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ユダヤ人

ヘブライ人に対する民族呼称。ユダヤ教の信者の意味で、自らはイスラエル人と称した。古代においてはパレスチナの地において国家を形成し繁栄したが、前1世紀にローマに征服されてから広く離散した。中世以降のヨーロッパ=キリスト教世界では差別が続き、20世紀ナチス=ドイツによる大迫害に至った。その過程で民族国家樹立を目指すシオニズムが起こり、第二次世界大戦後の1948年にイスラエルを建国したが、パレスチナのアラブ人とは今も激しい民族対立が続いている。


ユダヤ人・ローマ時代

ヘブライ人・イスラエル人・ユダヤ人

 他民族からはヘブライ人といわれ、自らはイスラエル人と呼び、バビロン捕囚後にはユダヤ人と言われるようになる。この「ユダヤ人」は、特に『旧約聖書』という民族史を持つこと、民族宗教であるユダヤ教が依然として存続していることなどから、前1500年ごろから現代まで、一貫してその民族性を継承しているように見えるが、その歴史を「ユダヤ人の歴史」として一括することは困難であるし、危険である。その歴史は、古代のローマ時代までと、中世の離散(ディアスポラ)の時期、イスラーム教徒との共存、近代以降の啓蒙主義の時代、現代のシオニズムを中心とした動きなどを区別して整理していく必要がある。
 また、ユダヤ人は人種的にはセム系氏族とされるが、長いディアスポラ(離散)のなかで、周辺民族との混血の結果、セファルディームとアシュケナジームの違いが生じ、また言語もイデッシュ語などが生まれた。現在、ユダヤ人はイスラエルの他、世界中に分布しており、アメリカにも約600万人が住んでいるとされる。しかし現在ではユダヤ人を「人種」概念でとらえるのは困難で、現実には「ユダヤ教を信仰する人々」と捉えるのが正しい、とされている。ヒトラーの「ユダヤ人=劣等民族」観はまったく作り上げられたものにすぎず、人類学的に同質のユダヤ人は存在しない<広河隆一『パレスチナ(新版)』第3章1 p.198-218 など>

旧約聖書の中のユダヤ人

出エジプト 古代のユダヤ人については、ヘブライ人の項を参照してください。モーセに導かれて「出エジプト」に成功し、故地に戻ったヘブライ人は、前12世紀ごろからカナーンの地(パレスチナ)に定住した・
ヘブライ王国 前11世紀末ごろにはヘブライ王国(彼らは自らをイスラエル人と言ったので、この国をイスラエル王国とも言う)を建国し、ダヴィデは都をイェルサレムに定め、ソロモン王はイェルサレムに壮大なヤハウェ神殿を建設した(第一神殿)。ユダヤ人は自らを神から選ばれた民であるとして、神と人々を繋ぎ、神の言葉を伝える預言者の言葉に従った。モーセもその預言者の一人と考えられた。
ヘブライ王国の分裂 しかしヘブライ王国はソロモン王の死後、その圧政に不満を抱いていた北部の人々は、王国の支配から逃れ、前922年ごろに分離してイスラエル王国を建てた。南にはイェルサレムを都にして世襲王朝が続き、一般にこちらをユダ王国と言っている。
 北のイスラエル王国はしばらく政情不安が続いたが、前878年にサマリアに遷都し、フェニキア人などと融合しながら存続した。ヘブライ王国が南北に分裂したころ、北方のメソポタミアで、一時衰えたアッシリアが再び隆盛となり、周辺に領土を拡張するようになっていた。その直接的な圧力を受けたイスラエル王国は、前722年にアッシリアによって滅ぼされ、直接支配される属州とされた。南のユダ王国は亡ぼされなかったが、重い貢納を義務づけられた。こうしてパレスチナはオリエント全域を支配したアッシリア帝国の支配下に組み込まれた。
バビロン捕囚 ユダ王国は前586年に新バビロニアに滅ぼされて、その時「バビロン捕囚」の民族的苦難を経験することとなった。このバビロン捕囚の間に独自の一神教であるユダヤ教を民族宗教として完成させ、またその後はユダヤ人と言われるようになる。

「ユダヤ人」

(引用)バビロニア人によって連れていかれた捕囚は、旧王国(ヘブライ王国)を構成するさまざまな「部族」に、それぞれ所属していた。しかし捕囚中に、ユダ王国の悲劇的終末の少し前からそういう傾向があったように、ユダ族を中心に統合するようになってきた。帰還後、人々は何処其処の区別無く定着し、そこで昔からの領域による差別はなくなった。こうしてこの人々はことごとく、しだいにユダの人々(イェフディム)、つまり「ユダヤ人」といわれるようになった。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.47>

ペルシア帝国とヘレニズム時代

 前538年、ユダヤ人はペルシア帝国のキュロス2世によってバビロン捕囚から解放され、パレスチナに戻り、イェルサレムにヤハウェ神殿を再建した(第二神殿)。この時代にユダヤ人はペルシア帝国の公用語であったアラム語が浸透し、文字もアラム文字系統のヘブライ文字を用いるようになった。ペルシア帝国滅亡後はアレクサンドロスの帝国が成立し、ユダヤ人もその支配下に入ったが帝国滅亡後はディアドコイの争いに巻き込まれ、はじめプトレマイオス朝エジプト、ついでセレウコス朝の支配をけた。
マカベア戦争 このヘレニズム時代はユダヤ教はヘレニズムの理念に押され、厳しい信仰上の危機が続いた。セレウコス朝は、ギリシアのゼウス信仰を強要し、特に厳しくユダヤ教を弾圧したので、かえってユダヤ人は結束を強め、前166年にはハスモン家のユダス=マカバイオス(マカベウス)が指導してセレウコス朝に対する反乱(マカベア戦争)を起こし、ハスモン朝のもとで政治的・宗教的自由を獲得した。ユダス=マカバイオスはユダヤ人の英雄として語り継がれ、18世紀イギリスで活躍したヘンデルにオラトリオ『マカベウスのユダ』があり、その中の合唱曲「みよ、勇者は帰りぬ」(1747)のメロディーは現在でも表彰式で良く聞くことができる。

