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上海事変(第一次)

1932年1月、上海での日本人僧侶殺害事件を口実に日本軍が中国軍を攻撃。満州事変・満州国建国などに対する批判の目をそらすための謀略であったが、中国軍の抵抗と国際的な非難を受け撤退した。一般にこの軍事衝突を上海事変と言うが、こちらを第一次とし、1937年の盧溝橋事件の直後に日本軍が上海で行った軍事行動を第2次上海事変ともという。

 1931年9月の満州事変を起こし、満州で軍事行動を展開していた日本軍が、戦火を中国本土に拡大させ、1932年1月28日~3月にかけて上海で日中間の軍事衝突が起こった。これを満州事変に続き上海「事変」としたのは、国際法上の戦争行為ではないとするためであり、日本も調印していた不戦条約に反するという国際世論をかわすためであった。実態は満州事変に続く軍隊による戦闘行為である。なお、1937年の盧溝橋事件後に上海で日本が起こした軍事行動を第2次上海事変と区別し、こちらを第1次上海事変という場合も多い。 → 「事変」の意味については支那事変の項を参照。

満州事変直後の日中衝突

 1932年1月18日、上海の共同租界で日本人の僧侶が中国人に襲撃されて死亡する事件が起こったことを機に、日本海軍陸戦隊が出動し、1932年1月28日に中国軍と衝突した。中国側では「一・二八事変」と呼んでいる。中国軍は頑強に抵抗、日本軍は陸軍部隊を増強し、三月に中国軍を上海から撤退させ、5月5日に停戦協定(淞滬停戦条約)を成立させた。この戦闘で上海市街は大きな被害を受け、反日感情はさらに強まり、また国際連盟およびイギリス・アメリカなどの国際世論は日本の侵略行為に対する非難が強まった。特に中国が国際連盟に日本の侵略行為を訴えている最中に、日本が中国本土で軍事行動を起こしたことは、連盟加盟国に強い不信感を抱かせた。
 日本は、1931年の満州事変と翌1932年の上海事変の後に満州国を建国、同年の五・一五事件によって政党政治が終わりを告げ、1933年の国際連盟脱退という国際的な孤立の道を歩み、そして1936年の二・二六事件を経て軍部独裁体制が作られ、1937年に中国との全面戦争である日中戦争へと突入する。その歩みはヨーロッパのナチス=ドイツの政権獲得からスペイン戦争の人民戦線の敗北へと言うファシズムの動向と一致していた。

戦後明らかになった日本軍の謀略

 この事変は、戦後になって、上海駐在日本公使館付き武官であった田中隆吉少佐が、関東軍の参謀板垣征四郎大佐の依頼で、中国人を買収して襲撃させたものだったことが判明した。満州事変の勃発で満州に集中している列国の関心をそらすのがねらいであった。
 当時、上海は中国で最も繁栄する都市であり、イギリスやアメリカなどの租界があり、その地への日本の軍事行動は大きな国際問題となった。中国の蔣介石政府はただちに国際連盟に提訴し、総会では日本を非難する動きが強まった。揚子江(長江下流域)に大きな権益を持つイギリスとアメリカも日本を非難し、海軍の艦艇を派遣した。

失敗に終わった武力行使

 上海事変は、満州事変での陸軍の成功に刺激された海軍によって主導され、引き起こされた。海軍陸戦隊は満州における中国軍は弱体であると見て、容易に勝てると判断していたが、上海を防衛していた中国軍の第十九路軍は、蔣介石系ではなく、広東国民政府系の華南地方出身者が多く、内戦を経験して戦闘力を強めていた。その点を見誤った海軍は苦戦に陥り、陸軍の増援を要請せざるを得なかった。また、ちょうど同時期の1932年2月から、国際連盟主催のジュネーヴ軍縮会議(一般軍備制限会議)が開催され、アメリカ合衆国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加して軍縮に関する大規模な国際会議が開催されていた。会議では日本の軍事行動に関心が高まっていたが、その精神に反する上海事変への戦火拡大は、強い反発を受けることとなった。国際世論を軽視して軍事行動を強行した点でも日本は見通しを誤っていた。

