チェコスロヴァキアの連邦解消
1989年の民主化達成後、民族主義が台頭、連邦快勝が議決され、1993年にチェコとスロヴァキアに分離し、別個の国家となった。
チェコスロヴァキア共和国(第一共和制)は第1次世界大戦後、1918年に、チェック人の多いボヘミア・モラビア地方(あわせてチェコ地方)と、スロヴァキア人が多いスロヴァキア地方を合わせて成立した新しい国家だった。両者は西スラヴ人に属するという共通性があり、言語的にも同一であったので、マサリクらによる独立運動は当初から単一国家の建設を目標に展開され、それが実現した。
第二次世界大戦前にはミュンヘン会談の結果として、1938年にチェコスロヴァキアは解体され、ズデーテン地方はドイツに割譲、チェコはドイツの保護領とされ、スロヴァキアは初めて分離独立し共和国となったが、実質的にはドイツの強い影響の元で保護国とされた。この状態はナチス=ドイツが敗北する1945年5月まで約8年続いたが、この間に違った歩みをすることになったチェコとスロヴァキアは、意識のズレが生じたとも考えられる。
チェコとスロヴァキアの違い
しかし両地域は地理的条件、歴史的背景に相当な違いがあった。チェコはかつてオーストリアの、スロヴァキアはハンガリーの領土であったということと、チェコは平野に恵まれて生産力が高く、プラハを中心として工業は早くから発達していたが、スロヴァキアは山地が多く農業地域であるという点は特に顕著な違いであった。第二次世界大戦前にはミュンヘン会談の結果として、1938年にチェコスロヴァキアは解体され、ズデーテン地方はドイツに割譲、チェコはドイツの保護領とされ、スロヴァキアは初めて分離独立し共和国となったが、実質的にはドイツの強い影響の元で保護国とされた。この状態はナチス=ドイツが敗北する1945年5月まで約8年続いたが、この間に違った歩みをすることになったチェコとスロヴァキアは、意識のズレが生じたとも考えられる。
社会主義国家化
第二次世界大戦後、チェコスロヴァキア共和国は復活したが、間もなく東西冷戦のきびしい対立に巻き込まれてマーシャル=プランをめぐる対立から1948年2月に共産党のチェコスロヴァキアのクーデターが行われて、チェコスロヴァキア社会主義共和国が成立した。プラハの春の挫折
この社会主義国ととしてのチェコスロヴァキアでも党組織や国家の各機関でのチェコ側の優位が続いていた。1968年の「プラハの春」の改革ではスロヴァキア出身のドプチェクはチェコとスロヴァキアの対等な連邦化を掲げたが1968年8月、チェコ事件でソ連の軍事介入を受け実現しなかった。民主化と両国の分離
その後1989年にチェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)が一気に達成された後、共産党支配を排除した反動で、チェコ人とスロヴァキア人の民族主義が台頭、急速に連邦解消、分離が叫ばれるようになり、ハヴェル大統領など穏健な連邦維持派は少数となり、1992年に議会はチェコとスロヴァキアへの分離を議決し、1993年1月1日分離が実現した。この国家分離は、流血を避け、平和的に行われたので、「ビロード革命」にひっかけて「ビロード離婚」などともいわれた。 → 現在のチェコ スロヴァキアEpisode ハイフン論争。チェコスロヴァキアか、チェコ=スロヴァキアか。
1989年に民主化を達成、1990年に新憲法を制定するに当たり、議会で国名論争が起こった。国名から社会主義を消すことでは合意したが、チェコ出身議員は「チェコスロヴァキア連邦共和国」にこだわり、スロヴァキア出身議員は「チェコ=スロヴァキア連邦共和国」とすることにこだわった。スロヴァキアの独自性を強く意識したのだった。双方とも譲らず、国名さえ決まらないという異常事態となったためハヴェル大統領が仲介し、いずれをも公式名称とすることで妥協が成立し、異例の二重表記国家が生まれた。それでもスロバキア側の不満はくすぶり続け、4月には「チェコおよびスロバキア連邦共和国」の統一表記とすることで一応決着したが、分離の流れを止めることはできず、1993年についに国家分離となった。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.202>外からは判りずらい“離婚”
1993年1月1日に実現したチェコとスロヴァキアの連合解消は、遠く離れた日本ではその事情はよく飲み込めなかった。それについては次の説明が最もわかりやすい。(引用)そしてこの(連合解消)流れを一挙に進めることになったきっかけが、1989年末に共産党政権を崩壊させた体制転換、いわゆる「ビロード革命」である。多くの人々にとっては、すでに単なる抑圧としか受け取られていなかった社会主義体制を一気に転換させた後、チェコとスロヴァキアが連邦解体にいたるまでの三年間に、両者の間で様々な議論が交わされ、なかには第三者には少々理解しがたいような主張も含まれていた。急速な市場経済化をめざすチェコと、穏健な改革をめざすスロヴァキアとの間で意見が対立した点がしばしば国家分裂の原因として挙げられるが、それだけですべてを説明できるわけではないのも確かである。声高な民族的主張を表明することができなかった社会主義時代の重圧が一挙にはねのけられた時、一種の反動のような気分が訪れ、それがスロヴァキアにおいては「主権をもった独立国家」への願望を図らずも正面に押し出してしまったことも否定できない。そしれ、新しい国家は「チェコ―スロヴァキア」か「チェコとスロヴァキア」かといった問題、さらに国章の図柄をどうするか、すなわちチェコの国章とスロヴァキアの国章を縦横どのように配置するかという問題で議会が紛糾するという事態さえ生じてしまったのであった。<薩摩秀登『物語チェコの歴史』2006 中公新書 p.234>