ローマの支配

 前37年にはヘロデがローマの宗主権のもと王位についた(ヘロデ朝とも言う)。ヘロデ王はローマの権威を背景としながら、ユダヤ人の歓心を買うことに努め、イェルサレム神殿を大改築した。しかし、その死後、内紛から混乱が続いたため、ローマ帝国は紀元6年パレスチナを属州として総督としてポンティオ=ピラトを任命し、ローマの直接支配を受けるようになった(ローマ時代のパレスチナ)。ただしローマ帝国は、ユダヤ教に対してはその信仰を認め、ユダヤ人を宗教を理由に迫害することはなかった。
イエス=キリストの登場 総督による統治は重税が課せられ、また神殿を侮辱することがあったりしてユダヤ人の感情をふみにじるものがあった。この時期にイエスが出現してユダヤ教の革新を民衆に呼びかけたが、ローマ総督はイエスの活動がパレスチナの反ローマ感情と結びつくのを恐れ、30年ごろ、それを処刑した。イエスの教えは使徒たちによって少しずつ広められ、イエスを救世主=キリストであると信仰するする原始的な教団も作られたが、始めはユダヤ教の一分派程度にしか捉えられていなかった。
参考 ベン・ハーはフィクション 1960年日本公開のアメリカ映画『ベン・ハー』はチャールトン=ヘストン主演、ウィリアム=ワイラー監督でアカデミー賞を何個も獲得、その大迫力の戦車競走の場面は今でも素晴らしい映像美として脳裏に焼き付いている。あの映画の主人公ベン・ハーはローマに支配されていた時代のユダヤの豪族という設定で、ユダヤ人のローマとの戦いが背景になっている。しかし、ベン・ハーは実在の人物ではなく、1880年にルー=ウォリスという人が書いた小説を原作としたフィクション。傷ついたベン・ハーを助けたのが(顔は出てこないが)イエス=キリストで、その力でベン・ハーが戦車競走でローマ将軍(ベン・ハーの幼友達)に勝つ、というのがテーマであった。小説・映画はローマ支配下のユダヤ人を描いてるが、史実とは言えない。

Episode ローマ人が怯えた熱心党のテロ

 ローマの総督のパレスチナ統治は、しばしば住民の感情を踏みにじった。ローマの徴税官による搾取は民衆の恨みを買った。そんな中でユダヤ人のなかに熱心党(ゼイロータイ)というテロ組織が作られ、彼ら「暗殺団」は時々山の要塞から下りてきてローマの官吏を襲撃した。それだけでなく、村や町に現れてはローマへの同情者の家財を略奪し、その住民を容赦なく殺害した。熱心党の熱狂的な刺客は群衆のあいだにまぎれ、あいくちでローマ人とその協力者を襲い、群衆に紛れて姿をくらました。時にはローマに協力的な大祭司でさえ、暗殺された。ローマ官憲はそのたびに復讐のために取り締まりを強めたので、パレスチナ各地は全面的な反乱の様相を呈してきた。<セーシル=ロス『ユダヤ人の歴史』1961 みすず書房 p.75-77>

ユダヤ戦争

 ユダヤ人は、ローマに支配に対して、その後2度にわたるユダヤ戦争でローマに抵抗を試みた。66年~70年の第1回ユダヤ戦争はウェスパシアヌスによって鎮圧され、イェルサレム神殿(第二神殿)は破壊された。このときの戦いはフラウィウス=ヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳細に記録されている。
 さらに131年の第2回ユダヤ戦争はハドリアヌスがイェルサレム神殿跡に自分の別荘を建てようとしたことに反発したユダヤ人が、バル=コクバという指導者によって反乱を起こしたもので、一時はイェルサレムを奪回し、135年まで抵抗を続けたが、ローマ軍によって鎮圧されてしまった。この二度にわたるローマに対する反乱がいずれも弾圧されたことによって、ユダヤ人はパレスチナから追い出されることとなり、ローマ帝国領内の地中海各地やメソポタミア地方に離散(ディアスポラ)していくこととなった。
 その後4世紀に、ユダヤ人は年に一度、イェルサレム滅亡の日「アブの月の9日」に旧神殿の壁にすがって祈る事が許された。それが「嘆きの壁」の由来である。
POINT  第一神殿と第二神殿 古代のユダヤ人の歴史は、イェルサレム神殿の第一期と第二期とに分けて整理するとわかりやすい。
  • 第一神殿 ヘブライ王国全盛期の前10世紀、ソロモン王によって建設された。ヘブライ王国分裂後はユダ王国が継承したが、前586年、新バビロニアのネブカドネザル王によって第一神殿が破壊され、ユダヤ人はバビロン捕囚となる。
  • 第二神殿 前538年、バビロン捕囚から解放されイェルサレムに戻り神殿を再建。前166年、ハスモン朝がセレウコス朝から独立(マカベア戦争)。ヘロデ朝を経て6年にローマの属州に。66年、ユダヤ戦争起こり、70年に鎮圧され、ローマによって第二神殿が破壊される。
(引用)「第一神殿」期におけるヘブライ史の著しい特徴は、「預言者」の存在であり、その時代が生み出したものは「(旧約)聖書」であった。「第二神殿」期において、ユダヤ人が、それまでもっぱら、それと結びつけられていた土地(パレスチナ)から切り離された結果、その明らかとなったものは「ラビ」であり、その文学的祈念碑は「タルムード」であった。<セーシル=ロス『上掲書』 p.90>

