を開催することを表明した。当時は世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受け、農村の貧困化が一段と進んだ。そのような中で、国民会議派にもネルーなどの若い活動家が台頭し、1929年12月29日ラホールでの国民会議派大会で、イギリスに対する「完全独立(プールナ=スワラージ)」を要求することを決議し、それが容れられなければ円卓会議のボイコットを宣言した。
塩の行進 1930年代になるとガンディーの再起を願う声が強まり、それに応える形で再び闘いの先頭に立った。ガンディーは今度も誰も思いつかないような手法を編み出した。イギリスが塩税を課し、インド人が自由に塩を生産・消費できないでいることを非難したのだ。1930年1月、国民会議派は「独立の誓い」を決議、第2次非暴力・不服従運動を開始した。ガンディーは1930年3月12日塩の行進を開始した。それに呼応するように各地で、静かに整然としながら、つようい熱気を持って大衆行動が行われた。
英印円卓会議 運動の高揚を恐れたインド総督は初めてガンディーと直接面会し、塩の製造を許可したのでガンディーは運動を中止し、イギリスの呼びかけに応えて第2回英印円卓会議に参加した。ガンディーはその場でインドの不可分な完全自治(独立)を訴えたが、ムスリム代表など他の宗派代表はイギリスの提示した自治議会の分離選挙制の議論に終始し、アンベードカルも不可触民の分離選挙を強く主張した。ガンディーは孤立し、失望の中帰国後、運動の再開を決定すると直ちに逮捕された。
不可触民問題 1932年8月17日にイギリスのマクドナルド挙国一致内閣は、「コミュナル裁定」(マクドナルド裁定)を発表、分離選挙の導入などでコミュナル間の対立を解消するとした。ガンディーは獄中から不可触民の分離選挙は、かえってその差別の固定化し、インド人を分断することになるとして強く反発し、断食を決行した。プーナの獄中のガンディーを訪ねたアンベードカルはやむなく妥協して分離選挙は取り下げ、かわりに一定の議席数を保障する留保制度を設けることで合意が成立した。これがプーナ協定と言われる合意である。これによって分離選挙に代わり、留保制度を設ける方向性が定まり、新インド統治法に採用され、さらに戦後独立したインド共和国の憲法でも取り入れられていく。
 ガンディーは不可触民をハリジャンと呼び、出獄後はその解放をめざすハリジャン運動を開始した。それに対してネルーやチャンドラ=ボースなど会議派左派はインドからの独立という政治闘争を放棄するものであると批判し、第2次非暴力・不服従運動は指導部が分裂したため衰退、1934年にガンディーも運動の終結を宣言した。

新インド統治法と国民会議派の与党化

 1935年、イギリスは新インド法を公布した。中央政府では従来通り総督が強い権限を有していたが、地方(州)では選挙権を拡大し、議会が撰んだ州政府が行政権を持つとして大幅な自治を認めた。その受け入れをめぐって会議派はもめたが、結局選挙には参加することとし、1937年に選挙が実施された。その結果、会議派は11州中の7州で議席の多数を占め、単独州政権を担うことになった。さらにムスリム連盟は「ヒンドゥー支配体制」に置かれることを警戒し、対立が深まった。

第二次世界大戦

 第二次世界大戦が起こると、イギリス政府はインドは自動的に戦争状態にあると宣言した。反発した国民会議派は州政府からの閣僚を引き上げた。さらに1940年3月、国民会議派はガンディーの指導のもと、戦争反対を掲げてサティヤーグラハ運動を開始すると宣言した。それに対してムスリム連盟はイギリスの戦争への協力を声明し、ジンナーは「二民族論」を掲げ、インドとは別個のムスリム国家(それをパキスタンと言った)の建設を目指すことを明確にした。インドの民族運動は、独立の好機と捉えてイギリスと戦うか、ファシズムとの戦いのためイギリスと協力するか、大きな試練に立たされた。ネルーらはファシズムとの戦いを優先すべきであると考えたが、ガンディーはファシズムと対決しながらもイギリスと妥協することを拒んだ。

インドを立ち去れ運動

 さらに1941年末、太平洋戦争が勃発、日本の勢力がインドに及んでくると、チャーチル内閣はアメリカや中国の要請を容れてインドの戦争協力を得るためにクリップス特使を派遣した。しかしその提案は即時独立とはほど遠かったのでガンディーは1942年8月、国民会議派を率いてインドを立ち去れ運動を開始し、逮捕されたが、ガンディーらの逮捕に抗議した民衆暴動が各地におこった。一方のムスリム連合はイギリスの対ファシズム戦争に協力する姿勢をとり、国民会議派と決定的な対立に至った。国民会議派の中には日本に協力してイギリスからの独立をめざすチャンドラ=ボースの運動も現れた。
日本軍の侵攻 インパール作戦 日本はシンガポールを占領すると、インド侵攻を視野に入れ、イギリスの弾圧を逃れてきたインド人を後援して、インド国民軍を編制した。1944年2月、日本軍はビルマからインドに侵攻し、インパール作戦を開始するとチャンドラ=ボースらの率いるインド国民軍は日本軍に協力、イギリス軍と戦った。このことは、日本軍のインド侵攻はイギリスの植民地支配から解放し、独立を支援して大東亜共栄圏を実現するためだという大義名分を掲げることを可能にした。しかし、現実にはインド民衆の支持はなく、日本軍はジャングルの中で物資不足によって苦戦に陥り、戦線を保持することが出来ず、7月に作戦を撤回した。日本軍は7万5千という戦死者を出し、インド国民軍も日本軍と共にビルマに撤退しなければならなかった。ガンディーは日本軍撤退をうけて「インドを立ち去れ」運動の終結を宣言、一方インド復帰を果たせなかったチャンドラ=ボースはソ連に亡命しようとしたが、途中に台湾で飛行機事故のために死んだ。

インド・パキスタンの分離独立

 大戦末期に成立した労働党アトリー内閣内閣のもとで、独立が具体化した。最後の総督マウントバッテンはネルー、ジンナーと会談し調停を試みたが断念し、分離独立を決断、両者もそれを受け入れた。それをうけて本国議会がインド独立法を制定、それにもとづいて47年8月にインドの分離独立が現実のものとなった。ガンディーの理想としたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協力による全インド一体となった独立はできず、ヒンドゥー教徒はインド連邦、イスラーム教徒はパキスタンとして分離独立、両宗派の混在していた地域からそれぞれの国家に大移動が行われ、その間衝突事件があいつぐなど悲劇的な状況となった。