江沢民
1990年代の中国の政治指導者。上海市長として実績を上げ、1989年の第2次天安門事件の後に総書記に抜擢された。鄧小平路線を継承し、社会主義市場経済を掲げ、急速な資本主義化・経済成長を実現した。1997年には香港返還をむかえ、中国を開発と大国化を優先させる国家へと変貌させた。2003年に総書記を退任したが、胡錦濤政権下でも影響力を保った。
上海市長から党総書記に
江沢民
社会主義市場経済の導入
江沢民は、1991年4月「中国のもっとも重要なことは経済を活性化し、総合国力を向上させることである。経済力がなければ国際的には地位を保てない」と力説し、再び経済開放路線を宣言した。1992年10月の共産党第14回全国大会では「社会主義市場経済」の積極的な導入が謳われ、指導体制としては江沢民総書記を核心とする、「第三世代指導集団」の形成が目指され、朱鎔基・胡錦涛ら若手が抜擢された。経済部門では1993から94年のバブル経済を中央マクロコントロールを強めて辣腕ぶりを発揮した副首相の朱鎔基の評価が急速に強まった。江沢民を中心としたポスト鄧小平体制が形成されるなか、1997年2月に鄧小平が死去すると、20世紀末から21世紀初頭の世紀の変わり目の中国共産党は江沢民の時代とさえいわれるようになった。そしてその時期に、階級政党であった中国共産党が中華民族を指導する国民政党へと転換をとげることとなった。この間、江沢民政権下で中国は1997年7月1日には香港返還、99年にはマカオ返還が実現して植民地時代の過去を払拭、さらに2001年には中国のWTO加盟を実現させ、世界経済のグローバル化に対応した高度工業社会化の基礎が形成された。そこには自らが技術者であった江沢民らテクノクラート(技術系官僚)が大きな役割を務めていたと考えられている。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによるまとめ>
中国共産党「三つの代表」論
2001年7月1日、中国共産党創立80周年記念講話において、江沢民は中国共産党の歴史的転換となる重要な演説を行った。それは、私営企業主、つまり資本家の共産党への入党を実質的に容認したものであった。その理論的根拠となったのは、2000年2月に江沢民自身の「重要思想」として提示した「三つの代表」論であり、それは共産党が「先進的生産力の発展、先進的文化の前進、最も広範な人民大衆の根本的利益」の三つを代表しなければならないという主張であった。その最大のポイントは、公有制の放棄と実質的な私有制への転換によって台頭した私営企業主を「広範な人民」に加えたことであり、それによって中国共産党は資本家を階級的な敵としてそれと闘う階級政党という本質を失い、中国国民の利益を代表する国民政党へと転換したことを意味している。階級政党から国民政党へ つまり中国共産党は社会主義政党ではなく、中華民族の偉大な復興を掲げた民族主義政党であり、政権独占の基盤を開発とナショナリズムに置く「開発独裁」政党としての性格を明確にしたのだった。この思い切った転換に対しては党内の抵抗も強かったが、江沢民政権は反対の声を抑え込み、2002年の第16回党大会で党規約を書き換え、中国共産党は「労働者階級の前衛であると同時に、中国人民と中華民族の前衛である」と規定された。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.136-137>
両岸関係と大国主義
香港、マカオに続き台湾の統合が具体的な視野に入ると、当初は台湾の経済成長を背景に「両岸関係」(中国と台湾の関係は国家間関係ではなく台湾海峡を挟んだ関係なのでこのようにいう)の緊張緩和が進みそうになったが、1995年に江沢民が「一つの中国」の原則を堅持する姿勢を示した(江八点)ことから再び緊張関係となり、翌1996年3月、台湾最初の総統直接選挙に李登輝が再任を目指して出馬すると、江沢民の中国当局は台湾近海でミサイル発射実験を行って軍事的圧力をかけた。江沢民の中国は、軍事力を背景とした大国主義的な姿勢が強くなったが、それは中国共産党が労働者の解放という階級闘争とそのためのインターナショナル(国際的)な連帯という路線から、偉大な中華民族の統一国家を作り上げるという民族主義(ナショナリズム)の路線に舵を切ったことと軌を一にしている。その傾向は台湾問題の緊張とともに、日本との関係の悪化をももたらした。日中関係の軋み
1998年11月25日、江沢民は中華人民共和国国家元首として初めて訪日した。かねてから江沢民は日本に侵略された中国を中国共産党が闘って勝利に導いたことを建国の原点を置く歴史教育の徹底を図ることで愛国心を強めようとしていた。そのように歴史問題を重視する江沢民は、90年代の日本が、歴史教科書で中国への侵略を「進出」と書き直したことや、首相が靖国神社(戦犯が合祀されている)へ参拝することことに強く反発していたので、小渕首相との会談でも歴史問題で多くの時間を割いて日本に迫った。日本側は1972年の日中共同声明で友好関係を樹立し、1992年の平成天皇の訪中の際に「(日中戦争は)深く悲しみとするところ」と発言したこと、1995年の村山首相の戦後50年にあたる談話(いわゆる村山談話)で「植民地支配と侵略に対する反省」を表明していることから、歴史問題は決着しているという立場をとった。結局首脳会談後の共同声明では、日本側は初めて「侵略」と明記したものの「責任を痛感し、深い反省を表明する」という表現に止まり、中国側の要求する「お詫び」という文言を入れることを拒否した。江沢民は11月26日の宮中晩餐会でも歴史問題に論及し日本軍国主義の侵略を「痛ましい歴史の教訓を永遠に酌み取らなければならない」とスピーチし、それがテレビ中継されたことで、過去の戦争にことさらに言及し、日中友好を悪い方向に向かわせている、と多くの人が反感を持つ結果となった。
2000年代に入っても日中間の関係悪化の傾向が続き、小泉首相が靖国神社参拝を繰り返したことに中国政府が反発、さらに2005年2~4月には東シナ海海底油田開発などに関する抗議行動が、日本の国連安保理常任理事国立候補の動きに対する反発にエスカレートし、中国各都市で反日暴動が起こった。このような江沢民の頃から顕在化した「歴史問題」に関わる国家間の軋(きし)みは、日本と韓国の間でも従軍慰安婦と徴用工の問題としておこっており、いまだに解決の糸口を得られないでいる。<服部龍二『ドキュメント歴史認識』2015 岩波新書 p.177-180>
退任後も影響力行使
江沢民は総書記・国家主席・中央軍事委員会主席という党・国家・軍の最高ポストを独占していたが、2003年に、総書記・国家主席の座を江沢民はその後も党大会の開幕式、閉幕式、2008年の北京オリンピック開会式にも胡錦濤の隣に座り続けてその存在感を示していたが、2012年の第18回党大会で総書記となった習近平が翌年、国家主席・中央軍事委員会主席に就任したことによって、胡錦濤は退任し、その立場が習近平の「新社長」のもとで「会長」的なものなったことで江沢民は「名誉会長」的な立場となったとの見方も出されていた。こうして習近平時代が始まると、江沢民の影は急速にうすくなり、2022年10月には習近平の異例の三期目突入が確実となったその翌月11月30日に96歳で死去した。<2022/12/3加筆>