キリスト教とユダヤ教

 2~4世紀、ローマ帝国内に離散(ディアスポラ)したユダヤ人は、各地で集団を作り、信仰を守った。政治的な独立は失ったが、ユダヤ教の指導者はこの頃はパトリアルクと言われ、律法(トーラー)を守り、集会所(シナゴーグ)につどい信仰を守り、禁止されることもなく一定の自治を認められた。それに対してキリスト教はネロ帝などによって弾圧の対象となって厳しく取り締まられた。そのような中、使徒パウロらは弾圧を受けながら、ユダヤ人のシナゴークにはいりこみ、形式的な戒律の遵守ではなく、悔い改めて神の愛を信じよ、とキリスト教への改宗を働きかけていった。
 212年カラカラ帝がアントニヌス勅令を出し、帝国内のすべての自由人にローマ市民権が与えられたとき、ユダヤ人もローマ市民とされた。
 コンスタンティヌス大帝が313年に出したミラノ勅令は、「信教自由令」であって、キリスト教を公認するとともにユダヤ教も他の宗教と共に認められ、その地位は法的には維持されたが、実際にはユダヤ教の衰退が始まった。キリスト教は帝国内ではユダヤ人以外にも広がって世界宗教となっていったが、民族宗教であるユダヤ教はローマでは劣勢となり、むしろ異教として否定されるようになった。特にキリスト教徒は、イエスが十字架の苦難によって殺されたユダヤ人のためだと信じ、聖書(マタイによる福音書)にもユダヤ教徒はイエスを殺した責任を永久に負うべきであると説かれていたので、ユダヤ教徒への反感を強めていった。
反ユダヤ思想のめばえ 325年に召集されたニケーア公会議ではアタナシウス派正統としてアリウス派異端としただけでなく、キリスト教教会がユダヤ教信仰と異なる教団であることを明確にする布告として、ユダヤ教の暦を使用しないこととし、ユダヤ教徒が週の休息日を土曜としていたに対して、キリスト教教会では休息日を日曜日にすることとして、ユダヤ教との混乱を防ぐこととなった。こうしてユダヤ教は、今までの「確かに許容できる、優れた宗教」から「神聖を汚す集会」とか「邪悪な宗派」といわれるようになった。一時、キリスト教を国教から外した皇帝ユリアヌス帝がユダヤ教に興味をもち、イェルサレム神殿の再建を約束したが、それは帝の死去によって実現しなかった。
 ローマ皇帝テオドシウス2世(在位408~450年。東西分裂時のテオドシウスとは別人)は「最初のクリスチャン審問官」といわれ、その定めた法典では反ユダヤ的思想に満ちており、後のヨーロッパ中世世界での反ユダヤの法的背景の一部となった。<セーシル=ロス『上掲書』 p.85,p.104>

イスラーム教とユダヤ人

 7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教はまたたくまにパレスチナを含む西アジアを支配するようになった。ユダヤ教徒はイスラーム世界では啓典の民とされていたので、迫害を受けることはなく、イスラーム各王朝のもとでも基本的には異教徒としてジズヤ(人頭税)を払えば生活が認められていた。イスラーム教に改宗することを強制されず、信仰と生命・財産を保護されたていた。またユダヤ人は、商取引などで活躍し、イスラーム王朝に官僚として登用されることもあり、その社会・文化に貢献することも多かった。ただし、アッバース朝が衰えて各地にイスラーム地方政権が生まれると、その中にはイスラーム教の純粋さを強調する勢力も現れ、そのようなところではユダヤ教徒に対しては厳しく改宗を迫る場合もあった。1160年、モロッコからイベリア半島を支配したムワッヒド朝などはその例であった。
 なお、ユダヤ人は9世紀ごろには中国の都市に居住するようになったことがあきらかになっている。開封にはユダヤ人の居住区で活動していたが中国人と交わりながら次第に同化していったため、その歴史をたどるのは難しい。

非ユダヤ人のユダヤ国家

 6~10世紀、カスピ海・黒海・カフカス山脈に囲まれた南ロシアの草原地帯に存在したトルコ系の遊牧国家ハザール=カガン国(ハン国、王国)は、イスラームやビザンツと交易しながら、ヴォルガ水系でルーシなどとも交易して繁栄していた。8世紀にユダヤ商人の活動によってユダヤ教が伝えられると、ハン(国王)、貴族から民衆までその信仰を受け入れ、ユダヤ教国となった。トルコ系諸民族のほとんどはイスラーム教を受容したのに対し、特異なケースであり、ユダヤ民族でない人々がユダヤ教徒になる、つまりユダヤ人になったということで注目されている。彼らはクリミア半島付近で存続したが、10世紀にキエフ公国の攻撃を受けて衰退、11世紀始めにロシアとビザンツの連合軍によって滅ぼされた。しかし、その遺民はロシアにおけるユダヤ人となり、第二次世界大戦後のイスラエル建国に加わった。

中世のユダヤ人迫害

中世ヨーロッパのユダヤ人

 ユダヤ人の故郷パレスチナはローマ帝国の後、ビザンツ帝国、セルジューク朝、十字軍、オスマン帝国などの支配を受け、現代にたるまで祖国を失った民として、世界中に離散(ディアスポラ)していった。しかしヨーロッパでは封建社会の形成期で土地は荘園領主が支配しキリスト教徒の農奴が耕作する原則であるので、ユダヤ人には土地所有の自由はなかった。そのため彼らは都市に流れ込んで居住区を作り、主に手工業(鍛冶屋や皮鞣し屋など)か商人になっていった。
 800年にローマで戴冠したカール大帝はユダヤ人が帝国の経済活動に重要な貢献をしていることを認め、ユダヤ人を保護し、ユダヤ商人に特典を与えた。カロリング朝、カペー朝でもユダヤ人に対する保護政策は続けられた。カトリック教会は、ニケーア公会議以降の公会議で出された一連の規定を遵守し、ユダヤ教への改宗とユダヤ教徒との結婚を禁止していたが、中世ヨーロッパではユダヤ人は各地を移動する商人として活動すると同時に、村々に定住するようになり、どの村にも彼らの居住区が見られるようになった。キリスト教社会の中ではあくまで異教徒として存在していたが、ユダヤ人は最初から迫害されたわけではなく、11世紀頃までは共存していた
 西欧ではフランス、ドイツだけでなく、イギリスへは11世紀のノルマンの征服に伴い、大陸から移住するユダヤ人が増えていった。また、ローマ時代以来のイタリアやスペインにも多く、さらに東欧のポーランドやロシアにもユダヤ人社会が作られていった。彼らは定住地でシナゴーグ(集会所)を作り、律法(トーラー)に従った信仰生活を続けたが、律法の解釈、聖書の注釈などを行うラビの権威が高まり、律法の注釈書であるタルムードの研究を行うタルムード学が興った。その代表的な学者としてモシェー=ベン=マイモン(ギリシア名はモーセス=マイモニデス、1135~1204)がいる。

