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ヴィシー政府

第二次世界大戦中、ドイツに降伏したフランスで、1940年7月に中部の都市ヴィシーに成立した政府。ペタンを国家元首として共和政を否定した。対独協力を義務づけられ、ドイツ敗北に伴い消滅した。

 第二次世界大戦勃発当初、ドイツの攻勢が著しく、1940年6月14日にはドイツ軍がパリを占領し、6月22日に降伏した。フランスは国土の北部を占領されたことにより、中部フランスの町ヴィシーに急きょ親仏政権を樹立した。1940年7月11日に国家元首となったのは第一次世界大戦のヴェルダンの戦いでフランスに勝利をもたらして英雄とされていたペタン元帥であった。ヴィシー政府は、第三共和政の大統領制、議会制を廃止し、国家元首に立法、行政、司法にわたる統治権を集中させるというファシズム体制を敷いた。  ヴィシー政権は当初は国際的には正統なフランス政府としてアメリカ、ソ連など多数の国に承認されたが、ド=ゴールなどドイツに抵抗して亡命した勢力を受け入れたイギリスはヴィシー政府を承認しなかった。
 ヴィシー政府は、フランスの国土の5分の3はドイツに占領され、海外領土は自由フランス政府が押さえていたので、その支配範囲には限られていた。また、政治、経済、外交、文化などあらゆる面で対独協力を義務づけられていた。しかも、レジスタンスの抵抗を受け、政府内部でも対立があって次第に維持は困難になっていった。

対独協力とユダヤ人狩り

 ヴィシー政府には休戦協定によって対独協力が義務づけられていた。それはあらゆる面におよんでいたが、特にナチス=ドイツに倣って過酷なユダヤ人政策をとったことは後に大きな問題となった。1942年7月、ヴィシー政府はパリに住む1万3千人のユダヤ人を逮捕し、強制収容所に送ったのを始め、フランス各地で「ユダヤ人狩り」を繰り広げた。また、芸術分野でも反ユダヤ主義やナチ礼賛が強要された。ユダヤ人以外にも、ドイツの労働力不足を補うため、強制労働徴用を実施し、労働者2万5千人をドイツに送った。親ナチ派の自主的な対独協力もあり、6千人の反共義勇軍が組織されて独ソ戦の戦場で参戦している。

ヴィシー政府の崩壊

 1944年6月、連合軍がノルマンディーに上陸し、8月25日にパリが解放され、ドイツ軍が撤退すると後ろ盾をなくしたヴィシー政府は解体した。それより前の44年5月に臨時政府首班となったド=ゴールは、9月9日にパリに帰還、共和国家の再建を開始したが、その過程で対独協力=ヴィシー政府協力者に対する正規の裁判を経ない復讐行為で約5千人が殺された。ヴィシー政府要人は特別高等裁判所で裁かれ、首相のラヴァルと国家主席ペタンは死刑判決を受けた。ラヴァルは刑が執行され、ペタンは高齢を理由に終身刑に減刑された後、獄死した。
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