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汪兆銘(汪精衛)

孫文の側近の中国国民党員であったが、国民政府内で蔣介石と対立、日中戦争の最中、重慶政府を離脱、1940年3月、親日政権の南京国民政府を樹立し首班となった。講和に応じるなど日本に協力したが、国民の支持がなく、44年に日本で病死した。

汪兆銘

汪兆銘(汪精衛)

 汪兆銘(おうちょうめい)1883-1944 の兆銘は「名」で、「字(あざな)」は精衛(せいえい)といった。日本では汪兆銘と言われるのが一般的だが、本来なら汪精衛というのが正しい。浙江省山陰県(現在の紹興)出身で、1901年の科挙に合格し秀士となる。1904年、21歳で日本に留学、法政大学などで学ぶ。日露戦争での日本の勝利に刺激を受け、1905年、孫文が結成した中国同盟会に参加、機関紙民報の編集に加わった。翌年から孫文に従って東南アジア各地を巡り、華僑の組織化を図り、革命家として積極的に活動、1910年には清朝の摂政王の暗殺を企てるも失敗に終わり、逮捕された。獄中で辛亥革命となり、釈放後フランスに留学、法律を学んだ。帰国後、1924年、中国国民党の執行委員、宣伝部長となり、孫文を助けて共産党との第1次国共合作に努めた。

Episode 「名」と「字(あざな)」

 中国人には「名」と「字(あざな)」があった。名は自分で名のるもの、字は他人から呼ばれる「よびな」である。そこで相手の名を呼ぶのは憚られ、字で呼ばなければならない。蔣介石の場合は「介石」は字で、名は「中山」であったから、日本人が彼を蔣介石と呼ぶのは相手を敬った言い方で問題がない。ところが日本の敵である蔣介石を名でよんだのに、親日派の汪兆銘に対してはその名で呼び、字の「精衛」とは呼ばなかった。汪兆銘はそれが不満で、日本側に抗議し、それからは字で「精衛」と呼ぶようにした。このように「名」を呼ぶことは失礼とされ、さらに亡くなった人の生前の名は「諱(いみな)」といって避けなければならないという避諱(ひき)の法が、特に皇帝では守られていた。<山口修『中国史55話』1996 山川出版社 p.39>
 つまり、汪精衛と呼ぶのが正しいが、教科書などでも汪兆銘の名で定着しているので、ここでもそれに従うこととする。

孫文の後継者

 汪兆銘は古くからの中国国民党員で、孫文の側近の一人として、三民主義及び、連ソ・容共・扶助工農という国共合作の理念を忠実に守り、その後継者として自認していた。1925年3月に孫文が死去、その遺言の署名者の一人となっている。5月の五・三○運動での反帝国主義、民族主義の運動の高まりを受け、1925年7月に広州で「広州国民政府が成立すると、汪兆銘は実質的な党主席として国民革命の中枢となった。しかしそのころから、国民政府の軍事面を握った蔣介石と党の主導権をめぐって対立するようになった。共産党との合作の継承を主張する汪兆銘は国民党左派、蔣介石は右派と言われるようになった。

蔣介石との対立

 国民革命軍を率いた蔣介石が北伐を進め、武漢を攻略すると、国民政府も広東から北上させて武漢に移り、武漢政府とし、汪兆銘は主席として国共合作の路線を継続しようとした。その頃から共産党の台頭に危機感を持つ右派は、資本家層の要望もあって共産党排除に動くようになり、ついにその動きは蔣介石による1927年4月12日上海クーデタ(四・一二事件)として実行され、共産党勢力に対する大弾圧を決行した。

第一次国共合作の破綻

 しかし、武漢政府を握る汪兆銘らは国共合作の維持を掲げて蔣介石に反対、両者の対立は決定的となり、蔣介石は別に南京国民政府を樹立した。汪兆銘はなおも国共合作を維持しようとしたが、政府内部の右派勢力も増大し、コミンテルンの共産党への指示も強硬なものであったことから、汪兆銘は一転して反共の立場に立ち、ついに共産党排除に踏みきり、1927年7月15日に国共合作の破棄を宣言した。
 その後、武漢政府は消滅し、南京国民政府に合流したが、汪兆銘は政治の中枢から離れて広東で活動、1931年5月には広東に新たに国民政府を樹立して南京の蔣介石に対抗した。

日本軍の侵略

 しかし、同年、満州事変が起こり、国民政府も一体化を迫られたため、1932年1月、蔣介石と和解し、南京国民政府に参加、行政院長兼外交部長としてナンバー2の地位についた。中国ではナショナリズムが高揚したが、日本の侵略が満州に次いで華北に伸びてくると言う現実を前に、汪兆銘はそれに抵抗する国力が不十分であると考え、「一面抵抗、一面交渉」の方針を打ち出し、日本軍と講和もはかるべきだと提唱した。しかし対日交渉は譲歩であり、売国であるという反対派の非難が激しくなり、1935年11月には白昼、反対派から狙撃され重傷を負った。
 1937年、日中戦争が勃発、日本軍が南京に迫ると、蔣介石以下、国民政府は重慶に移り、汪兆銘も従った。日本の近衛文麿内閣(第一次)は1938年1月に「国民政府を相手にせず」と表明、軍事攻勢を強めて屈服させようとした。

日本軍の工作

 日本軍は広州・武漢を攻略したが、戦線は伸びきったまま長期化の様相を呈してきたため、本格的な講和を模索せざるを得なくなってきた。そこで、軍部は秘密裏に工作を進めて国民政府内の反蔣介石派と接触し、その分裂をはかった。その対象となったのが、孫文の後継者を自負しながら、蔣介石と対立していた汪兆銘であった。軍が秘密工作を進める上での効果をねらい、近衛文麿内閣は、それまでの「国民政府を相手とせず」という方針を捨て1938年11月3日東亜新秩序を表明し、親日的な政府の出現を促した。

