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国共内戦(第1次)

1927年から1937年までの中国国民党と共産党の内戦。1927年の蔣介石による上海クーデタで国共が分裂、内戦状態となり、国民党が共産党根拠地を奪うなど優勢であった、1931年の満州事変以来、日本軍の侵攻に対する一致した抵抗を求める声が強まり、1936年の西安事件を機に停戦の気運が高まり、翌1937年の日中戦争勃発により、国共合作(第2次)が成立し一致して抗日にあたることになった。

 第1次国共合作が決裂した1927年から、第2次国共合作が成立した1937年までの中国国民党(蔣介石の指導)と中国共産党(主として毛沢東の指導)の内戦。
 1927年4月12日蔣介石による上海クーデタによって、国共分裂となった後、蔣介石は北伐を完成させ、1930年末に国民政府の中で独裁権力をうちたてた。そのころ中国共産党は、毛沢東が指導して井崗山根拠地などを拠点に各地で武装蜂起を続け、同年7月には湖南省に「長沙ソヴィエト」を樹立したが、日本やアメリカの援助をうけた国民党軍に壊滅させられた。

蔣介石の「安内譲外」策

 このような共産党の台頭を恐れた蔣介石は、続いて1930年12月から、囲剿戦(いそうせん)といわれる共産党勢力への全面的な攻勢を開始した。囲剿戦は、第1次が1930年12月~31年1月、第2次が31年3~5月、第3次が31年7~9月の三次にわたって展開された。毛沢東はそれに対して「深く敵を誘い込む」戦術で応戦、劣勢をはね返した。国民党政府軍と共産党軍の激しい内戦が続くなか、1931年9月に満州事変が起こり、関東軍が満州で軍事行動を開始、日本の侵略が始まるが、蔣介石は「まず国内の敵を一掃して、のちに外国の侵略を防ぐ」(「安内攘外」)と称し、共産党との内戦を優先して抗日戦を回避する戦略をとった。

国民政府軍の攻勢

 国民の反日感情は強まり、また日本に抵抗しない国民政府への不満も強まった。一方共産党は1931年に江西省瑞金中華ソヴィエト共和国の設立を宣言し独立した権力を樹立した。上海停戦協定が成立した後、32年6月から国民党の第四次囲剿戦が始まり、江西省一帯の共産党根拠地の幾つかが陥落し、コミンテルンの指示による紅軍の都市攻撃も失敗した。33年、日本軍の熱河侵攻によりいったん中止された囲剿戦は、塘沽停戦協定成立後、34年10月、第五次として再開された。このとき、蔣介石はアメリカから資金の援助を受け、またドイツのゼークト将軍を軍事顧問として共産党を追い詰め、共産党は大きな打撃を受けた。

西安事件へ

 共産党は圧倒的多数の国民党軍に押され、1934年に瑞金を放棄し、長征(西遷)を行った後、翌年10月に延安に入った。国民党と共産党が一致して抗日戦にあたるべきであるとの声が強まる中、1936年12月、東北軍の張学良は、西安で蔣介石を監禁、内戦の停止を迫り、蔣介石もそれに応じるという西安事件で抗日民族統一戦線への素地ができ、1937年7月、日中戦争が始まると国民党政府は共産党政権との間で抗日のため、1937年9月に国共合作(第2次)に踏切り、以後内部に対立を含みながらも日本軍の侵略と共に戦った。
 → 国共内戦(第2次)
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