十字軍時代に迫害始まる

 ユダヤ人に対する迫害が始まるのは、11世紀末の十字軍時代以降のことであった。イスラーム教徒によって冒涜された聖地を奪回する十字軍兵士と同じように、ヨーロッパの内なるキリスト教の敵であるユダヤ人と戦うことが必要だと煽動する者がいた。彼らはキリストの流した血は、キリストを殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちになるのだと言った。
1096年、ユダヤ人迫害始まる 第1回十字軍が派遣された1096年5月、早くもドイツのライン地方でユダヤ人に対する襲撃事件が始まっている。ロレーヌ地方で最初の反ユダヤ人暴動が起こり、ユダヤ人22名が犠牲になった。ライニンゲン伯爵エミコの指揮する部隊が襲撃の指導に当たった。5月3日の安息日にはシュパイエルのシナゴーグが包囲され攻撃を受けた。さらに5月18日の日曜日、ヴォルムスで市民が見て見ぬふりをしている中で、ユダヤ人攻撃が行われ、洗礼を受けて難を逃れた者と自殺したもの以外は全員虐殺された。同じような出来事はラインの谷に沿って次々と起こり、5月30日にはケルンと遠く離れたプラハでも起こった。
 第1回十字軍は、本隊が1097年にイェルサレムに進入、聖都の急な坂道には血の川が流れ、ユダヤ人はシナゴーグに押し込められて火をつけられた。こうしてこの残酷無残な殺戮によってユダヤ人と彼らの旧首都イェルサレムとの何世紀にわたる結びつきは終った。<セーシル=ロス『上掲書』 p.130-131>
 第2回十字軍(1147年)でも、ライン地方とフランスで反ユダヤ暴動が起こっている。第3回十字軍にイギリスのリチャード1世が参加すると、1189年9月にロンドンでユダヤ街での略奪が起こり、翌年春には全国に及んだ。ヨークでは逃げ場を失ったユダヤ人が城内に逃げこんで、逃れられないとラビの指導のもとで子供含めて差し違えて自殺するという事件もおこった。
ユダヤ人襲撃の口実
(引用)血の味を一度群衆が覚えると、それを宥(なだ)めることは容易ではなかった。民衆の宗教的情熱は、とりわけユダヤ人に対して、激しくなったため、やがては「十字軍」という口実は不必要なことになった。<セーシル=ロス『上掲書』 p.132>
ではどのようなことが口実にされたか。例えば次のようなことがあげられている。
  • ユダヤ人は「過越の祭」を祝うために子供を殺している(この言いがかりはローマ時代や中国でのキリスト教徒に対しても向けられた)。
  • ユダヤ人は「種なしパン」を作るため人間の血を使う(モーセの律法には動物の血の飲食を禁止しているのでありえない)。
  • 大火が起きればユダヤ人が火をつけた、疫病が流行ればユダヤ人が毒を使ったと疑われた。
  • キリスト教の異端はみなユダヤ教からきていると非難された。
  • 内乱が起きると国王はユダヤ人が内通していると疑い、叛徒側はユダヤ人は国王の手先だとして、双方から略奪を受けた。
  • イエスの受難の想い出を伴う「復活節」が近づくとユダヤ人攻撃が行われた。
<セーシル=ロス『上掲書』 p.134>

中世ヨーロッパでのユダヤ人迫害

ユダヤ人高利貸しに対する非難 キリスト教徒は「利子をとってはいけない」という教えに縛られていたのに対して、ユダヤ人は「金貸し」(金融業)が許されていたことから、商業の復活に伴って豊かになっていった。それは貧しいキリスト教徒の恨みをかうこととなった。
 カトリック教会は聖書の「イエスの山上の垂訓」の中に「何も当てにしないで貸してやれ」とあることを根拠に利子を取って金銭を取ることに反対した。本来のヘブライ語では「なにかに報われるという希望を決して失わずに貸してやれ」という意味であったが、この誤解がアリストテレスの考えと一致しているとして権威づけられて通用してしまった。1179年の第3回ラテラノ公会議では憎むべき高利貸業に従事するものはキリスト教徒として埋葬を拒否されることになった。しかし商業の発展には金融は不可欠だったので、ユダヤの金融業者は増えていった。
 そのためユダヤ人は唯一の資本家階級となり、戦争と建築はその資本の援助がなければできないようになった。十字軍もその資本が不可欠だったが、逆にユダヤ人は聖なる戦いである十字軍で儲けているという非難がおこるようになった。まもなくイタリアや南ドイツではユダヤ商人以外に金融を営むものが必然的に生まれたが、彼らは主に国王や貴族を相手にし、庶民金融はユダヤ商人が行っていたので、庶民の怨みはユダヤ商人だけに向けられることになった。
 1179年の第3回ラテラノ公会議では上記の他に、当時最も問題とされた異端運動であるアルビジョワ派対策として、ユダヤ人がキリスト教徒を使用人とすることを禁止し、キリスト教徒とユダヤ教徒が同居することも一切禁止された。これが後のゲットーの根拠となっていく。
ユダヤ人への「差別バッジ」 最盛期のローマ教皇として知られるインノケンティウス3世は第4回ラテラノ公会議を召集、1215年11月30日に、より一層苛酷な反ユダヤ人政策を打ち出し、教皇勅書として公布した。それはすべての異教徒に対し「差別バッジ」を付けることとし、それによってユダヤ教徒はイスラーム教徒らと共に通常、標識を身に着けなければならなくなった。かつてイスラーム教国で行われていたことを取り入れたもので、初めてキリスト教世界でも取り上げられた。普通、バッジは黄色か深紅色の布きれであったが、イギリスでは十戒を刻み込んだ二枚の石版、フランス・ドイツその他では車輪か○の形をしたものが用いられた。バッジだけでは不十分と思われたところでは目立ちやすい色の帽子をかぶることが決められた。
(引用)こうしたことは結局、ユダヤ人に永久に「賎民」の焼印を押し、ユダヤ人の一人一人をたえず周囲の侮蔑の目にさらし、大衆の反ユダヤ感情が爆発した際、ユダヤ人社会全体は大量虐殺の目標となった。<セーシル=ロス『上掲書』 p.134>
 1215年の第4回ラテラノ公会議できまった「差別バッチ」はユダヤ教徒以外も対象としていた。後には用いられなくなったが、反宗教改革期の1555年、教皇パウルス4世によって復活され、徹底された。

参考 増幅されたユダヤ人像『ヴェニスの商人』

 シェークスピアの代表作『ヴェニスの商人』に登場するシャイロックは、強欲で悪辣なユダヤ商人というユダヤ人に対するイメージが定着する契機だった。シェークスピアの意図ではないだろうが、ユダヤ人蔑視に一役買ったことは疑いない。事実ナチス=ドイツの宣伝相ゲッベルスは、誇張した演出でシャイロックの登場する『ヴェニスの商人』をたびたび上演させ、ユダヤ人排斥の宣伝に使った。映画化では露骨な人種差別に怖じけた出演者に無理やり演じさせたという。その反動で戦後は『ヴェニスの商人』は公演されることが少なくなり、またユダヤ人であることを強調しない演出になっている。<小岸昭『マラーノの系譜』1994 みすず書房 第5章シャイロックの冒険 p.75~にくわしい>

