ノモンハン事件
1939年5月、モンゴル国境で起きた日本の関東軍とソ連軍の衝突。ノモンハン戦争とも言う。関東軍はソ連軍の機械化部隊との戦闘で大きな損害を受け敗北した。ソ連の被害も甚大であったこと、9月に第二次世界大戦が始まるという情勢となったため、休戦が成立した。これを機に日本は北進を諦め、南進論に転換して日中戦争の局面打開を図った。
1939年5月、満州国と外モンゴルで起きた国境紛争で、日本軍とソ連軍が直接対決した衝突事件。日本軍(関東軍)はノモンハン地区の国境線の明確化を主張して軍事行動を開始、モンゴルを支援するソ連軍が迎え撃った。広大な草原での機甲部隊同士の対戦となり、双方に多大な犠牲が生じたが、関東軍は戦闘は不利な情勢であると判断して、9月15日に休戦協定を締結した。そのときすでに9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻が開始され、第二次世界大戦が始まっており、ソ連軍は全力でヨーロッパ戦線にあたる必要が生じていた。日本軍も日中戦争において前年に武漢三鎮、広東を攻略したものの、戦線拡張は限界に達し、重慶に逃れて抵抗を続ける蒋介石・国民党軍と、延安を拠点とする中国共産党の八路軍の抵抗に手を焼きいていたので、ノモンハン事件での敗北を機に、中国との戦争の膠着を打開するため東南アジア方面に進出しようという南進論へと転換することとなった。
この事件の1年に満たない後の1939年5月に起こったのがノモンハン事件であった。関東軍は、張鼓峰での敗北は当事者の朝鮮軍(朝鮮駐留の日本軍)の消極的な姿勢のためであるとして、その敗戦から学ぶことなく、戦術・装備などの見直しを怠ったと指摘されてもやむを得ない。ノモンハン事件(戦争)の主役であった関東軍の幕僚は満州事変以来の成功体験から絶対的な自信を持っており、結果的にそれが独善的になってしまったと言えるだろう。
日本軍の大敗というのは事実と違うかもしれないが、少なくとも関東軍も自軍の敗北であると認識し、その後の歴史が展開した、ということであろう。
ソ連にとってのノモンハン
ソ連ではこの戦争をハルヒン・ゴル河畔の戦いと言っている。ノモンハン戦争の経緯
日本は満州事変をテコにして満州全域を支配下に収め、1933年に満州国を樹立した。それによってソ連と直接に国境を接することとなった。事変後、日本軍は中国全土に戦線を拡大、日中戦争を優位に戦いっていったが、この段階でも、最大の仮想敵国はソ連であると捉えていた。そのため満州北部の防備に力を注ぎ、またソ連軍の動向とその戦力に強い関心を持った。このような緊張状態の中で、満州国とソ連の国境線には不明確なところが多く、双方の主張に食い違いがあり、しばしば紛争が生じていた。1938年7月29日には南東部の豆満江河口付近で、日本軍とソ連軍の軍事衝突である張鼓峰事件が起こっている。このときソ連兵が国境を越えて進出しているとして、中央の参謀本部の指令に従い、「威力偵察」と称して朝鮮駐留の日本軍が出動したが、戦車、飛行機などを動員したソ連軍に撃退された。この事件の1年に満たない後の1939年5月に起こったのがノモンハン事件であった。関東軍は、張鼓峰での敗北は当事者の朝鮮軍(朝鮮駐留の日本軍)の消極的な姿勢のためであるとして、その敗戦から学ぶことなく、戦術・装備などの見直しを怠ったと指摘されてもやむを得ない。ノモンハン事件(戦争)の主役であった関東軍の幕僚は満州事変以来の成功体験から絶対的な自信を持っており、結果的にそれが独善的になってしまったと言えるだろう。
ノモンハン戦争の勝敗
ノモンハン事件、あるいはノモンハン戦争とも言われるこの日本軍とソ連軍の戦争は、日本では日本軍の大敗と認定され、それによって北進を断念した、とされてるのが一般的であった。戦後長く、この事件については日本側・ソ連側の史料が少なく、その規模や実態に判らない点が多かったが、ソ連末期の情報公開やソ連解体後の新資料の発見などによって少しずつ実態が明らかになっている。それによるとソ連側の被害も相当なものがあり日本軍を圧倒したとは言えなかったことがわかってきた。ただその事態を日本軍もつかめず、日本軍の損害も大きかったので、休戦交渉はソ連有利に進められたと言うことであった。日本軍の大敗というのは事実と違うかもしれないが、少なくとも関東軍も自軍の敗北であると認識し、その後の歴史が展開した、ということであろう。
第二次世界大戦へ
ここまで日本はソ連を仮想敵国として対ソ開戦論(北進論)を選択の一つとしていたが、同年8月に独ソ不可侵条約が締結されたこともあって、それは消滅した。また陸軍はこの敗戦を教訓として、装備の機械化を進めた。ノモンハン停戦協定成立直前の9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった。その後の日ソ関係
日本軍はノモンハンでソ連に事実上敗北したため、目標を南進に転換した。ヨーロッパでドイツがイギリス・フランスと戦争を開始し、両国がアジア植民地支配に力を割けなくなったことを受け、日本軍は日中戦争の停滞の打開もめざして、インドシナ方面への進出を画策、翌40年9月に北部仏印進駐を強行すると共に、日独伊三国同盟を締結した。しかし、ドイツはフランスを征服したが、イギリスを制圧することに手間取り、その目標を東方に転換したため独ソ戦のおそれが迫ってくる状況となると、ソ連と日本は急接近し、41年4月、日ソ中立条約を締結する。ソ連との戦争回避に成功した日本軍は、ついに同41年12月、アメリカとの戦争に踏み切り太平洋戦争が勃発、アメリカが参戦し、日独伊の枢軸国に対して米英はイデオロギーの違いを超えてソ連と提携して連合国を形成し、世界は二陣営に分かれて全面戦争となった。ソ連はドイツとの死闘に多くの犠牲を払いながら、ヤルタ会談で連合国側に対日参戦を約束、ドイツ降伏後の1945年8月8日に中立条約を破棄して日本に宣戦布告し満州国に侵攻、多くの日本軍兵士、民間人が犠牲となった。