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米華相互防衛条約

1954年に締結された、アメリカと台湾(中華民国)・蔣介石政権間の軍事条約。対共産圏包囲網の一環であったが、1970年代にアメリカが本土の中国政府との関係を改善、米中国交回復に伴い、1980年に破棄された。

 朝鮮戦争の休戦協定成立後の1954年12月に締結された、アメリカによる対中国軍事包囲網の一つ。アメリカは国共内戦以来、国民党蔣介石政権を支持、蒋介石政権が台湾に逃れてからも中華民国政府(台湾政府)への軍事支援を続けた。
 この条約は、日米安全保障条約米比相互防衛条約などとともに対共産圏包囲網の一環であり、特にアジアにおいては中華人民共和国の共産党政権を仮想敵国とする軍事同盟網の一つであった。それより先の1952年4月には、日本と中華民国(台湾)の間で日華平和条約が締結され、日中戦争の講和が成立(中華人民共和国との講話はまだ出来ていない)した。この段階では日本は一つの中国の原則に従い、大陸の中華人民共和国とは講和せず、国交も開かなかった。

冷戦下の台湾海峡危機

 台湾を支援する態勢をとるアメリカは国務長官ダレスが「もし台湾が攻撃されれば大陸を攻撃する」と表明、米華相互防衛条約では台湾の範囲として澎湖島とともに大陸に近い金門島、馬祖島なども含めていた。蒋介石は金門・馬祖に大陸への反攻のための基地を設置すると、中国政府は「台湾及び周辺の島嶼は中国領である」として、1955年1~2月、金門・馬祖に砲撃を加えた。
 中国の人民解放軍による金門・馬祖への砲撃は1958年8月23日に最も激しく行われ、44日間に及んだ。それ以降、台湾海峡は中国軍と台湾・アメリカ軍がにらみ合う緊張が続き、全面戦争に転換することは回避されたが、「台湾海峡有事」の危機感は日本にも影響を与え、自民党岸内閣は幅広い国民的な反対を受けながら、日米安全保障条約の改定を強行、1960年、日米安保条約改定を調印し、日米間の軍事同盟を強化した。この時アイゼンハウアー大統領は改訂安保条約調印のため日本を訪問する予定だったが、激しい反対運動(安保闘争)のため断念、台北に滞在中には中国の金門・馬祖砲撃が一段と激しくなった。

米中国交正常化によって廃棄へ

 しかし、長期化するベトナム戦争の打開策を模索したアメリカ合衆国ニクソン政権の外交担当キッシンジャー1971年7月に秘かに訪中し、中国本土の共産党政権との関係を持つ姿勢に転換、交渉を開始した。アメリカが中国を代表する政府として中華人民共和国と交渉に入ったことによって、国際連合での中国代表権が問題となり、同1971年10月25日に、台湾の中華民国政府は国際連合の「中国」代表権を失い、国連から追放された。
 1972年にはニクソン大統領の訪中が実現し、米中は事実上の相互承認に踏み切りった。その後、交渉は長びいたが、1979年1月1日米中国交正常化に漕ぎ着けた。これによってアメリカと台湾の関係は途絶することとなり、翌1980年、米華相互防衛条約は破棄された。

その後のアメリカと台湾の関係

 アメリカと台湾は、国家間の関係は無くなったが、関係を断絶させたわけはなかった。米中国交正常化と同じ1979年4月10日にアメリカは国内法として「台湾関係法」を制定、台湾を「政治的な実体」と認め、実質的な関係を維持し、台湾の防衛に必要な武器を有償で提供し続けた。アメリカ政府と議会は、中国の「台湾は中国の一部であり台湾問題は内政問題である」という主張に対し、「台湾問題は平和的に解決しなければならない」と警告する立場を取っている。
 アメリカの「台湾関係法」は国交のない台湾に対して、事実上の主権国家として扱い、アメリカが国家としてどう関わるかを規定した、国際法上、例のない特殊な法律である。米華相互防衛条約に代わるものとして制定されたが、軍事同盟ではない点以外にもかなり違いもあり、まず範囲を台湾と澎湖島だけに限定(台湾海峡上の金門・馬祖などは含まない)しており、また台湾住民の人権の擁護という、台湾の内政に釘を刺す内容も含まれている。台湾政府は、当初は反発したが、現在はより現実的な関係を維持する上で受け入れ、同じように台湾と断交した日本とフィリピンにも同様の法律を制定することを望んでいるという。アメリカは台湾関係法に基づき、1985年以降、台湾の民主化について勧告し、民主化運動を支援する姿勢を見せている。それが李登輝総統の民主化の進展の背景であった。<伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書 p.207-210>

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伊藤潔
『台湾 四百年の歴史と展望』
1993 中公新書