日独防共協定/日独伊三国防共協定
1936年11月、日本とナチス=ドイツ間で共産主義インターナショナルの脅威からの共同防衛を約したもの。翌37年にはイタリアが参加し三国防共協定となる。後の日独伊三国同盟の前提となった。
1936年11月25日、日本政府(広田弘毅内閣)とナチス=ドイツの間で締結され協定で、正式には<共産「インターナショナル」に対する日独協定>ということからわかるように、コミンテルンからの国家防衛のために協力することを約束したも。具体的にはその前年にコミンテルン第7回大会がファシズムの台頭に対する反ファシズム人民戦線(民族統一戦線)の結成を運動方針としたことに対して警戒した動きであった。
ソ連を仮想敵国に 日独防共協定の協定本文は公表されたが、付属の秘密協定があり、そこではソヴィエト連邦を仮想敵国として日独両国が提携することを規定していた。ただし厳密な軍事同盟ではなく、当事者の一方がソ連と戦争に入った場合は他方は戦争の遂行面でソ連の負担を軽減するような措置はとらないという内容であった。
交渉に当たった日本のドイツ駐在陸軍武官大島浩は、純粋な日独軍事協定を考えていたが、ドイツ外務省と国防軍が抵抗したため、コミンテルンという非国家組織(事実上はソ連)を仮想敵とし、共産主義というイデオロギーを対象とした協力にトーンダウンせざるをえなかった。<歴史学研究会編『世界史史料』10 岩波書店刊 p.242 解説による>
日本の陸軍は創設当初からフランス陸軍を模範としていたが、1870年の普仏戦争でフランスがドイツ(プロイセン)に敗れたことをきっかけに、ドイツ陸軍を手本とすることに切り替わった。その後陸軍の中枢でドイツに駐在武官として赴任するものが増え、陸軍内には相当の“親ドイツ派”が生まれていた。日独防共協定から日独伊三国同盟締結を主導した大島浩もそのような軍人だった。
しかし、ドイツの対日感情は必ずしも良くはなかった。それは第1次世界大戦で日本は英仏など連合国側に付き、ドイツに対して宣戦を布告し、“火事場泥棒”的に青島など山東半島のドイツ権益を奪われた、と認識していたからであった。日本では青島戦でのドイツ軍捕虜を丁重に扱ったという話が知られており、ドイツと戦ったという事実は忘れられていったが、ドイツでは日本に対する悪感情は残ったようだ。特にヒトラー台頭前のドイツ国防軍にはその感情が残っていた。
もう一つは、戦間期の中国情勢の中で、ドイツ国防軍は1927年以来、蒋介石の国民政府と密接な関係を結び、軍事顧問団を派遣していた(最盛期には50名に及んだという)ことである。ドイツは第一次世界大戦後の復興のために工業力の回復に努めており、その工業製品である武器の輸出先が中国であり、同時に工業原料であるタングステンなどを中国から輸入していたので、むしろ日本の中国への進出は警戒すべき事であった。
1936年7月にスペイン戦争が始まったことによってヨーロッパにおけるドイツ・イタリア対イギリス・フランスという対立軸が明確となり、ヒトラーにとってアジアにおける友好国として日本を位置づける意識が強くなったと考えられる。そのような状況の下で1936年11月25日、日独防共協定が締結された。
しかしこの協定は、日独が協力してコミンテルンによる共産主義の進出を抑えるという反共イデオロギー的な提携にとどまっており、軍事同盟としての内容ではなかったので日本の軍部は不満で在り、大島による日独軍事同盟締結の工作はさらに続くこととなった。
1917年のロシア革命で権力を握ったボリシェヴィキがソヴィエト政権を樹立し、資本主義社会の変革、資本家や地主などの支配階級の打倒を掲げると、それに倣って各国で共産党が活動を開始、1922年にソヴィエト連邦が成立したこと、さらに共産主義運動の国際的な組織としてコミンテルンが結成され、世界各国の革命運動の指導に当たるようになった。この国際共産主義運動は、議会制度の否定や暴力革命を肯定する戦術、私有財産や市民的自由の否定など主張しているとみられたので、それを極度に恐れる心情もまた生まれることになった。ナチスやファシスト党は国家社会主義という疑似社会主義から出発したが、国家権力を握る過程で共産党を敵視する手段を取り、権力を握ると厳しく弾圧した。また戦前の日本においても共産主義を「国体」つまり天皇制を否定する危険な思想として恐れる人が多く、保守派の政治家は多くは反共を訴えることで支持を集め、治安維持法などで組織的に弾圧された。「反共」が国家意思とされ、共産主義やコミンテルンの脅威から国家を守ろうという国同士が「防共」(あるいは赤化防止と言われた)を掲げて提携したのがこの協定であった。防共という言葉は日本では日独(伊)防共協定の他に、中国における冀東防共自治政府などに見るような政治用語として用いられた。
