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援蔣ルート

重慶に退いた中国国民政府の蔣介石政権に対する米・英などの支援ルート。日本軍はその一つの仏印ルートを遮断するため、1940年9月の北部仏印進駐を行った。

 1938年10月、武漢三鎮が日本軍の手に落ち、蔣介石の国民政府は長江上流の重慶に退いた。重慶に対して日本軍は激しい空爆を加えたが、11月から重慶の国民政府に対するアメリカ・イギリスなどの支援が強化され、その抵抗はつづいた。この蔣介石政府支援のルートを当時日本では、援蔣ルートと言った。
 ルートは、アメリカ・イギリス・フランスによる仏印ルート(ハノイ・ルート)とビルマ雲南ルート(ビルマ・ルート)、さらにソ連による共産ルート(赤色ルート)の3ルートがあった。日本軍は日中戦争が膠着する中、これらの援蔣ルートの遮断を大きな課題として掲げ、ノモンハン事件(39年5月)の敗北で北進を断念した後は、フランス領インドシナやビルマ方面への進出を図るようになる。

日本軍の北部仏印進駐

 第二次世界大戦が始まり、1940年6月にドイツ軍がパリを占領し、フランスが降伏してドイツの傀儡政権ヴィシー政府ができたが、フランスの抵抗力は大幅に低下した。それをを受け、日本軍は援蔣ルートの内で最も重要であった、フランスが建設したベトナムのハイフォンと中国の昆明を結ぶ鉄道を利用したルートの遮断をヴィシー政府に要求した。ヴィシー政府はそれを拒絶する力は無く、日本軍は9月に北部仏印進駐を実行した。
 これによって日本はヨーロッパにおけるドイツ・イタリアとの提携を強め、日独伊三国同盟を締結、それはアメリカ・イギリスとの対立を深刻にさせることとなった。日中戦争の収束を目指す日本軍が北部仏印進駐によって援蔣ルートを遮断したことが、太平洋戦争勃発への重要な転換点だった。
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