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台湾海峡危機/金門・馬祖砲撃

台湾侵攻をめざす中国と、大陸反攻をねらう台湾の政府間の軍事的緊張。1958年、中国軍の金門・馬祖への砲撃が激化し、その後1978年まで続いた。

 1953年に朝鮮休戦協定が締結されてアジアの戦火はいったん収まったが、東西冷戦の深刻化はさらに続き、同年1月に就任したアメリカの共和党アイゼンハウアー大統領のもとで共産主義に対してもっと積極的な「まき返し政策」が図られた。
 一方、ソ連では同年にスターリンが死去し、マレンコフ首相・フルシチョフ共産党書記らの集団指導体制に移行し、平和共存策を打ち出された。アイゼンハウアーはジュネーヴ4巨頭会談に参加するなど、冷戦の対立が緩和される動きも見られたが、アジアにおける緊張は台湾海峡において再び鋭くなってきた。

「台湾解放」か「大陸反攻」か

 中華人民共和国(2)の中国共産党毛沢東政権は、朝鮮戦争によって中断された「台湾解放」の行動を再開しようとした。それに対して台湾の国民党政府 蔣介石は、アメリカ軍の支援のもと、逆に中国本土への「大陸反攻」をめざした。1954年にはアメリカと台湾は米華相互防衛条約を締結、軍事支援を明確にした。
 蔣介石政府が台湾海峡の厦門に近接する金門島と馬祖島に要塞を築いたの対して、中国はそれらの島は中国の領土であるとして反発し、1955年1~2月に金門島などに砲撃を加えた。アメリカは台湾防衛をアジアの共産主義化を防止する拠点ととらえ、朝鮮戦争以来の第7艦隊を台湾海峡への派遣を続け、米中間の緊張が高まった。

金門・馬祖砲撃

 1958年、台湾をめぐる国際関係に変動が起こった。1958年7月、中東でイラク革命が勃発して王政が倒されると、アメリカ・アイゼンハウアー大統領は革命の波及を恐れてレバノンに派兵した。これは前年に発表していた共産勢力の進出に対しては武力行使も辞さないというアイゼンハウアー=ドクトリンに基づいたものだった。
 これに勇気づけられた台湾の蔣介石は、8月に金門島爆撃を行った。アメリカ軍も軍艦と飛行機を派遣して台湾軍を護衛したので、緊張は一挙にたかまり、1958年8月23日、中国の人民解放軍は金門・馬祖に対する反撃の砲撃を本格的に開始、同時に領海12海里を宣言してアメリカ軍の金門・馬祖への補給を断とうとした。このとき、アメリカが中国攻撃を開始した場合は、ソ連が核兵器と軍事援助を提供すると約束していたが、フルシチョフは7月に北京を訪問した際、中国海軍をソ連との合同司令部の指揮下に置かのでなければ約束を実行しないと述べた。フルシチョフはアメリカとの平和共存を進めようとしていたのであり、毛沢東はそれを帝国主義に屈服することだとして強く反発した。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.230>

アメリカとの駆け引き

 しかし毛沢東は全面的な台湾侵攻は実行しなかった。その後も金門・馬祖への砲撃は隔日ごとに執拗に行われたが、それはアメリカを交渉に引き出すための駆け引きだった面が強い。最も激しい砲撃は、1960年6月、アイゼンハウアー大統領が台湾の台北に滞在した3日間の連日砲撃だった。このとき、アイゼンハウアーは日米安保条約改定の調印のため日本も訪問する予定であったが、日本国内での安保闘争が盛り上がったために中止していた。

国際的孤立

 中国にとってアメリカとの軍事的緊張、ソ連との対立という国際環境の悪化は、翌年も続いた。1959年3月に起こったチベット反乱はインドとの関係の悪化をもたらし、インド中国の最初の国境衝突が同年8月に起こり、そこでもソ連はインド支持を明確にした。そのような国際的な孤立化の中で、毛沢東の中国共産党は国内に向けては大躍進運動を起こし、第2次五カ年計画に着手した。
 台湾海峡危機は国共内戦、さらには米中戦争・米ソ戦争につながる危惧はあったが、双方とも全面対決を回避した。中国は「台湾解放」のスローガンを降ろすことは出来ず、その後も奇数日に金門・馬祖を砲撃し続け、やや儀礼化する中、1978年まで続いた。それは1979年の米中国交正常化の前年であった。
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小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書