翌1937年11月6日、ムッソリーニのイタリアが日独防共協定に加わり、日独伊防共協定が成立した。イタリアは直後の12月、国際連盟を脱退する。日独伊防共協定の成立によってファシズム国家の国際協力体制としての規模を拡大し、後にスペイン、ハンガリー、ブルガリアがドイツの要請(圧力)によって加盟している。
ソ連を仮想敵国に 日独防共協定の協定本文は公表されたが、付属の秘密協定があり、そこではソヴィエト連邦を仮想敵国として日独両国が提携することを規定していた。ただし厳密な軍事同盟ではなく、当事者の一方がソ連と戦争に入った場合は他方は戦争の遂行面でソ連の負担を軽減するような措置はとらないという内容であった。
コミンテルンに対する防衛
協定の中身は、第1条に「共産インターナショナルの活動に付き相互に通報し、必要なる防衛措置に付き協議しかつ緊密なる協力」を約すとあり、付属議定書で協力の内容として情報交換、啓発、コミンテルン工作員の破壊活動に対する厳正な対処があげられている。なお、日本の訳文は「防衛」となっているが、ドイツ語本文の Abwehr は「防諜」(スパイの防止)の意味であり、趣旨は防諜および情報交換・破壊工作の防止で協力すると言うことであった。交渉に当たった日本のドイツ駐在陸軍武官大島浩は、純粋な日独軍事協定を考えていたが、ドイツ外務省と国防軍が抵抗したため、コミンテルンという非国家組織(事実上はソ連)を仮想敵とし、共産主義というイデオロギーを対象とした協力にトーンダウンせざるをえなかった。<歴史学研究会編『世界史史料』10 岩波書店刊 p.242 解説による>
日本とドイツの関係
日本とドイツは、第二次世界大戦で軍事同盟(イタリアも加えて)関係にあったので、両者の関係はそれまでも良好であったような錯覚に陥ることがあるが、19世紀末~20世紀の歴史を見ていけば、必ずしもそうでなかったことに気がつく。そのため1936年に日独が接近するまでを概観しておこう。日本の陸軍は創設当初からフランス陸軍を模範としていたが、1870年の普仏戦争でフランスがドイツ(プロイセン)に敗れたことをきっかけに、ドイツ陸軍を手本とすることに切り替わった。その後陸軍の中枢でドイツに駐在武官として赴任するものが増え、陸軍内には相当の“親ドイツ派”が生まれていた。日独防共協定から日独伊三国同盟締結を主導した大島浩もそのような軍人だった。
しかし、ドイツの対日感情は必ずしも良くはなかった。それは第1次世界大戦で日本は英仏など連合国側に付き、ドイツに対して宣戦を布告し、“火事場泥棒”的に青島など山東半島のドイツ権益を奪われた、と認識していたからであった。日本では青島戦でのドイツ軍捕虜を丁重に扱ったという話が知られており、ドイツと戦ったという事実は忘れられていったが、ドイツでは日本に対する悪感情は残ったようだ。特にヒトラー台頭前のドイツ国防軍にはその感情が残っていた。
もう一つは、戦間期の中国情勢の中で、ドイツ国防軍は1927年以来、蒋介石の国民政府と密接な関係を結び、軍事顧問団を派遣していた(最盛期には50名に及んだという)ことである。ドイツは第一次世界大戦後の復興のために工業力の回復に努めており、その工業製品である武器の輸出先が中国であり、同時に工業原料であるタングステンなどを中国から輸入していたので、むしろ日本の中国への進出は警戒すべき事であった。
日独提携の工作
1933年1月、ナチスのヒトラー内閣が成立すると日本の陸軍は日独関係改善の好機とみて翌年、親ドイツ派大島浩を駐在武官として送り込んだ。大島は陸軍が仮想敵国としているソ連との決戦となった場合、ドイツと同盟することは不可欠だと強く主張する日独同盟論者だった。大島の工作に対してドイツ外務省・国防軍の態度はいずれも冷ややかだったが、大きな転機が訪れた。ドイツの外務次官にヒトラーと親しいリッベントロップが就任、防共という共通目的で日独が手を結ぶことに積極的になったのだ。ヒトラー-リッベントロップはアジアで日本と手を結ぶことで将来的なロシアへの侵攻に有利になると考え、国防軍の中国との提携路線を押さえるようになった。1936年7月にスペイン戦争が始まったことによってヨーロッパにおけるドイツ・イタリア対イギリス・フランスという対立軸が明確となり、ヒトラーにとってアジアにおける友好国として日本を位置づける意識が強くなったと考えられる。そのような状況の下で1936年11月25日、日独防共協定が締結された。