爆弾三勇士と捕虜の悲劇

 こうして上海事変は日本にとって何らの得るものもなく停戦となり、日本軍は撤退した。明らかな失敗であったが、その失敗を隠すように、国内ではこの戦闘で爆弾を抱いて敵陣に突入した日本兵が「爆弾三勇士」として国民的な英雄とされ、歌や映画も作られ、軍国主義化が一気に加速した。その一方、上海事変で中国軍の捕虜となった日本のある将校は、停戦成立後の捕虜交換によって帰国したが、俘虜となって生きて帰ったことを恥じて、まもなく割腹自殺した。陸軍大臣荒木貞夫はこの将校を日本軍人の鑑と持ち上げた。こうして日本兵の中に「生きて俘虜の辱めを受けず」という戦陣訓が現実のものとして定着した。

歴史教科書での上海事変

 柳条湖事件から始まった満州事変は現在もよく知られているが、日中戦争に至るもう一つの重要なポイントである上海事変は忘れられようとしているのではないだろうか。ちなみに、高校教科書である山川出版社『詳説日本史B』では本文に記載がなく、注記として小さく、
(引用)満州での日本の軍事行動は、中国の排日運動をますます激しくさせ、1932(昭和7)年には上海でも日中両国軍が衝突した(第一次上海事変)。<山川出版社『詳説日本史B』2011 p.322>
とあるだけで、あたかも中国の排日運動が原因であるような文脈であり、日本軍の謀略であることや大きな国際的非難が起こったことなどは触れられていない。
 むしろ世界史の教科書の方が、
(引用)軍部は国際社会の注意をそらすために、32(昭和7)年には上海事変をおこした。日本の軍事行動は国際的に批判され・・・<山川出版社『詳説世界史B』2011 p.358>
となっていてより正確な内容となっている。上海事変を正確に理解するには、やや詳しくなるが、その経緯を見ておかなければならない。