ユダヤ人の追放と迫害

 13~14世紀、キリスト教徒はユダヤ教がイエスを救世主として認めないこと、イエスを裏切ったのがユダヤ人だったことなどを口実に、しばしば激しい迫害、時として集団的な虐殺(ポグロム)を行うようになっていった。またイギリス、フランス、スペインやでは国外追放にされたり、一定の居住地(ゲットー)への強制移住を強いられたりすることとなった。
イギリス 1215年11月30日、ラテラノ公会議での教皇勅書が発行して以来、暗雲が厚くたちこめた。国によってはユダヤ人の一掃を国家の責務とするところも現れた。その最初はイギリスで、しばらくユダヤ人に対する虐殺が続いた後、1275年にエドワード1世は「ユダヤ人に対する法律」を定めて高利貸業を禁止し、さらに1290年にユダヤ人は3ヶ月以内にイギリスを去るべし、と命じた。それによって1万6千人余りのユダヤ人が国外に出てユダヤ社会はその後再現できなかった。しかしユダヤ人を完全に追放することはできなかった。
フランス 聖王と言われたルイ9世はラテラノ公会議の決定を徹底的に実行しようとした。1249年、十字軍に出発する直前、ユダヤ人を国外に追放することを布告したが、これは実行されなかった。孫の美王フィリップ4世は1306年7月22日、国内のユダヤ人を一斉に逮捕し、獄中で1ヶ月以内の国外退去を命じ、その財産は国王が没収した。しかし財政難のため次のルイ10世は1315年、12年間の帰国を認めざるを得なかった。ところが帰国したユダヤ人は1320年、南フランスから始まった一種の国内版十字軍の襲撃対象とされ、ユダヤ人と癩病患者がチュニスとグラナダのイスラームの王と結託して各地の井戸に毒を投げ込んだという荒唐無稽な嫌疑をかけられてほとんど前例のない大量虐殺が行われ、生き残ったものは国外に追放された。フランスではその後も財政困難になると国王がユダヤ人の帰国を許し、また襲撃されて追放されるということをくり返し、1394年に狂気のシャルル6世によって最終的に追放された。ユダヤ人はドイツや、ピレネーを越えてスペインに逃れた。
ドイツ 神聖ローマ皇帝カール4世(在位1347~78年)の治下のドイツでは国外追放という措置は取られなかったが、ユダヤ人に対する虐殺はその後も続いた。1336年にはアルザスなどで、率直にも「ユダヤ人殺し」と自称し、腕に革紐をまいていたので「腕革」とあだ名された二人の貴族に率いられた暴徒がユダヤ人を大量殺害している。16世紀にドイツで始まった宗教改革でもルターはユダヤ教に対し否定的であったので、ドイツでの迫害はさらに続いた。そのため、ドイツのユダヤ人の多くはポーランド、ウクライナなどの東方に移住した。彼らはアシュケナージ(ヘブライ語でドイツを意味する。その複数形がアシュケナジーム)といわれ、彼らはイデッシュ語というドイツ語の中部高地方言にスラブ語やヘブライ語が混じった言語を用いていた。このアシュケナジームは20世紀のナチス=ドイツのユダヤ人絶滅政策の対象とされ、また第二次世界大戦後に実現したイスラエル建国を主導した人々である。

黒死病とユダヤ人迫害

 ユダヤ人に対する迫害が最も広範囲で、しかも激しく行われたのが、14世紀のイギリスとフランスの百年戦争の最中の1348年~52年の黒死病の大流行の最中に起こったユダヤ人迫害であった。その間の戦争、農民一揆の多発、教会の大分裂と教会批判の始まりなど、中世ヨーロッパが転換期にさしかかっていたことに対するキリスト教徒の不安がユダヤ人に向けられ、多くの迫害が行われたと考えられる。
黒死病
(引用)暴動がサヴォイに達した頃には、ユダヤ人非難はグロテスクなほど極端な恐怖に充ちて巧みに形を整えてきた。スイスのシロン地方地方のあるユダヤ人が、拷問をうけてつぎのように「告白」したのである。すなわち、フランス南部地方の同宗のユダヤ教徒のある者によって手の込んだ陰謀が進められ、蜘蛛、蛙、とかげ、人肉、キリスト教徒の心臓、聖餐式に供えられた聖杯から毒物を抽出調整し、この非道な調剤物から作られた粉末はユダヤ人集団に配布され、キリスト教徒が日常飲料水を取っている井戸に投げ込んだ、というのである。ヨーロッパに蔓延しつつある恐ろしい伝染病はそのせいであった、といわれた。<セーシル=ロス『上掲書』 p.155>
 この滑稽なナンセンスの寄木細工が一人歩きして広がり、シロン地方のユダヤ人は殺され、スイスだけでなくライン川に沿ってオーストリア、ポーランドまで広がり、長いユダヤ人迫害の歴史の中でもかつてない最も恐ろしい大虐殺が相次いでで行われた。60の大ユダヤ人集団、150もの小集団は絶滅し、ユダヤ人は再びかつての繁栄した時代の人口を回復することはできなかった。

