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ラビン

イスラエルの軍人出身の首相。第3次中東戦争を勝利に導いた後、労働党の政治家に転進、70~90年代に数回にわたり首相をつとめる。1993年、PLOとのオスロ合意を成立させ、中東和平に踏み切ったが、1995年にユダヤ教徒急進派に暗殺された。

 イツハク=ラビン(Rabin 1922-1995)はイスラエルの軍人出身で1970年代から政治家に転身した。もとはハガナー(1920年に結成されたユダヤ人地下軍事組織。ハガナーとは防衛を意味するヘブライ語。イスラエル独立後、国防軍に統合された)の司令官であったが、国防軍参謀総長を務め、1967年第3次中東戦争(六日戦争)を「片目のダヤン将軍」らとともに大きな勝利に導いた立役者であった。軍を退役してから労働党の政治家に転じ、68~73年と74~77年、92~95年の三度、首相を務めた。
 この間、パレスチナ・ゲリラによる航空機乗っ取りなどが続き、対応に追われた。1976年にはイスライエル人を人質としたエールフランス機の乗っ取り事件が起き、ウガンダのエンテベ空港に特殊部隊を突入させ、人質の解放に成功した。 → パレスチナ問題(1970年代)
 1980年代は国防相としてパレスチナ民衆のインティファーダを厳しく弾圧した。この時ラビンは「石を投げる者の手足を切れ」と強硬な弾圧を指令した。 → パレスチナ問題(1980年代)

パレスチナ暫定自治協定の成立

 その後和平路線に転じ、1993年にはノルウェー外相の仲介による和平交渉に応じてオスロ合意を成立させ、PLOのアラファト議長との間で、パレスチナ暫定自治協定を締結することに成功し、中東和平に大きな成果をもたらした。翌年PLOアラファト・外相のペレスともにノーベル平和賞を受賞した。

Episode タカからハトへの変身

 ラビンは首相としてPLOとの和平を実現し、ノーベル平和賞を受賞したのでハト派のイメージが強いが、もとは軍人で対パレスチナ強硬派だった。1948年のパレスチナ戦争ではパレスチナ人の村を襲い、難民を大量に出したときの指揮官であったし、第3次中東戦争ではダヤン将軍のもとで参謀長を務め電撃的勝利をもたらした。インティファーダを力で抑えつけようともした猛烈なタカ派だったが、労働党の政治家として首相になると、ペレス外相と協力して和平派に転じた。イスラエルの首相は常に対外的に強い姿勢を示した人物でないと、内部も抑えられないらしい。次のシャロン首相も軍人出身で対アラブ強硬派でならした人物であるが、そのような人物だからか、国内の反発を抑えてガザ地区の撤退を実現できたともいえる。しかしそのようなラビンも国内の強硬派によって暗殺されてしまったところにイスラエルの深刻な国情が感じられる。

ラビン首相暗殺

 イツハク=ラビンはしかし、1995年11月4日にユダヤ教徒の青年に射殺され、和平プロセスは大幅に遅れることとなった。テル・アヴィヴの広場で10万人による平和のためのラリーに参加し終わり、車に乗り込もうとしたところを至近距離から射殺された。犯人は狂信的なユダヤ教徒のイガル・アミールという青年であった。一部のユダヤ教の指導者(ラビ)の中には、ラビン首相のパレスチナとの和平政策をユダヤ教徒を迫害の危機にさらすものであり、裏切り者であるとして非難していたが、この青年はそれを盲信しユダヤの法にもとづいてラビンを処刑をしたのだという。イスラエルの歴史の中では首相暗殺は最初のことであった。 → パレスチナ問題(1990年代~現代)
 ラビンに代わる首相には、閣議で選ばれたシモン=ペレス外相兼副首相が代行となり、そのまま継承した。世論調査では和平交渉を継承すると表明したペレスが51%から74%に急上昇、野党リクードのネタニヤフの23%を大きく引き離した。、
(引用)イスラエル国民は深い悲しみに包まれた。暗殺現場であるテルアビブ市庁舎前の広場を、人々は「ラビン広場」と呼び始めた。遺体は5日昼過ぎエルサレムの国会前に安置され、レア夫人が見守る中、ワイツマン大統領、閣僚らが弔問し、市民の弔問が始まった。国中が喪に服し、劇場、映画館など娯楽施設は閉鎖され、軍や公共施設では半旗が掲げられた。別れを告げる人々の列は夜になっても絶えず、エルサレム行きの路線バスは深夜まで無料で運行された。当時人口約540万人のイスラエルで約120万人が弔問に訪れた。<船津靖『パレスチナ――聖地の紛争』2011 中公新書 p.97-98>
 ラビン暗殺は世界中にも衝撃を与えた。クリントン大統領はホワイトハウスで記者団にヘブライ語で「シャローム・ハベル」(さよなら、友よ)と呼びかけた。この言葉やイスラエル国民の心にも響き、多くの人が「シャローム・ハベル」と書いたステッカーを車の窓ガラスに貼った。だが、だれもがラビンの突然の死を悼んだわけではない。イスラーム主義組織ハマスの指導者は「神罰が下った。喜んでいる」と語り、イスラーム聖戦の指導者は「世界一のテロリストの死を悲しもうとは思わない」と述べた。レバノンではパレスチナ難民キャンプの若者が「ラビンが死んだ」と喝采し、銃を空にむけて撃ちまくった。アラブ諸国は、暗殺犯がハマスやPLO強硬派だとイスラエルの報復があると考え警戒し戒厳態勢に入ったが、ユダヤ教徒だと分かって警戒を解いた。
 国葬は11月6日からエルサレム西部ヘルツル山の国立墓地で行われ、約80カ国の首脳、国連事務総長など、約5千人が参列した。ヨルダンのフセイン国王は67年の中東戦争以来初めてイェルサレムを訪れ、エジプトのムバラク大統領も81年の就任以来初めてだった。アメリカは大統領、上下両院議長、閣僚の他、ブッシュ、カーターの前大統領、ベイカーとキッシンジャー元国務長官経験者も参列、最大級の弔意を示した。アラファト議長はどうしたか。参列は「右派を刺激する」という懸念から見送られが、9日夜、本人は密かにテルアビブのレア夫人宅を訪れ弔意を伝えた。アラファトを最も嫌っているイスラエル世論を押さえていたのがラビンだったから、その死はアラファトにとっても打撃だった。<船津靖『同上書』 p.97-100>
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船津靖
『パレスチナ――聖地の紛争』
2011 中公新書

ジャーナリストとして現地を見、激動のパレスチナの実景に迫る。