ブレジネフ
1964年から70年代のソ連共産党指導者。デタントを進めるが、ソ連経済の停滞を脱却できなかった。制限主権論を掲げチェコなどに介入、1979年にはアフガニスタン侵攻に踏み切った。
Leonid Il'ich Brezhnev
1906-1982
内政
コスイギン首相に担当させ、主として党務と外交にあたり、前任のフルシチョフの誤りを避けて改革には慎重であり、この政権の期間はソ連社会の停滞の時代であったとされている。彼が権力の座にあった18年間は、共産党官僚(いわゆるノーメンクラツーラ)が特権的な権力を行使し、内政は経済の停滞から活力を失っていった。外政
緊張緩和 基本的には冷戦のなかでの緊張緩和(デタント)を推進し、欧州の安定とアメリカとの核軍縮を前進させたが、スターリン批判以来強まってきた東欧社会主義諸国の分離や自由化運動を厳しく押さえつける介入を行った。その背景には中ソ対立があり、中国の攻勢から東欧やその他の社会主義圏に対するソ連の統制力を守る必要があったことがあげられる。緊張緩和(デタント)の推進としては、1966年に全欧州の安全保障会議の開催を提唱し、68年には核拡散防止条約(NPT)を締結し、75年の全欧安全保障協力会議(CSCE)の開催とヘルシンキ宣言に結実した。さらに69~72年には第1次戦略兵器制限交渉(SALT・Ⅰ)を行い、73年には訪米してニクソン大統領との間で核戦争防止協定を締結した。
チェコ事件 ブレジネフ・ドクトリン その一方、社会主義陣営に対する締め付けは厳しく行い、1968年にはチェコ事件でチェコスロヴァキアの改革に対してワルシャワ条約機構5カ国軍を介入させ、ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)を掲げてそれを正当化した。翌69年には中ソ国境紛争がついに火を噴き珍宝島事件となった。さらに79年にアフガニスタンに侵攻を強行して国際的批判を浴び、80年代の新冷戦という東西緊張復活の要因を作った。
権力の硬直化から崩壊へ
70年代後半は元帥や国防会議議長をへて77年に最高会議幹部会議長という国家元首の地位につき、個人崇拝が行われるようになって1982年の死去まで続いた。しかし、その硬直した権力のもとでソ連の矛盾が進行し、1980年代後半にその立て直しを目指してペレストロイカへと向かったが失敗に終わり、結局1991年のソ連邦の崩壊を招くことになったと言える。