スペインのユダヤ人

 ユダヤ人が最も多く居住し、またその歴史にとっても重要な場所となったのはイベリア半島のスペインだった。イベリア半島にはローマ時代からユダヤ人が住むようになったが、8世紀のイスラーム勢力の進出に伴って多くのユダヤ人が移住した。10世紀ごろに国土回復運動(レコンキスタ)が盛んになっても、初めの頃はキリスト教のカスティリヤ王国においてもユダヤ人は財政や外交で、知識人として重用されていた。ムラービト朝ムワッヒド朝は原理的なイスラーム教国であったのでユダヤ教徒は排除され、多くは北のカスティリャ王国か、東方のエジプトなどに逃れた。その一人、マイモニデスは学者と医者として知られ、エジプトのサラーフ=アッディーンに使えて信任されたことで知られている。
キリスト教国での迫害 しかし、1212年、ラス=ナバス=デ=トロサの戦いを転換点としてイスラーム勢力の後退が始まり、キリスト教側の優勢が明確になると、ユダヤ教徒優遇の意義がなくなり、他のヨーロッパ各地で十字軍運動ととも始まったユダヤ人に対する、激しい宗教的不寛容、排他的国家主義、商業的対立などがイベリア半島にも及んできた。1391年6月にはセビリャからはじまったユダヤ人襲撃がスペイン全土に広がった。このとき約7万人が犠牲となり、難を逃れるにはキリスト教に改宗することしかなく、多くのユダヤ人が改宗した。
キリスト教への強制改宗 15世紀初頭のドミニコ会士ビセンテ・フェレールは熱心な反ユダヤ演説を各地で行って熱狂的な信者を動員し、多数のユダヤ人を改宗させた。14世紀末のスペインのユダヤ人人口は約25万人(カスティリャに約18万、アラゴンに約7万)とされ、1492年までに約15万人がキリスト教に改宗したと言われる。<関哲行『スペインのユダヤ人』世界史リブレット59 2003 山川出版社 p.57>
異端審問の開始 1479年、カスティリャとアラゴンの統合が実現し、スペイン王国となった。カトリックによる統一国家の建設をめざすフェルナンド王とその妻イサベル女王は、異端審問などで異教徒の取締りを強めていった。イザベラ女王は1483年に宗教裁判所長官にドミニコ会トルケマダを任命し、コンベルソの中の偽改宗者のあぶり出しを本格化させた。キリスト教に改宗したユダヤ人でもひそかにユダヤ教を捨てていないという疑いのあるものは異端審問官(ドミニコ会修道士)によって尋問され、弁護人はなく、非公開、自白しなければ拷問にもかけるという宗教裁判にかけられていった。
ユダヤ教徒追放令 カトリックの立場での宗教政策の一本化を完成させるために出したのが、1492年1月、グラナダが陥落してレコンキスタが完了した直後の1492年3月31日に出した、ユダヤ教徒追放令であった。これによってユダヤ人は7月末までに出国するか、キリスト教に改宗するかの二者択一を迫られ、その多く(10万以上にのぼったという数値もある)は隣国のポルトガルやオスマン帝国の都イスタンブルに逃れ、残った者はキリスト教に改宗した。

改宗者コンベルソとその蔑称マラーノ

 ユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗者した「新キリスト教徒」はコンベルソと言われた。しかし彼らの中にはうわべだけの改宗で内心の信仰を捨てていないものも多く、そのような偽改宗者(いわば「かくれユダヤ教徒」は最も警戒、あるいは蔑視され、その蔑称としてマラーノ(豚という意味)といわれるようになった。特にマラーノはキリスト教徒にとって危険で不純な存在とされ、その疑いのある者は厳しく異端審問を受けなければならなかった。改宗したユダヤ人のなかにもいつ疑われて審問にかけられるかわからないため常に不安であり、国外にでることは認められていないのでひそかに逃亡するものも多かった。

ユダヤ人の再びの離散

 このようにスペイン(後にポルトガルからも)を逃れてユダヤ教信仰を守ったもの、あるいは異端審問の恐怖から国外に逃亡した改宗者は、ヨーロッパ各地に逃れていった。かつてパレスチナの地から最初の離散(ディアスポラ)をしたユダヤ人は、ここでイベリア半島から再びの離散を強いられたのだった。
セファルディーム 彼らイベリア半島からの離散者はセファルディ(ヘブライ語でスペインを意味する語に由来。その複数形がセファルディーム)といわれた。彼らは長い時間の中でスペイン語にトルコ語やアラビア語などを混合させたラディーノ語を話すようになり、地中海世界のユダヤ人の支配言語になっていった。セファルディームはイスラーム帝国のもとではズィンミー(庇護民)とされ、スルタンへの人頭税を支払うことでユダヤ教の信仰の自由と自治を認められた。
アシュケナジーム 一方、ドイツに移住し、ドイツでの迫害から逃れてポーランドなどスラブ圏に移住していったユダヤ人はアシュケナージ(ヘブライ語でドイツを意味する語に由来、その複数形がアシュケナジーム)と言われた。 → 下掲の<ポーランドのユダヤ人>を参照

Episode 偽改宗者の摘発法

 どのようにして偽改宗者(隠れユダヤ教徒)を摘発したか。次のようなことが疑われる行為だった。
  • 安息日。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜の日没まで。その間は一切、体を使ってはいけない。キリスト教徒が安息日とする日曜日はユダヤ教徒は働く。だから土曜に働かず、日曜に体を動かすようなものはユダヤ教と見られた。日曜日に煙突から煙が出ている家は隠れユダヤ教徒ではないかと疑われた。
  • 食べ物。ユダヤ教徒は豚肉は食べない(イスラーム教徒同じ)。出された豚肉を食べないと、ユダヤ教徒と思われた。
  • 名前 ユダヤ教徒は旧約聖書に出てくる人物の名前を付けた。それを隠していても、ほんとうの子供の名前を呼んでしまい、発覚することもあった。
などなど。異端審問官トルケマダは、これらの隠れユダヤ教徒摘発マニュアルを作り、摘発した。また最も奨励され、効果が上がったのがユダヤ人同士の密告だった。時には同じ共同体の仲間、家族の間にも密告された。異端審問官トルケマダは在職18年間に9万人を終身禁固に、8000人を火刑に処したことで、最も恐れられた審問官であったが、実は彼自身がユダヤ系の修道士なのだった。
POINT  このように異端審問はキリスト教徒とユダヤ教徒を峻別するする目的でありながら、ユダヤ人(コンベルソ)のなかの改宗者と被改宗者をあぶり出すことによって、ユダヤ人共同体、さらにユダヤ人の家族に分断を持ち込み、それによってスペインにおけるユダヤ社会は崩壊していくこととなった。

