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保守派クーデター(ソ連共産党)

1991年、ゴルバチョフ政権に反発したソ連共産党保守派がクーデタを起こしたが失敗し、かえってソ連共産党の解体につながった。

 1991年8月、ソ連共産党の保守派がゴルバチョフ大統領を軟禁し、連邦制と共産党指導権の維持を図ったクーデターを起こした。しかし、モスクワ市民、メディアの反対によって失敗し、ソ連共産党及びソ連邦の解体の直接的な契機となった。

ゴルバチョフ政権の行き詰まり

 ソ連の共産党一党支配体制は、1960年代後半のブレジネフ政権の時期から、官僚支配による硬直化、生産力の低迷などのソ連の停滞が表面化し、1985年からゴルバチョフ書記長が登場し、ゴルバチョフ政権が開始された。ゴルバチョフはグラスノスチペレストロイカを推進し、市場経済導入と複数政党制などの改革、外交では東欧革命の動きに対応して新ベオグラード宣言を出して制限主権論からの転換をはかった。しかし、ゴルバチョフ改革は共産党内の特権を維持したい保守派の抵抗を受け、容易に進まなかった。

共産党保守派

 副大統領ヤナーエフ、国防相ヤゾフ、首相パブロフ、内相プーゾ、KGB議長クリュチコフなど保守派ないしは中道派に属する党官僚は、ゴルバチョフ政権が進める諸改革は最終的に共産党一党独裁を否定し、ソ連邦の解体に進むことになるという危機感を抱き、ゴルバチョフを排除し、保守派の権力を樹立することを志向するようになった。

クーデターの失敗

 1991年、まずバルト三国の独立宣言の動きが表面化した。ゴルバチョフはソ連邦の構成国の自治権を認めながらソ連邦の維持を図ろうと、新連邦条約を構想し、事態を収束させようとした。保守派それが実現すればソ連邦の解体の第一歩となることを恐れ、ゴルバチョフの排除を模索した。クーデターの実際のシナリオをつくったのはゴルバチョフの古くからの同志ルキヤノフ書記だった。彼らは8月19日、クリミア半島の保養地で新連邦条約草案を作成していたゴルバチョフを監禁し(最近明らかになったことは監禁ではなく、自分の意志でモスクワに戻らなかったともされている)、健康上の理由で辞任したと発表、ヤナーエフを大統領代行にして権力を掌握したと発表した。
 しかし、モスクワではロシアのエリツィン大統領が市民の先頭に立ってクーデター反対に立ち上がり、軍の大勢もエリツィン側についたためクーデターは全く失敗、バルト三国でも保守派の暴動の動きは封じられ、わずか三日間で鎮定された。

ソ連共産党の解散

 このクーデターは失敗したが、ソ連大統領ゴルバチョフ、およびソ連共産党の権威は全く失墜した。ゴルバチョフは一命を取り留めたが、8月24日に共産党書記長を辞任、一気にソ連共産党の解党を宣言した。さらに12月には、ソ連大統領の地位も辞任すると共に、ソ連は解体されることとなった。
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