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アメリカのカンボジア侵攻

1970年、アメリカは南ベトナムの親米政権を支援し、北ベトナムに打撃を与えるために、その支援ルートであるカンボジアに侵攻した。1973年には、親米のロン=ノル政権と対立するポル=ポト派解放区に対する大量の空爆を行った。

 ベトナム戦争が泥沼化するなか、1970年3月、カンボジアで、親米派のロン=ノル将軍によるクーデターが決行され、外遊中であった反米的なシハヌークは国家元首の地位から解任された。

インドシナへの戦争拡大

 1970年4月、アメリカのニクソン大統領はロン=ノル政権を支援し、カンボジアを経由する北ベトナムからの南べトナム解放民族戦線(ベトコン)支援ルートであるホー=チ=ミン・ルートを遮断するというねらいから、アメリカ軍をカンボジアに侵攻させた。
 さらに翌1971年ラオス愛国戦線の活動を抑えるため、アメリカのラオス空爆を実行した。これによってベトナム戦争はベトナム以外のインドシナ半島に拡大されることとなり、第2次インドシナ戦争と言われる段階に入った。

和平交渉の裏で

 ニクソン大統領は前年就任するとともにベトナムからの段階的撤退を打ち出していたが、それと矛盾する戦線拡大を行ったのは、当時並行して行われていたベトナム和平交渉(パリ和平会談)で優位に立とうという意図があったものと思われる。しかし、この強硬策はカンボジアのポル=ポト派による徹底した抵抗と、国際世論の非難によって効果を上げることはできなかった。 → カンボジア内戦

ポル=ポト派解放区への空爆

 1973年、ベトナム戦争のパリ和平協定が成立してアメリカ軍はベトナムから撤退、北爆も停止した。しかし、カンボジアにおける親米政権ロン=ノル政権は共産勢力であるポル=ポト派に追い詰められていたので、アメリカはポル=ポト派をたたくためカンボジアの「解放区」への空爆を再開した。73年2月~8月の半年間に投下された爆弾は25万トンに達した。「この量は、第二次大戦で日本に投下された爆弾の1.5倍にあたり、被爆地区を石器時代に逆戻りさせたといわれた。」<冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 p.26>
 しかし、ポル=ポト派を壊滅させることはできず、逆に1975年4月、ポル=ポト派がプノンペンを制圧、ロン=ノル政権が倒されてしまった。ポル=ポト派は「アメリカ帝国主義」と単独で戦って勝利したという自信を得て、その後独善的なポル=ポト政権をカンボジアでふるうこととなる。  
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