ポルトガルでの強制改宗

 スペインから追放されたユダヤ人の多くは、当然隣国のポルトガルに向かった。ポルトガルの国王ジョアン2世は大金を払ったものは入国を認めたが、入国できなかったものの多くはアフリカ沿岸に廻され奴隷に売られた。つぎのマヌエル1世(在位1495~1521)はポルトガル人の経済活動を利用した方がよいと考え、国内に残っていたユダヤ人に再び自由を与えた。ところが、スペイン王国の両王フェルディナンド王とイザベル女王の間の王女イザベルとの結婚の話が持ち上がったとき、王女イザベルが「異端者であるユダヤ人が一掃されるまで」ポルトガルに入らないとの手紙をマヌエル1世に送ったため、1496年11月、結婚の取り決めの調印と同時に、10ヶ月以内にユダヤ教徒(及びイスラーム教徒)の国外追放令が出された。
 しかし、ユダヤ人の市民としての価値を認めるマヌエル1世は、ユダヤ人をカトリックに改宗させてポルトガルに残すことをねらい、4歳~14歳のユダヤ人の子供すべてを強制的に出頭させて洗礼を受けさせた。1497年の春、「過越の祭」の始めにこの命令は発せられ、所定の時間に出頭しなかった子供は役人が捕らえて洗礼盤に無理やり引っ張って行った。ポルトガルを出ることになったユダヤ人もリスボンの港に集められ、洗礼を拒絶したものはつぎのように強制改宗させられた。
(引用)それから彼らは、その不従順の故に自由を奪われ、王の奴隷である、と通告された。このような手段によって、大部分の者の抵抗は打ち砕かれ、洗礼へと駆り立てられた。その他の者は暴力によって「洗礼盤」へひきずっていかれた。それでもまだ反抗した者は、「聖水」を頭の上から撒かれ、正式にクリスチャンであると宣言されたのである。<セーシル=ロス『上掲書』 p.167>
 このように強制的に形だけ改宗させられてポルトガルに留まることは許された「新クリスチャン」は、その後も「隠れユダヤ教」と疑われ、厳しく異端審問の対象とされた。また皮相的に改宗しただけのユダヤ人は狂信的な憎悪の対象になっていった。1506年4月にはリスボンで「新クリスチャン殺戮」の凶行が絶頂に達し、この時だけで2000人の生命が失われた。
 さらに1580年ポルトガルがスペインに併合され、イベリア半島全域で宗教裁判(異端審問)が厳しく行われるようになると、「新クリスチャン」として残っていたユダヤ人は、当時スペインから独立運動を展開していたプロテスタントのネーデルラント、アムステルダムを新たな移住先に選び、逃れていった。これらのユダヤ人は、ダイヤモンド加工などの手工業や金融業を担うこととなった。アムステルダムに逃れた改宗ユダヤ人(コンベルソ、その蔑称をマラーノ)の子孫の一人が17世紀の汎神論哲学者スピノザである。

ポーランドのユダヤ人

 東ヨーロッパのポーランド王国などのスラブ系民族の地域にも早くからユダヤ人が移住していた。はじめは、6~10世紀ごろ、南ロシアの草原にあったハザール国がユダヤ教を受容してユダヤ化し、彼らがヴォルガ川などの通商路に沿って北上し、定住したことによる。しかしその後、13世紀前半にはモンゴルの侵攻があってスラブ社会がいわゆるタタールのくびきが及んだが、その間のユダヤ人社会についてはよく判っていない。モンゴル軍が引き揚げた後、13世紀の中ごろ、ドイツ人の東方植民が活発になると、ユダヤ人の活動の場も増え、新たな東方への移住が始まり、ポーランドの支配者たちもカトリック教会の警告にもかかわらずユダヤ人を保護することもあった。このようにポーランドなどスラブ人地域へのユダヤ人の移住は比較的平和裏に進み広く定着した。彼らはドイツ語にスラブ語やヘブライ語を取り入れたイデッシュ語を話しヘブライ文字を用いており、アシュケナージといわれている。彼らは一定の自治が認められ、手工業や商業、あるいは国王の財政官に取りたてられるなど安定した社会を形成し、それを背景にタルムード研究などの文化を発展させた。<セーシル=ロス『上掲書』 p.190-196>
ポーランドでの大迫害  17世紀、一転して東ヨーロッパのユダヤ人は危機を迎えた。1648年ポーランド王国の支配下にあったウクライナで、頭目(アタマン)のボグダン=フメリニツキーに率いられたコサックが反乱を起こすと、彼らはユダヤ人に対する襲撃を開始した。ポーランド王国のもとで保護され、社会的にも安定した生活を行っていたユダヤ人に対する反発があった。ていたした。まもなくポーランドにはコサックの反乱を支援するロシア軍と、ロシアに対抗する新教国スウェーデンが侵攻し、外国軍隊によって国土が荒廃する“大洪水”といわれた社会不安の中で、1648~58年までの10年間で約10万人のユダヤ人が虐殺されたといわれている。大規模なユダヤ人迫害はその後も続き、ポーランドのユダヤ人はほぼ絶滅し、北部地方に逃れるか、西ヨーロッパに逃れていった。西のドイツでは、1648年のウェストファリア条約によって小領邦国家が独立し、それぞれが国家運営でユダヤ人を必要とする面があったため、ドイツに戻ったユダヤ人が受け入れられる状況があった。<セーシル=ロス『上掲書』 p.219-221>

宗教改革と反宗教改革

 1517年、ドイツで宗教改革を開始したルターはローマ教皇の制度を批判したので、はじめはカトリック教会に抑圧されていたユダヤ教徒もルター派のキリスト教に改宗し、福音が及ぶことを期待した。しかしユダヤ人が改宗することはなかったので失望し、かえってユダヤ人を深く憎悪するようになった。プロテスタントの領主にもユダヤ人を追放するよう要請した。そのため、プロテスタント圏でもユダヤ人に対する迫害はカトリック圏と変わることはなかった。
 カトリック教会による反宗教改革では、ルネサンス期のローマ教皇の寛容さは失われ、ユダヤ人にとっては最も暗い時代となった。例えば、1555年教皇となったパウルス4世は、突然マラーノ保護をやめ、アンコーナで取り締まりを再開、ユダヤ教を固守する25人を火あぶりの刑に処した。さらに中世のユダヤ人抑圧法を復活させ、ゲットーを設けて隔離し、ユダヤ人に差別バッチを付けることを強要した。このようなカトリック圏でのユダヤ人迫害は19世紀中頃まで続いた。<セーシル=ロス『上掲書』 p.177-178>

