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ガリポリの戦い

第一次世界大戦で、1915年4月、イギリス・フランス連合軍がロシアと連絡を可能にするため、ダーダネルス海峡に面したガリポリに上陸したが、オスマン帝国軍に阻止された戦い。オスマン帝国のケマルパシャの名声が上がった。

ガリポリ(ゲリボル) GooglMap

ガリポリは、現在のトルコ共和国、ダーダネルス海峡に面したゲリボル。第一次世界大戦において、1914年10月にオスマン帝国がドイツ・オーストリア側に参戦したため、ダーダネルス=ボスフォラス海峡が同盟国側に押さえられることとなった。これは、ロシア海軍が地中海に出られなくなることを意味し、またドイツ海軍が東地中海の制海権を得ることでイギリスのスエズ運河支配が脅かされる恐れがあることを意味していた。そこでイギリスの海軍大臣ウィンストン=チャーチルは、ダーダネルス=ボスフォラス海峡を確保し、英仏軍とロシア軍が連絡をつけることができるようにするため、オスマン帝国のガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた。1915年4月25日、英仏連合軍にオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)を加えて攻撃した。

オスマン帝国軍がイギリス軍などを破る

 しかし、英仏軍・ANZAC軍の連合国軍は、ガリポリの戦いでオスマン帝国軍の抵抗を受け、砦を占領することが出来ず、苦戦に陥った。その間、10月14日にブルガリアが同盟国側に参戦した。やむなくイギリスは、15年10月にサロニカに上陸してギリシアを連合国側に参戦させたが、12月には連合国側のセルビア軍がオーストリア軍に敗れたため、同盟国軍が連絡を付けられるようになったため、イギリス軍は16年1月に撤退したが多数の死傷者を出した。バルカン方面でのイギリス軍の後退の要因を作ったガリポリの戦いで、オスマン帝国軍を勝利に導いたのはムスタファ=ケマルだった。ムスタファ=ケマルはこの時弱冠34歳、ガリポリの英雄として戦後にその名声を高め、後にトルコ共和国の初代大統領となる足場を築いた。一方のチャーチルは作戦失敗の責任を取り、一時閣外に去る。多くの戦死者を出したオーストラリアでは、4月25日をアンザック・デー(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)として追悼する日としている。
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