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ゲットー

中世ヨーロッパの都市に設けられたユダヤ人居住区。ナチスドイツの支配地でもユダヤ人を強制隔離して集団居住地としてゲットーが作られた。

 ゲットー Ghetto は、第一次世界大戦中にナチスドイツが占領したポーランドなどで、ユダヤ人を強制的に隔離し、集団で居住させた地区のことを言うが、その起源は中世ヨーロッパにあった。
 ヨーロッパにおけるユダヤ教徒=ユダヤ人に対する迫害は、キリスト教世界における異教取り締まりの一環として、十字軍時代から激しくなってきた。すでに1179年の第3回ラテラノ公会議では、異端取り締まりの一環として、キリスト教徒とユダヤ教徒が一緒に住むことは禁止されていたが、それは必ずしも厳密に守られていたわけではなかった。

ゲットーの始まり

 しかし、このような教皇の指令とは別に、1516年にヴェネツィア共和国で、ユダヤ人を隔離した特別な区画に鋳造所=ジェットーの近くに設けられたことから始まり、それがイタリア以外にも広がって16世紀以降は教制定に設けられたユダヤ人居住地を公にゲットーと呼ぶようになった。ドイツでは「ユーデンガッセ」といわれた。
 1555年、教皇パウルス4世が教書を発し、中世以来続いていたユダヤ人に対する抑圧的立法を復活させ、ユダヤ人は今後彼等だけの居住地に、キリスト教徒と隔離されて住まわされることとなった。ゲットーは高い壁をめぐらし、夜とキリスト教の祭日には門は閉ざされ、ユダヤ人は知的職業からは閉め出され、商業活動は制限され、最も卑しい仕事しか与えられず、外出時は目印として「黄色い帽子」をかぶり、バッジをつけなければならなかった。

ゲットーのひろがり

 カトリック教会のユダヤ人に対する方策は、教皇によって緩和・強化を繰り返しているが、次第にルネサンス時代の開明性は失われ、反宗教改革の時代には反動的になっていった。クレメンス8世による一連の法令によって、1592年以降救い難い暗黒の時代が始まり、19世紀まで続くことになった。ユダヤ人はそれまで百か所以上にのぼる少居住地をもっていた教皇領諸国の至る所から追い出された。イタリア半島の至る所にゲットーができ、ゲットー制は細部にいたるまで施行された。こうして16世紀中頃から、かつてユダヤ人の天国であったイタリアは、宗教的不寛容の典型とされることとなり、「ゲットー」は、「その甚だしい狭小さと頽廃的状態という点で、ヨーロッパ・ユダヤ人の生活の象徴となった」。<シーセル=ロス『ユダヤ人の歴史』p.178,197->

ゲットーのユダヤ人

 ユダヤ人はゲットーから出るときは「ユダヤ人バッジ」の着用を強制されていた。その初めは1215年のラテラノ公会議で定められたものであったが、16世紀から徹底的に強制されるようになった。
 イタリアでは、黄色とか赤のはっきりした色の帽子を着用すること、ドイツでは外被の心臓に当たるところに黄色い円のバッジを付けることになっていた。これらのマークを付けずにゲットーをでる者には重い罪が課せられた。時にはゲットー内でさえ着用させられた。
 ゲットーにはシナゴーグが作られ、ユダヤ人は律法に従い、ラビの指導のもと、タルムードを学び、その習慣を守ったが、ユダヤ人に対する特異な差別意識は他の市民の間で永く続いた。
(引用)復活祭のあいだ中、「聖木曜日」以後ずっと、ゲットーの門は厳重に閉ざされ、ユダヤ人で町の表に現れる者はなかった。毎年カーニバルの季節になると、特に太っちょのユダヤ人は殆どまる裸にされ、人々の笑いものにするためにローマの大通りを競争させられ、それを見るのが町の女たちに与えられた特権になっていたし、それも何かちょっとした口実をつけてその競争を無効にし、翌日もう一度やらせたものだった。この度をこえた侮辱はやっと1668年に廃止になったが、その代わりに特別の貢納をそれから約二百年後までも続けて払わせることになった。……<シーセル=ロス『上掲書』p.201>
この他、ゲットーにおけるユダヤ人の生活についてはロス『ユダヤ人の歴史』25 「ゲットーの生活」で詳しく触れられている。

ゲットーの解放

 ゲットーの廃止、ユダヤ人のゲットーからの解放は、18世紀の啓蒙思想の普及とフランス革命をまたなければならなかった。人権宣言国民議会の議決によってユダヤ人は市民としての権利を認められ、それに伴ってゲットー制は廃止されていった。フランス革命軍が革命干渉軍との戦いに勝利し、さらにその理念を引き継いだナポレオン軍が勝利していった範囲で、ゲットーは解放されていった。
 イタリアでは「フランスの部隊が陽光のさんさんたる町から町へと次々に入り、ゲットーの門は破壊され、ユダヤ人は外界の澄んだ空気のあるところに呼び出され、他の人間の持つすべての権利を享受することになったのである」。ヴェネツィアでは1797年7月10日、多数の民衆の歓呼の中を、ゲットーの門が取り除かれて焼かれた。ローマでは1798年2月解放がが行われた。ラインラントでもフランスの侵入に続いて同じような経過が見られた。プロイセンでさえ、1793年と95年のポーランド分割の結果、ユダヤ人人口が急増し、フランス革命後、その生活改善が進み、1812年の解放戦争に先立つ国家の統合の間に、政府の職員にはなれないことを除いて解放された。<セーシル=ロス『上掲書』 p.227-230>

ユダヤ人居住区のゲットー化

 フランス革命に代表される市民革命が進行し、人権意識が浸透、平等の理念が生まれたことによって、19世紀までにユダヤ人はゲットーから解放され一般市民とまじって生活できるようになった。しかし、19世紀後半になると、反ユダヤ主義というユダヤ人に対する差別、排除を主張する勢力が現れた。ドレフュス事件に見られる反ユダヤ主義の動きに対して、ユダヤ人の中にヘルツルなどのようなユダヤ人の国家建設をめざすシオニズム運動が起こってきた。
 ヨーロッパにおけるユダヤ人問題として意識されるようになり、その最も先鋭化したドイツにおいて、ユダヤ人絶滅政策を掲げるヒトラーナチ党が政権を執る事態となった。ナチスはドイツ国内でのユダヤ人排斥を占領地にも拡大、ユダヤ人の居住地は封鎖され、再びゲットー化していった。
ワルシャワ・ゲットー 特にポーランドでは1940年1月からユダヤ人居住区(ゲットー)を封鎖して経済的に追いこみ、さらにユダヤ人絶滅を進めるため強制収容所に送った。1943年4~7月、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は絶望的な蜂起を敢行したがドイツ軍によって鎮圧された。このワルシャワ・ゲットーの絶望的な戦いは長く記憶されることとなる。