印刷 | 通常画面に戻る |

香港返還

イギリスが1842年以来植民地にしていた香港を中国に返還することは、1984年に二国間で合意され、1997年7月に実現した。それによって主権は中国に移ったが、当面、一国二制度が認められ、資本主義体制が維持されている。

 中華人民共和国では1997年2月に、鄧小平が死去した。その年、1997年7月1日に、懸案の香港返還が実現した。
 香港は、アヘン戦争の後、1842年の南京条約によって、まず香港島が割譲され、さらに1860年の北京条約で隣接する九竜半島の一部が英国に奪われ、1898年には「新界」と言われる九竜半島の大部分が99年間租借地とされることとなった。

香港の発展

 イギリス植民地としての香港は、イギリスのアジア貿易の拠点としてだけでは無く、世界の中継貿易地として急速に経済を発展させた。第二次世界大戦中は日本軍が占領したが、戦後にイギリスの植民地支配が復活し、戦後も中国本土の共産党政権の成立にもかかわらず、貿易・金融で世界有数の都市となった。

香港返還に関する中英共同声明

 1898年に始まった「新界」の租借期限が切れる1997年が近づくにつれ、香港の返還が問題となってきた。文化大革命の混乱を収束させ、改革解放に舵を切った鄧小平政権と、1980年代のイギリスを主導したサッチャー政権との間の交渉が進み、東西冷戦の緊張緩和が進んだことも後押しとなって、1984年の中英共同声明によって1997年をもって香港の主権を中国に返還する約束が成立した。
香港全域の返還 この返還協定では99年年賦の対象となっている「新界」だけでなく香港全域の主権を返還するという事で合意され、その後、香港基本法の制定、英国総督に代わる特別行政区長官(初代董建華)の選出、臨時立法議会の組織化などによって返還の準備が進められた。その過程で香港の民主化をめぐり、中国当局とパッテン総督、香港住民との間で深刻な対立が起こったが、予定通り1997年江沢民政権もとで、香港島割譲以来150数年ぶりに中国に返還され、特別行政区とされることになった。
一国二制度 最も深刻な問題は、改革解放に向かっているとは言え、共産党一党独裁を堅持している中国と、イギリス植民地支配のもとで資本主義経済と議会制民主主義を確立させている香港とをどのように統合していくかと言うことであった。それについては、双方の大胆な妥協により、主権は中国に返還するものの、香港の経済や政治体制は50年間は変更させない、という一国二制度をとることとなった。それによって香港は主権は中国にある特別行政区とされ、従来通りの資本主義経済が維持され、政治も議会政治(香港立法議会)のもと、政党活動の自由と選挙制度が保障されることとなった。
 なお、ポルトガル領であったマカオでも返還の声が高まり、1999年マカオ返還が実現した。

香港返還に関する中英共同声明

 1984年の中英共同声明の主な内容は次のような点である。
  1. 返還後の香港は中華人民共和国香港特別行政区とすることとなった。
  2. 返還後の香港は一国家二体制を維持することとなった。
  3. 返還後の香港は,50年間は資本主義体制を保証することとなった。
  4. 中国の現行憲法では存在しないストライキ権が香港では保証されることとなった。
  5. 香港の最高責任者である香港特別行政区長官は選挙または協議によって選出され,中央人民政府が任命することになった。

香港返還関連の主な動き

 香港返還後の関連年表は次のようになるが、21世紀に入って、いわゆる香港民主化運動が頻発するようになり、一国二制度が揺らいできている。その背景には、香港返還後に生まれた世代が成長し、香港の未来に不安を抱きはじめていることがあるようだ。
1984年
中英共同声明調印。97年の返還が決まる。
1990年
中国全人代、香港基本法を採択。
1997年
7月1日 イギリス、香港を中国に返還。
2003年
香港政府、国家安全条例案を撤回。
2014年
6月 中国、香港に対する全面的統制権を明確化。
     
9月~12月 香港行政長官選挙の民主化を求め、学生市民が「雨傘運動」を展開。
2017年
香港返還20周年式典で、習近平「一国二制度」での「一国」重視を強調。
2019年
6月 逃亡犯条令改定案反対運動、200万人がデモ。
     
11月 香港区議選で民主派が8割以上を獲得。
2020年
6月30日 中国全人代常務委員会、香港国家安全維持法が可決成立。即日施行。