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日本の国際連盟脱退

1933年2月、国際連盟総会は日本の満州からの撤退勧告案を可決、翌3月日本は連盟脱退を通告。創設以来のメンバーで理事国という国際的地位を放棄し、国際的孤立の道を選んだ。

 日本は1931年、現地軍の関東軍が独自行動で満州事変を起こしたのを機に中国への侵略を開始、満州全土を制圧して、1932年3月に傀儡政権満州国を建国した。これに対して、中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。それを受けて国際連盟はイギリス人を代表とする調査団を派遣を決定した。

リットン調査団、日本の侵略と認定

 リットン調査団1932年2月29日に来日、3月から6月まで現地および日本を調査を行った。その直前に日本は上海事変を起こしており、また国際連盟主催のジュネーヴ軍縮会議も開催中で、平和維持の為の話し合いが行われていた。
 1932年10月に結論つけられたリットン報告書は、日本の行為は侵略である認定した。ただし満州に対する日本の権益は認め、日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したが南満州鉄道沿線については除外された。

国際連盟の勧告と、日本の脱退

 1933年2月24日、国際連盟総会はリットン調査団報告書を審議、日本の代表松岡洋右は満州国を自主的に独立した国家であると主張したが、審議の結果、賛成が42カ国、反対は日本のみ、棄権がシャム(現在のタイ)で可決され、日本代表松岡洋右は連盟脱退を表明し、会場から退席した。正式には日本政府は1933年3月27日、国際連盟脱退を通告した。

閣議で決定された国際連盟脱退

 満州事変後の状況は緊迫の度合いを増していた。日本は満州国の独立を宣言させ、黒竜江省・吉林省・遼寧省の東三省だけでなく、西南に隣接する熱河省も予定されていると主張していた。さらに1932年9月15日に日本政府は日満議定書を締結して満州国に日本軍(関東軍)を駐屯させ、反日運動の鎮圧に当たっていたが、熱河省には実効支配がおよんでいなかった。そこで日本軍は、満州国内の治安活動の一環として熱河省に残る張学良軍などを排除するという口実を設け、1933年2月23日熱河作戦を実行した。つまり、リットン報告書に基づいて日本に対する処置を決定する国際連盟総会の前日であった。
 熱河作戦の強行が国際連盟総会の審議に悪い影響を与えるのは必至であったが、日本政府はすでに1月の閣議で決定し、天皇の裁可も得ていた。ただし齊藤実首相はこのままでは連盟総会で日本に対する経済制裁も含む措置、最悪の場合は除名も決議されるのではないか、と恐れた。そこで慌てて昭和天皇に裁可の取消を願い、天皇もそれに応じようとしたが、元老西園寺公望らは天皇の裁可の取消は権威の失墜につながり、軍のクーデタの恐れもあるとして、裁可の取消に反対したため、結局そのままとなり、熱河作戦は実行された。
 2月20日に再び閣議を開いた齊藤実首相は、日本に対するきびしい勧告案が総会で採択された場合には、自ら連盟を脱退することを決定した。このままでは経済制裁を受けるか、除名されることも覚悟し、それならば、日本の名誉が失われないためには「自ら脱退する」道を選んだのだった。
 その結果、閣議決定の通り2月23日には日本軍は熱河に侵攻し、さらに2月24日に国際連盟総会で日本軍撤退決議が可決されると、閣議決定通り、松岡代表は国際連盟脱退を表明して議場から退場した。

日本、ドイツの国際連盟脱退の意味

 並行して行われていたジュネーヴ軍縮会議も暗礁に乗り上げ、同年1933年10月にはドイツが国際連盟を脱退、国際連盟常任理事国2カ国が相次いで脱退するという事態となり、国際連盟の集団安全保障体制は大きく揺らぐこととなった。
 ナチス=ドイツはヴェルサイユ条約、ロカルノ条約の破棄を主張していたので集団安全保障体制そのものを否定することは自明のことであったが、日本は国際連盟の常任理事国でありながら、国際連盟の持つ集団安全保障の意味も意義も理解することなく、国際協調外交での軍縮も日本に対する圧力としてしか国民には理解されなかった。同時に国際連盟を脱退した二国は、全体主義国家として、イギリス・フランス・アメリカとの対立を強め、提携に向かうこととになる。 → 日独伊三国軍事同盟

国際的に孤立する日本

 国際連盟を脱退し、国際的孤立を決定的にした日本の状況はどうだったのだろうか。1933年は昭和8年、関東大震災から10年たったがまだその痛手から脱しているとは言えず、さらに1929年の世界恐慌の影響がおよび、経済不況が深刻化する中、満州進出は日本の苦境を打開する方策として国民的な支持を受けた。国際連盟脱退で国民の喝采を浴びた松岡洋右は、苦学してアメリカに留学して外交官となり、この時期には政友会の政治家として活躍していた。彼が、1931年の衆議院議会で「満蒙は日本の生命線」であると演説したことは、当時の日本の姿勢を象徴するものとして同調する声が多かった。
 その一方で、軍国主義化、侵略戦争に反対する声もあったが、1932年には満州国建国に消極的であったという理由で時の首相犬養毅が海軍軍人と右翼によって暗殺された五・一五事件が起こり、暴力による反対派に対する攻撃の風潮によって言論や自由な政治活動は抑えられていった。この年の2月には『蟹工船』で知られるプロレタリア作家の小林多喜二が逮捕、虐殺され、4月には京都大学の瀧川幸辰法学部教授が「赤化」教授として免職になったことに対し、教授・学生が大学の自治を掲げて反対運動を展開した滝川事件が起こった。