南京国民政府を樹立

 汪兆銘は1938年12月、日本陸軍の軍人によって密かに進められた工作により、重慶から脱出に成功、ハノイに迎えられた。近衛内閣は講和の三原則「善隣友好、共同防共、経済提携」を示し、汪兆銘もそれに応えて停戦を表明した。日本政府は汪兆銘を南京に迎え、1940年3月、親日政権として南京国民政府を樹立させた。
 汪兆銘の南京国民政府(一般に南京国民政府とは1927年の上海クーデタ後に蔣介石が南京に建てた政権を言うが、それとは別)は、「反共和平」「純正三民主義」を掲げ、日本と停戦して中国社会の再建をめざした。その間、日本は汪兆銘政権を中国の正統な政府と認めるため、大東亜会議への招聘、1940年11月には日華基本条約の締結を行って汪兆銘の南京政府を中国正統の政権と認め、さらに1943年1月日華新協定を締結して治外法権の撤廃、租界の返還など不平等条約の撤廃を認めた。
 南京国民政府は政府としての形態をとったが、実態は傀儡政権と見なされ、中国民衆の支持はほとんどなく、重慶政府、共産党軍の抵抗は依然として活発であったため、戦争終結には結局、役立たなかった。日中戦争が激化し和平が遠のくに従い汪兆銘は「売国奴」「漢奸」と非難されるようになり、1944年、病気治療のため日本に渡り、11月に名古屋の病院で病死した。日本占領下の南京で一時存在した南京国民政府は日本敗北とともに消滅し、現在の中国では「日本の傀儡政権」、「偽政府」とされている。

参考 汪兆銘暗殺説

 汪兆銘は日中戦争が終わる前、1944年3月、名古屋帝国大学付属病院に入院、11月10日に亡くなった。死因は35年にテロに遭ったときの銃弾が体内に残っており、それが化膿したためでるとさている。しかし汪兆銘の入院から死にいたる経緯は戦争中の最も機微にかかることだったので、長い間その真相をめぐって疑惑が持たれていた。1983年ごろ、香港のある学者が汪兆銘は名古屋で病死したのではなく、上海において謀殺されたのだという説を公表した。しかもそれは蔣介石と国民党が秘かに実行したとしたため、大きな反響を呼んだ。なぜ蔣介石が汪兆銘を暗殺したかというと、そもそも汪兆銘の重慶脱出は蔣介石と合意の上であり、汪兆銘は蔣介石と連絡をとりながら「和平工作」を進めていたが、日本の敗北が明確になると、その事実が明らかになることを恐れ、上海の虹橋病院の治療中の汪兆銘を毒殺したのだ、というものであった。しかしその後、汪兆銘の日記や南京政府要人の日記が公開されたことによって、汪兆銘の死んだ日にちと場所は通説どおりであったことが判明し、ドラマチックな暗殺説は霧散した。 <劉傑『漢奸裁判―対日協力者を襲った運命』2000 中公新書 p.120-131>
 汪兆銘の墓は南京の孫文の墓「中山廟」近くの梅花山に造られた。中山廟に似たデザインの立派な墓の造営が始まったが、途中で日中戦争が終わり、規模を小さくして完成させた。ところが南京に入った重慶政府の軍司令何応欽は、蔣介石が南京入りする前に汪兆銘の墓を爆破し、遺体を焼却、遺骨は近くの野原に捨てたという。こうして汪兆銘は墓も遺体も抹消されてしまった。<劉傑『同上書』p.168-176>

Episode 「汪兆銘の梅」

 名古屋大学大幸医療センター構内構内には、現在も「汪兆銘の梅」といわれる梅の木が花を咲かせている。これはもと同大の医学部のあった鶴舞校舎の付属病院構内に植えられていたもので、校舎建て替えに際して現在地に移された。説明版によると、同大学病院で亡くなった汪兆銘を偲び、遺族が寄贈した梅の木三本のうち、まだ生き残っている二本なのだという。また説明版によると、汪兆銘は1943年、南京の陸軍病院で昔の凶弾の摘出手術を受けたが経過が思わしくなく、44年3月、名古屋帝国大学病院に転院した。しかし多発性骨髄腫を発症しており、治療の甲斐無く11月に病院で死去、その事実は公表されなかったという。名古屋大学 「ちょっと名大史」>

漢奸裁判

 汪兆銘の死後、南京国民政府の主席には陳公博が就いたが、1945年8月、日本軍の敗北が確定すると、8月16日、国民政府解散宣言が発表され、消滅した。9月8日、重慶政府の陸軍総司令何応欽が飛行機で南京に乗りこみ、南京政府関係者の逮捕が始まった。中国を裏切り、日本に協力した者を中国では「漢奸」と言い、彼らに対する「漢奸裁判」が行われることとなった。その結果、陳公博、周仏海などの政府幹部は次々と死刑の判決を受け、処刑された。
 裁判では陳公博をはじめ、被告となった人びとは汪兆銘に従っただけだという自己弁護を試みたが、許されなかった。また、汪兆銘が実は蔣介石の指示で日本との講和を進めていたのではないか、といった疑いを持つ者もいた。裁判が迅速で、処刑もすぐに行われたのは、そのような真実が明らかになるのを防ぐためであったという見方もあると言うが、真実はわかっていない。<以上、劉傑『漢奸裁判―対日協力者を襲った運命』2000 中公新書>
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『漢奸裁判―対日協力者を襲った運命』
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