ポーランドの民主化
社会主義体制が続いたポーランドにおいて、1989年に一気に高まった民主化運動は、複数政党制による自由選挙など民主化を実現し、この年の一連の東欧革命につながった。さらに隣接する東ドイツに大きな影響を与え、またソ連自体の変革をもたらすこととなった。
「連帯」とワレサの登場
1970年代のポーランド社会主義体制は、経済の停滞、言論の自由の剥奪などに対する不満が高まっていた。1980年7月の政府の抜き打ち的な食肉値上げなどを発表すると、グダニスクのレーニン造船所の労働者が抗議してストライキに突入し、労働者の代表ワレサが政府と交渉し、ポーランド統一労働者党の統制を受けない労働組合として独立自主管理労組の結成と、スト権、経済政策への発言権などを認めさせた。10月、全国の独立自主管理労組が結集して「連帯」(ソリダルノスチ)が結成され、ワレサが議長に就任した。政府側はこの大幅譲歩の責任をとって、ギエレク第一書記が辞任した。ヤルゼルスキ政権
しかし代わったヤルゼルスキ政権は、1981年12月に戒厳令を布いて「連帯」を非合法化し、ワレサらを逮捕して弾圧した。ヤルゼルスキ政権は民主化運動を押さえつけながら、一定の経済改革を上から推し進めたが、社会主義体制の中での改革はすすまず経済は悪化した。1988年2月には消費者物価平均36%のアップと、賃金一律引揚げをセットで行おうとしたが、4月以降各地の労働者が再びストに突入した。ヤルゼルスキはポーランド統一労働者党(共産党)の保守派を抑えて改革路線をとることに動き、「連帯」との円卓会議を約束した。このようなポーランドの改革の動きは、当時、社会的停滞が目立ってきたソ連にも少なからず影響を与えた。
1989年の民主化
円卓会議 1989年2月6日に、ヤルゼルスキ政権は円卓会議を招集してワレサなど連帯の代表や民主運動指導者も含めた円卓会議は、「政治的複数主義」と「労働組合の複数主義」を認めた。政治の面では大統領制、二院制議会、上院選挙での完全な自由選挙、複数政党制などが認められ、労働組合でも自主管理労組「連帯」を再合法化した。再合法化とは、「連帯」は1980年に結成されたが、81年のヤルゼルスキ政権の戒厳令施行によって弾圧され、事実上非公認とされ、活動家は地下に潜っていたからである。自由選挙の実現 4月に閉幕した円卓会議の合意に基づき、1989年6月、複数政党制による自由選挙が実施された。これは東欧社会主義圏では最初のことであり、東欧革命の民主化の中でも特筆されることである。選挙結果は政党としての「連帯」が圧勝したが、しばらく政権をめぐる駆け引きが続いた後、改革を主導した統一労働者党のヤルゼルスキが大統領となることで妥協が成立した。
脱社会主義 しかし、この年に高まった東欧革命のうねりの中で改革の歩みはさらに進み、9月には首相を連帯に属するカトリック系知識人マゾビエツキが務めるという連立政権が成立した。12月30日には憲法から、「党の指導性」条項を削除し、国名をポーランド人民共和国からポーランド共和国に変更、国旗も戦前のものに戻された。
1989年の東欧革命
1989年には東欧革命といわれる硬直した社会主義体制を倒して、民主化・自由化を実現する動きが相次いだ。それはハンガリーとこのポーランドに始まり、バルト三国、東ドイツ、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ルーマニアへと拡がっていった。1990年、連帯の分裂とワレサの大統領就任
ヤルゼルスキ大統領、マゾビエツキ首相という連立政権の成立によって出番を奪われた形となった「連帯」創設期の指導者ワレサは次第に政権の意欲を持つようになった。その背景には「連帯」内のワレサに近い労働者グループと、マゾビエツキに近い知識人グループの対立があった。ついに連帯は二派に分裂して、1990年11月の大統領選挙はワレサ、マゾビエツキがともに立候補、外に第三の候補もあって票が分散していずれも過半数をとれず、決選投票でワレサはようやく大統領に選出された。 → ポーランドの民主化と現代