しかしこの協定は、日独が協力してコミンテルンによる共産主義の進出を抑えるという反共イデオロギー的な提携にとどまっており、軍事同盟としての内容ではなかったので日本の軍部は不満で在り、大島による日独軍事同盟締結の工作はさらに続くこととなった。
「防共」の意味
「防共」とは、共産主義の脅威からの防衛、の意味であるが、すでに歴史用語化しており、現在使われることはない。現在の感覚からすると理解しづらいことであるが、20世紀前半まではよく用いられた。それは19世紀に資本主義社会の矛盾を克服する思想としてマルコスらによって提唱された社会主義の理念に従い、資本家階級の打倒、労働者の解放などを目指して共産主義社会建設をめざす運動が起こったことに対して、従来の社会秩序や資本家や地主などの支配階級の権益を守ろうという保守主義が台頭し、「反共」思想をより明確にして政治的意図を持たせた言葉であった。1917年のロシア革命で権力を握ったボリシェヴィキがソヴィエト政権を樹立し、資本主義社会の変革、資本家や地主などの支配階級の打倒を掲げると、それに倣って各国で共産党が活動を開始、1922年にソヴィエト連邦が成立したこと、さらに共産主義運動の国際的な組織としてコミンテルンが結成され、世界各国の革命運動の指導に当たるようになった。この国際共産主義運動は、議会制度の否定や暴力革命を肯定する戦術、私有財産や市民的自由の否定など主張しているとみられたので、それを極度に恐れる心情もまた生まれることになった。ナチスやファシスト党は国家社会主義という疑似社会主義から出発したが、国家権力を握る過程で共産党を敵視する手段を取り、権力を握ると厳しく弾圧した。また戦前の日本においても共産主義を「国体」つまり天皇制を否定する危険な思想として恐れる人が多く、保守派の政治家は多くは反共を訴えることで支持を集め、治安維持法などで組織的に弾圧された。「反共」が国家意思とされ、共産主義やコミンテルンの脅威から国家を守ろうという国同士が「防共」(あるいは赤化防止と言われた)を掲げて提携したのがこの協定であった。防共という言葉は日本では日独(伊)防共協定の他に、中国における冀東防共自治政府などに見るような政治用語として用いられた。
日独伊三国防共協定
すでにドイツとイタリアは、1936年10月、ベルリン=ローマ枢軸と言われる提携関係に入っていた。従ってこの日独防共協定は日本が枢軸国に加わり、ヴェルサイユ=ワシントン体制の現状打破戦力として提携し、現状維持をめざすアメリカ・イギリス・フランスの陣営と全面対決する路線へとつながることとなった。翌1937年11月6日、ムッソリーニのイタリアが日独防共協定に加わり、日独伊防共協定が成立した。イタリアは直後の12月、国際連盟を脱退する。日独伊防共協定の成立によってファシズム国家の国際協力体制としての規模を拡大し、後にスペイン、ハンガリー、ブルガリアがドイツの要請(圧力)によって加盟している。
ソ連との関係悪化
ソ連は日独伊防共協定に強く反発し、これ以後、日ソ関係は悪化の方向に向かい、例えば漁業協定の更新に応じないなどの対日圧迫措置がとられた。加えて日ソ間には国境をめぐる紛争が大規模化し、やがて1938年7月の張鼓峰事件、翌年5~9月のノモンハン事件へと発展した。この2度の日ソ間の軍事衝突は、いずれも双方で大きな犠牲が生じた。日独伊三国軍事同盟へ
ところが、1939年8月、ナチス=ドイツのヒトラーとソ連のスターリンが一転して独ソ不可侵条約を締結した。この国際情勢の急転によって日独伊三国防共協定は意味をもたなくなり、ドイツはイギリスとその背後のアメリカを対象とする軍事同盟を日本に強く働きかけるようになった。日本は独ソ不可侵条約を結んだドイツに裏切られた刊があるので交渉は一時停滞したが、第二次世界大戦が始まり、1940年になるとドイツの優勢が明確になると、日本もイタリアもドイツと協力することが有利と判断して、9月には日独伊三国同盟を締結する。日独伊三国同盟は、防共協定とは異なり、アメリカを仮想敵国とする軍事同盟となった。日本は同時に南進に転じ北部仏印進駐を行い、東南アジアへの侵出がアメリカとの対決になることを想定してソ連に急速に近づき、1941年4月には日ソ中立条約を締結する。このように日独伊三国同盟は日本の太平洋への道を後戻りできない段階へと進めたと言える。