アルジェリア問題
フランスの植民地アルジェリアの独立をめぐるフランス国内の問題。1954年以降激化した独立運動に対し、フランスの対応が分裂した。
フランスの植民地化
アルジェリアは北アフリカの地中海に面してフランスの対岸、マグリブ地方にあり、東にチュニジア、西にモロッコがある。民族的にはアラブ人が主体で、土着のベルベル人と同化している。7世紀以来、イスラーム教が浸透し、16世紀にはオスマン帝国を宗主国とするイスラーム政権があった。1830年、ブルボン復古王朝のシャルル10世がアルジェリア出兵を行い、アブド=アルカーディルらの抵抗を抑えて植民地化した。その後、フランス植民地としてフランス人の入植が続いた。独立運動
第二次世界大戦後、アルジェリアにおいても民族独立運動が起こり、ベン=ベラを指導者として1948年民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年に武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まった。当時のフランス領アルジェリアは、アラブ系約900万をフランス人入植者の子孫(コロンという)の約100万が支配しており、彼らは特権的な地位を確保するため「フランス人のアルジェリア」を唱えて、アラブ人の独立運動を厳しく弾圧し、双方のテロが繰り返された。1956年にはフランス第四共和政政府はエジプトのナセルがアルジェリア独立を支援しているとして、スエズ戦争でイギリスに同調して出兵したが失敗し、国際的な非難を受けた。フランス人入植者の反乱
フランス政府がアルジェリア問題に苦慮して次第に独立承認に傾くと、現地のフランス人入植者(コロンという)は本国政府の弱腰を非難し、またそのころインドシナ戦争に敗北しアルジェリアでの名誉の回復を策していた軍部と結んで独立を妨害した。1958年5月には現地フランス軍が反乱を起こし、国内の軍部にも同調する動きがあって、フランスは内乱の危機に陥った(5月13日の危機)。この現地反乱軍をコントロールできなくなったフランスの第四共和政政府が倒れ、右翼からは植民地維持を図るであろうと期待され、国民大衆からは国家の危機を救うであろうと期待された大戦の英雄ド=ゴールが復活した。ド=ゴールのアルジェリア政策
しかしド=ゴールは大統領に当選し強力な権限を与えられると一転して態度を変え、「アルジェリア人のアルジェリア」を実現させる方向をとった。ド=ゴールは現地軍の反乱を抑え、1960年にはアルジェリアの独立の可否を国民投票にかけ、賛成多数の支持を受けて解放戦線(FLN)との交渉を開始し、62年7月エヴィアン協定を締結、独立戦争の和平を実現させた。協定に基づいてアルジェリアで住民投票が行われ、独立賛成が圧勝して、同年アルジェリア民主人民共和国が成立した。