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中東戦争(第2次)/スエズ戦争

1956年10月、ナセル大統領のスエズ運河国有化に反発したイギリス・フランス・イスラエルがエジプトを攻撃した戦争。

 1956年10月29日、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に衝撃を受けたイギリスがフランス、イスラエルに働きかけ、協同で出兵し、エジプトに侵攻した。イギリスはスエズ運河会社の株主として利益を得ていただけでなく、運河航行の自由がなくなることを恐れた。フランスが加わったのは、同じ時期に展開されていたアルジェリア戦争の背後にナセルがいると考えていたためである。イスラエルは第1次中東戦争でのエジプトから得た地域の支配を確保し、さらに拡大する意図があった。こうして単にスエズ運河をめぐるイギリスとエジプトの対立という図式を越えて、パレスチナ問題と結びつき、戦火を拡大させた。

イスラエル・英仏軍のエジプト侵攻

 1956年10月、まずイギリスはイスラエルのベングリオン内閣を動かしてエジプトに侵攻させスエズ戦争が開始された。ダヤン将軍の率いるイスラエル軍は1週間でシナイ半島を制圧、さらに英仏両軍がスエズ地区に出兵してた。
 イギリスとフランスはイスラエル軍の侵攻の翌日、スエズ運河の安全を守るためとして、イスラエル軍とエジプト軍双方に対して撤退を要求(このときイスラエル軍はまだ運河地帯に到達していなかった)、エジプト軍がそれに応じないことを口実にエジプトの空軍基地やラジオ局を空爆、さらに地上部隊を上陸させて運河地帯の占領を開始した。<池田美佐子『ナセル』世界史リブレット 人シリーズ 2012 山川出版社 p.49>

国際世論の動向

 エジプトはイスラエル・イギリス・フランスの三国軍に侵攻され、苦戦に陥った。しかし国際世論は英仏とイスラエルの侵略行為を非難し、エジプトを支持する声が強く、ナセルに有利に動いた。ソ連(当時ハンガリー事件の最中であったが、フルシチョフは平和共存路線を模索していた)も英仏に対してミサイルで報復すると警告、アメリカはアイゼンハウアー大統領が大統領選挙に直面していたため英仏への援軍を派遣せず、イギリスに対する経済的圧力をかけて即時停戦を要求した。英仏とイスラエルは国際的に孤立し、11月上旬、国際連合の停戦勧告を受け入れて、撤退を表明した。エジプトは戦争では敗れたが政治的にはスエズ運河のエジプト国有化という実質的な勝利をおさめ、ナセルは「アラブの英雄」として人気が高まった。
 しかしその後も、アラブとイスラエルの間の中東戦争は、第3次中東戦争へと展開していくこととなる。

スエズ戦争と国連

 イスラエルの侵攻が開始された翌日の10月30日、アメリカは安全保障理事会の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。それに対してイギリスとフランスが拒否権を行使した。アメリカと英仏が対立するという驚くべきことが起こった。そこで翌31日、安保理が拒否権でマヒした場合は議題を総会に移管するという1950年の「平和のための結集」決議を利用し、緊急特別総会を開催することとし、その緊急特別総会でアメリカがただちに停戦・撤兵決議案を提出し、採択させた。この段階ではアメリカは多国間主義による国際紛争の解決という原則を維持していたのである。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.150>
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