上海事変の経緯

 上海事変はどのように起こされたか、整理しておこう。満州事変に対する怒りは、現地の満州より、上海で激しくなっていた。学生10万、港湾労働者3万5千のストライキが行われ、市民20万の抗日救国大会が開かれ、対日経済断交を決議するなど、反日感情は空前の高まりを見せていた。<丸山昇『上海物語』2011 p.185>
桜田門事件 そのような中、1932年1月8日、東京代々木で観兵式から帰る途中の天皇が、桜田門で爆弾を投げられるという事件が起こった(桜田門事件)。犯人の投じた爆弾は一台間違えたので、天皇は無事だった。その場で捕らえられた犯人は朝鮮人であったが、中国でもこの事件は大きく報じられ、上海の国民党機関誌「民国日報」は「爆弾が天皇に当たらなかったことは残念だ」と書き、中国各地の新聞も同様に書いた。それに対して日本人居留民は「天皇に対する不敬だ」として騒ぎ、上海では国民党本部や新聞社を襲撃し、総領事と陸戦隊が中国政府に抗議した。こうして上海や青島などで中国人と居留日本人の間の緊張が高まった。しかし中国の状況は日本では報道管制が敷かれ、国民に知られることはなかった。
日本人僧侶襲撃事件 そのようなおり、1月18日に上海で托鉢中の日本人僧侶ら5名が中国人民衆に襲撃されるという事件が起こった。被害者は上海の日本山妙法寺という日蓮宗の寺院の僧侶と信者で、重傷者2名のうちの一人が24日に死亡した(人数には異説がある)。緊張がにわかに高まり、1月27日に日本総領事は上海市当局に市長の陳謝、加害者の処罰などを要求、市当局はその要求を受諾する一方、戒厳令をしいた。各国租界の警備隊が警備につく中、深夜から翌1月28日にかけて日本海軍の現地艦隊司令官塩澤少将は東京の政府の許可を受けずに海軍陸戦隊の行動開始を命令、戦闘が開始された。この1932年1月28日に始まった戦闘を、日本では上海事変(第一次)と言っている。
事件の真相 戦後になって、当事者であった上海駐在公使館付武官田中隆吉が東京裁判で真相を告白し、事件の全貌が明るみに出た。それによると、当時、満州国の建設を進めていた関東軍の参謀長板垣征四郎は、満州事変に対して国際連盟などの国際世論による非難が強まっていたことから、世界の目を他に逸らすため、国際都市上海で事を起こそうと考え、田中少佐を満州に呼び、2万円の資金を与え、田中は男装の麗人として知られるスパイ川島芳子を使って中国人の無頼漢を買収させ、かれらに日本人僧侶を襲撃させたのだった。<大内力『日本の歴史24 ファシズムへの道』中央公論社1967 p.344>
上海の日本人 上海事変では、在留日本人の動きに重要なカギがあった。
(引用)この時期には、排日事件に対する在留日本人の暴力的対応が目立っており、例えば青島では、1月12日、約200人の日本人が天皇に対する不敬記事を掲載したとして、新聞社を焼き討ちし、焼失させるという事件がおこっているが、上海でも日本人僧侶が襲撃された翌日深夜には、約30名の日本人青年たちが、襲撃現地のタオル工場を襲って放火するという挙に出ている。当時の、日本人の居留民社会は、全体としてこうした中国側への暴力を容認していたと考えられ、上海の場合はさらに強く、1月20日の居留民大会では、日本政府は軍隊を派遣して抗日運動を絶滅せよと要求する決議がなされているのである。<古屋哲夫『日中戦争』1985 p.71>
日本人自警団による便衣隊狩り 戦闘が始まると、居留民は自警団を組織し、銃や日本刀・棍棒などで武装して検問を実施し、便衣隊狩りと称して中国民衆を虐殺した。便衣隊とは平服姿で民衆の中に紛れ込んでいる軍隊という意味で、陸戦隊も便衣隊を銃殺する旨を布告し、重光葵公使は2月2日の報告で、自警団の行動は関東大震災の際の朝鮮人虐殺と同様であり、便衣隊の嫌疑を受けて処刑されたものは数百に達すると述べている。
停戦 中国軍の激しい抵抗に海軍陸戦隊は進撃を阻まれたため、2月2日に日本政府と参謀本部は本土から第九師団(金沢)の派遣を決定、本格的戦闘に入った。しかし、国際連盟は日本非難を強め、3月に総会を開催し、日本に対する撤退決議を出すこととなった。焦った日本軍はさらに陸上部隊を増派、タイムリミットの3月3日に予定した租界境界線から20キロの以外に中国軍を撤退させることに成功したとして、一方的に停戦した。
白川大将と重光公使の遭難   停戦交渉中の4月29日、上海の虹口公園で行われた天長節(天皇誕生日)の祝賀会で、朝鮮独立運動家の金九(大韓民国臨時政府のメンバー)らによる爆弾テロが起こされ、日本軍の上海派遣軍司令官白川義則大将が死亡、重光葵(終戦時の外務大臣)が重傷を負う事件が起こっている。しかし犯人が日本植民地である朝鮮人であったので、中国政府に抗議することもできず、日本軍はそれを口実として攻勢を強めることはできなかった。重光葵はその後も外交官として活躍、太平洋戦争敗戦時にはミズーリ号艦上で日本の降伏文書に署名、戦後も何度か外務大臣を歴任した。ニュース映像に現れる重光は杖をついて足を引きずっているが、それはこの時受けた傷によるものであった。

