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遵義会議

長征途上の1935年、中国共産党首脳会議で、毛沢東がそれまでのコミンテルン主導に対して、独自路線を打ち出し、主導権を握る契機となった。

遵義会議会址 GoogleMap

 長征途中の中国共産党が、1935年1月15日から、貴州省遵義において開催した首脳部による会議。それより前、中国共産党は、国民党との国共内戦が続く中、その全面的な攻勢を受け、 中華ソヴィエト共和国の首都瑞金を維持することが困難となり、1934年10月に放棄し、長期の退却である長征に入っていた。苦しい行軍を続ける中国共産党首脳と紅軍は、湖南・広西を抜けて貴州省に入り、遵義において、路線決定のための重大会議を開催した。

遵義会議の内容

 1935年1月15日から始まった会議は正式には「中共政治局拡大会議」といい、出席者は18人とコミンテルン代表リトロフだった。主要議題はそれまでの路線の総括と、人事問題であった。毛沢東は当時は首脳部から外されていたが、拡大会議とされたため出席し、国共内戦での第5次囲創戦(国民政府軍の共産党根拠地への攻撃)におけるコミンテルンの指示が都市攻撃に偏重したために敗れたことを「極左冒険主義」として批判した。それに対して主流派の秦邦憲(ソ連留学派)とリトロフが反論し激論となった。コミンテルンの指示により都市に対する全面攻撃を主張していた主流派と、中国独自の革命路線をかかげ農村に根拠地を造って都市を包囲する戦術を主張していた毛沢東ら反主流派が、それぞれ相手の誤りを指摘、自分の誤りは認めないという状況で会議は膠着状態となった。ところが、周恩来が、それまでの党中央の路線を一貫して守ってきたことを自己批判して敗北を認め、毛沢東支持を発言したことによって会議の大勢は決まった。その結果、秦邦憲は指導部の総責任者の任務を外され、張聞天に交代した。張聞天もソ連留学派であったが、毛沢東も政治局常務委員に復活して軍事を担当することになった。この時会議に参加していた党幹部で、後々名前が出てくるのは、毛沢東・周恩来以外には劉少奇、林彪、鄧小平であるが、共産党史では外すことの出来ない陳雲、朱徳、彭徳懐などの軍司令官も参加していた。
遵義会議の意義 遵義会議は毛沢東の主導権が確立した会議とされ、毛沢東自身もそこでの勝利を自分の政権の出発点として評価し、常に誇らしげに述べている。現在では中国共産党の歴史の中でいささか「神話化」されていることが批判され、その詳細には見直しが進んでいるようだ。また遵義会議ですぐに毛沢東政権が誕生したのではないことは上の人事の結論を見ても分かる。
 大きな意義があるとすれば、この会議で中国共産党がコミンテルンから自立したと言えることだろう。コミンテルンの中国支部として結成された中国共産党は、この会議で初めてコミンテルンの指示ではなく、自らの意志で人事を決定したのだった。それは長征中で辺境にあり、電信が十分つながっていないという物理的条件もあるが、中国共産党が厳しい闘いの中で、自立する力をつけてきたことを示している。

Episode 会議中に菩薩が現れた?

 中国共産党は長征開始直後に大型通信機を遺棄しなければならなかった。そのためモスクワとの連絡手段がなく、コミンテルンの意向から離れてすべて自主的に判断し、決定しなければならないという状況で開かれた。
(引用)遵義会議はそうした状況のもとで開かれ、党の人事という大きな問題を自分たちで解決したのだった。毛沢東は晩年までこの遵義会議を語るのを好んだ。時にはおのれを救済者たる菩薩にたとえ、「つまりは、霊験あらたかな菩薩がいたわけだ。けど、糞溜めに捨てられて、臭いったらありゃしない。けど、長征の途中で遵義会議というのを開いて、ようやくこの菩薩さまが香しくなったのだよ」とユーモラスに語っている。誰かの指図や権威ではなく、自分たちで決めた指導部であり、自分はそうして選ばれたのだ、その毛の意識が遵義会議に特別な色合いをあたえるのである。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021  筑摩選書 p.114>

毛沢東の主導権とコミンテルン

 遵義会議で毛沢東がただちに権力をにぎったのではなく、指導部内には依然としてコミンテルンに忠実であろうとする勢力も強く、またモスクワでは中国共産党代表王明が活躍していた。しかし、毛沢東が共産党中央の軍事部門の責任者として入ったことは、その指導力と理論がその後の共産党を導いていくことの契機となった。中国共産党でコミンテルンの支持を得ずに指導権を握ったのは毛沢東が初めてであった。
 長征の途中、中国共産党は1935年8月1日には、国民政府に対して八・一宣言を出して、抗日民族統一戦線を呼びかけているが、それはコミンテルンの反ファシズム人民戦線結成の提起に応えたものであった。
長征の成功 その後、長征は危機的な状況を切り抜けて1935年10月に陝西省呉起鎮に到着し、終了した。それを成功させたことで毛沢東の軍事指導者としての名声と権威は高まった。また、長征は一種の全国宣伝行進の意味があり、その行き先で地主の追放、貧農への土地付与などの封建社会の一掃をはかり、また紅軍の規律ある行動も民衆の支持を受けたことで、共産党員も急増した。1937年に新たな根拠地延安が建設されると、毛沢東は膨張した共産党員に対する思想教育を進める整風運動を行い、引き締めを強めた。それが成功したことで毛沢東の権力は形づくられたと言える。
コミンテルンの解散 そのような中で1937年、日中戦争が勃発すると共産党は国民党との抗日民族統一戦線の結成に合意する。さらに第二次世界大戦が勃発、1941年には独ソ戦が始まり、スターリンはナチス=ドイツと戦うためにイギリス・アメリカなどとの連合国形成に踏み切ったことで1943年にコミンテルンが解散し、中国共産党へのコミンテルンの影響は消滅した。 <小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書などによる>