近代以降のユダヤ人

 17~18世紀のマラーノの活動はユダヤ人のスペイン系(セファルディ)とドイツ系(アシュケナジーム)を遭遇させ、この二つの系統が競合しながら、新たなヨーロッパにおけるマイノリティー(少数民族)の世界を作っていくこととなった。市民革命が進む中で、人権思想、平等思想、脱宗教・世俗主義の傾向が明確となり、19世紀までにゲットーや宗教裁判は否定されてユダヤ人は解放された。
 ユダヤ人は19世紀後半から反ユダヤ主義という新たな敵に見舞われ、それに対する反発としてシオニズムの潮流が興る。そして最大の災難であったナチス=ドイツによるユダヤ人絶滅政策を迎え、その苦難に対する世界の同情のまなざしの中でイスラエル建国を強行したが、それは必ずしも世界の共感を呼ぶことにはならず、現実にアラブ諸国との抜き差しならない対立へと突入することとなった。

フランス革命

 18世紀のヨーロッパで啓蒙思想が普及したことは、ユダヤ人の解放を大きく進めた。啓蒙専制君主として上からの改革を進めた神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ2世は、1781年宗教寛容令を出し、カトリック教会街の信仰を保障したが、そのとき、ユダヤ教も同様にその混交が認められ、ユダヤ人はゲットーをでて一般市民とまじって生活できるようになった。
フランス革命 1789年、フランス革命で出された人権宣言ではユダヤ人の人権も認められた。しかし一般にそれが受け入れられるには何ヶ月もかかり、国民議会の解散直前の最後の会期で、代議員デュポールが突然採決を強行し、殆ど反対なしで動議が可決され、近代ヨーロッパの史上初めてユダヤ人がその国に生まれた市民と同等の権利が正式に認められた。フランス革命軍がヨーロッパで勝利を広げていくに伴い、各地のゲットーは解放されていった。しかし、ナポレオン帝国の崩壊、ウィーン体制の成立という事態は「ヨーロッパのユダヤ人を再び溶鉱炉の中に投げ込んだ」のだった。<セーシル=ロス『上掲書』 p.232>

ユダヤ人概念の変質

 フランス革命において、ユダヤ人も一般市民と認められ、同等の権利を有するとされたことに見られるように、市民革命の時代をへて人権と平等の思想が一般化した。また、ヨーロッパで長期にわたって混在して定住、混血が続いたため、ユダヤ人はもはや人種・民族として外見からは判断できなくなっていた。「ユダヤ人」の概念も揺らいでおり、使用言語や宗教での大まかなくくりも現実的ではなくなっており、いまや「ユダヤ人である」と自覚するかどうかによって決まってくるというのが実態である。さらに、自ら「ユダヤ人」であると自覚した人々の中には金融業で成功したロスチャイルド家や芸術(メンデルスゾーンなど)、科学(アインシュタインなど)、思想(マルクスなど)の面で活躍する人材が多く輩出した。これらのユダヤ系の人々を抜きにしてはヨーロッパの経済や文化は成り立たなくなっている。

近代の反ユダヤ主義

 その反面、ヨーロッパ各国が帝国主義の段階に入ってくると、ナショナリズムは国家主義の側面を強くし、民族主義の側面でも次第に偏狭な人種主義が強まっていった。その格好な攻撃目標とされたのがユダヤ人であり、反ユダヤ主義の高まりとなって現れてくる。それはユダヤ人だけではなく、ロマといわれた少数の漂泊民や、あるいは黄色人種に対する差別観である黄禍論などにも見られるが、最も広く見られ、重要な意味を持っているのがユダヤ人に対する差別感であった。

ポグロムとシオニズム

 すでに19世紀のロシアではツァーリズムギリシア正教会の側からの激しい迫害(ポグロム)が行われていたが、近代人権思想の始まったフランスにおいても、普仏戦争敗北後の軍国主義の風潮と結びついて反ユダヤ主義が強まり、ドレフュス事件が起こっている。19世紀末、このような反ユダヤ主義の高まりの中に身を置いたユダヤ人の中に、ヘルツルなどの明確な形でユダヤ人の国家建設をめざすシオニズム運動が起こってくる。

ナチスによるホロコースト

 第一次世界大戦ではイギリスがユダヤ国家の建設を認めた(バルフォア宣言)ため、パレスチナの地への帰還運動が始まったが、それはイギリスの西アジアへの勢力拡大と結びつき、現地のアラブ人との深刻な民族対立を生み出すこととなった。
 そして1930年代のドイツに登場したヒトラーナチ党によって、最も組織的、強圧的なユダヤ人排斥が行われた。ヒトラーは若いころオーストリアのウィーンで偏執的な人種優劣観の影響を受け、アーリア人種(ドイツ人)の優秀な血をユダヤ人から守るためと称してその民族的絶滅という極端な主張を『わが闘争』などの著作や巧みな演説で吹聴し、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの民衆の不満をそちらに向けていった。ヒトラーの反ユダヤ主義は彼自身が多弁であったので多岐にわたっているが、特徴的な点は従来からのユダヤ資本の世界経済支配の野望というデマに加え、共産主義をユダヤ思想と結びつけ、革命に対する有産階級の不安をかき立てたところにある。ナチス=ドイツの組織的なユダヤ人排斥は、権力掌握後、1935年ニュルンベルク法によって確定し、水晶の夜などの悲劇を生みながら、第二次世界大戦が始まると強制収容所が国内およびその占領に設けられていった。戦争の激化に伴いユダヤ人絶滅を目指す狂気の行動となり、約600万人のユダヤ人が強制収容所に送られ、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所でユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)が実行されていった。ナチス=ドイツによるホロコーストの犠牲者は、現在では560万から590万にのぼると考えられている。

イスラエルの建国

 そのため大戦後は急速にユダヤ国家建設への同情が集まり、国際連合のパレスチナ分割決議をうけて、1948年5月14日にイスラエルを建国した。反発したアラブ連盟との間で直ちにパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発、その結果多数のパレスチナ難民が発生し、深刻なパレスチナ問題を生み出した。その後イスラエルはアメリカ・イギリスの支援のもと、強力な軍事国家化をはかり、アラブ側との戦闘で領土を広げ、入植地を広げていく。

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書籍案内

長谷川修一
『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』
2023 NHK出版

シ-セル=ロス
長谷川眞・安積鋭二訳
『ユダヤ人の歴史』
1961 みすず書房

小岸昭
『離散するユダヤ人』
1997 岩波新書

関哲行
『スペインのユダヤ人』
世界史リブレット59
2003 山川出版社

芝健介
『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』
2008 中公新書

広河隆一
『パレスチナ(新版)』
2002 岩波新書