上海のもう一人の日本人

 上海事変が起こった時、魯迅は上海で作家活動をしていた。魯迅が住んでいたアパートは日本の陸戦隊本部に近く、銃弾が壁を貫通して飛び込んでくるありさまだった。
(引用)魯迅はまた内山完造の勧めで、家族とともに内山書店の二階に移った。流れ弾を防ぐため、窓を厚いふとんで覆い、じっとこもっていると、外の銃声や、土嚢を積んだ傍らを往復する衛兵の靴音などが、手にとるように聞こえた。魯迅ら一家は、二月六日までここで過ごしたのち、さらにここも安全ではないというので、イギリス租界漢口路の内山書店の支店に避難した。<丸山昇『上海物語』2011 p.188>
 内山完造は1924年から上海で書店を経営し、多くの中国人や日本人の作家と交流があった。佐藤春夫や小牧近江、金子光晴などが出入りした。魯迅やその弟の周作人も内山完造の世話になっている。しかし、上海事変で日中関係が悪化すると、日本軍からは中国人を匿っているとして睨まれ、中国側からは日本のスパイと疑われるようになった。それでも上海で頑張ったが、1937年には帰国のやむなきに至った。間もなく上海に戻り、戦後もとどまって在留日本人の世話などにあたった。1947年に国民党政府転覆陰謀の容疑で強制帰国となったが、その後も日中友好運動に尽くし、1959年、中国政府の招きで北京を訪問し、その歓迎会場で脳溢血で死去、遺骨は上海の万国公墓に埋葬された。その生涯は上記の丸山昇『上海物語』などに詳しい。

第2次上海事変

 上海事件(第一次)から5年後、1937年7月7日盧溝橋事件から、日本軍(支那駐屯軍)は本格的な軍事行動を開始、事実上の戦争状態となった。戦火は天津などに及ぶと南京の中華民国総統蔣介石も徹底抗戦を表明、中国各地の在留日本人の安全が脅かされるようになったので、日本政府は長江流域の漢口など日本人を急きょ船舶を仕立てて上海に避難させた。避難が完了した8月9日夕刻、引き揚げ者保護にあたっていた海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と兵士1名が、中国保安隊によって射殺されるという事件がおこった。当時は日中間の和平交渉中であったので決裂が危惧されたが、日本政府(近衛文麿内閣)は強硬な世論に押されて上海に2個師団の増援部隊を上陸させ、対抗して中国軍も上海周辺に進出、一触即発の状況となった。さらに翌月、1937年8月13日に上海において日本軍は大規模な軍事行動を開始した。

北支事変から支那事変へ

 この大山中尉殺害事件から端を発した軍事衝突は第2次上海事件と言われ、8月13日ついに全面的な衝突に拡大、日本軍は海上からの砲撃に加え、台湾、長崎から爆撃機を飛ばして上海を爆撃した。大変な混乱が起こった上海では、誤ってフランス租界にも爆弾が落とされ、2千人の死傷者が出るという事態となった。日本軍は15日、上海派遣軍を正式に編制、「支那軍の暴虐を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため」との声明を発表し、戦争目的は、排日抗日運動を根絶し「日満支三国間の提携融和」をはかるためであるとのべた。これによって盧溝橋事件直後の不拡大方針は放棄され、9月2日、それまで使用してきた「北支事変」の名称を「支那事変」と改め、全面的な日中戦争への突入を政府として確認した。しかし、国際情勢からみて、宣戦布告するのは不利(その最大の理由はアメリカが中立法で戦争国には支援しないことを定めていたため、その適用を恐れた)であるとの判断から見送られた。
 一方、蔣介石は全面的な日中戦争への突入という事態を迎えて7月17日に日本に対して応戦する声明を発表、1937年8月にスターリン政権のソ連と中ソ不可侵条約を締結、さらに1937年9月には毛沢東の共産党との間で第2次国共合作を成立させた。上海の防衛戦を破られた中国軍は後退を重ね、10月に長江上流の重慶に遷都した。このように広範な日本包囲網を築きながら、徹底抗戦の態勢を整えた。日本軍は「事変」と称しながら、事実上の戦争を拡大、12月には国民政府の首都南京を攻略したが南京虐殺事件を引き起こし、国際的な非難を受けることとなった。