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インティファーダ(第1次)

1987年12月ごろから、パレスチナ人が自然発生的に投石などによってイスラエル占領地支配に抵抗して一斉に蜂起した(第1次)。自発的な民衆蜂起はパレスチナ自治への動きの起爆剤となった。このとき、この運動の中で、パレスチナ解放を目指すイスラーム組織ハマスが創設された。

 1987年12月頃から、イスラエル占領下のパレスチナ人が展開した、投石などを主体とした民衆の抵抗によるパレスチナ解放運動。パレスチナ問題に新たな展開をもたらすこととなった。 → インティファーダ(第2次)
インティファーダとは 「一斉蜂起」を意味するアラビア語。インティファーダは1982年にPLOがイスラエルに押さえ込まれて、アラファトがチュニスに移った後に、ガザ地区のパレスチナ民衆の中から自然発生的に始まった。パレスチナ人は大人も子供も女性も石を投げたりタイヤを燃やしたりしてイスラエル軍に立ち向かい、最初の一年で2万人が逮捕され、3百人が死亡した。このような従来と違った民衆運動にイスラエル当局も当惑したが、その背景には「ハマス」や「ジハード」と称するイスラーム原理主義運動の活動家がいた。
インティファーダのきっかけ ガザ地区最大の難民キャンプ、ジャバリヤで1987年12月6日、ユダヤ人入植者がパレスチナ人の「イスラム戦線」に刺殺された。2日後、イスラエルのトラックが道路をそれてパレスチナ人労働者の車に衝突し、4人が死亡した。事故は入植者の親族による報復だとのうわさが広がり、争議の後、キャンプを包囲するイスラエル軍に「ジハード(聖戦)!」の叫びともに投石が始まった。インティファーダはPLOとイスラーム主義組織の合同指令の下でヨルダン川西岸にも拡大し、大規模な住民蜂起に発展した。<船津靖『パレスチナ――聖地の戦争』2011 中公新書 p.62>

インディファーダの意義

 この1987年の第1次インティファーダは、それまでの中東戦争と全く様相を異にして、国家間の戦争という形態ではなく、また70年代のようなハイジャックなどのゲリラ戦術でもなく、民衆が「石を投げる」という単純な戦法で闘うという「民衆蜂起」であった。これはひたすら近代的な軍備の増強で国力を高めることでパレスチナを制圧しようとしてきたイスラエルの政府・軍首脳の想定を超える事態だった。また、世界の世論も民衆蜂起には同情的で、パレスチナ自治を認めさせる上で大きな力となっていった。最も大きな変化は、このような民衆蜂起の高まりを受け、PLOのアラファト自身がパレスチナ国家樹立の現実的可能性を探らざるを得なくなり、1988年にはイスラエルの存在を認めて交渉に入る余地があることを表明、初めて二国併存へと舵を切ることとなる。

Episode 「石を投げる者の手足を折れ」

 これはパレスチナ人のインディファーダに手を焼いた時のイスラエル国防相ラビン(後の首相)の有名な発言。ラビンは対イスラエル強硬派で、パレスチナの民衆反乱を徹底的に弾圧した。その彼が後に中東和平の立役者となり、ノーベル平和賞を受賞するのだから皮肉なものである。結局彼自身が和平反対派によって暗殺されてしまう。<広河隆一『パレスチナ(新版)』2002 岩波新書 p.103>
 このラビンの発言については、「国防相ラビンは将校への演説で、実力行使は慎重にと述べ、火炎瓶への対応は銃による殺傷より棍棒による骨折の方がまだ望ましい、と語っている。「骨を折れ」という部分に焦点を当てて報道された、占領軍の残酷な弾圧を象徴する言葉として有名になった」という同情的な記事もある。<船津靖『前掲書』 p.63>

ハマスの創設

 インティファーダと同時に、ガザでイスラーム主義組織ハマスが誕生した。12月9日、車椅子の聖職者アハマド・ヤシン師の自宅で創立会議が開かれた。ハマスはアラビア語で「イスラーム抵抗運動」の頭文字を並べたもの。ヤシン師はイスラーム復興を目指すエジプトのムスリム同胞団の強い影響を受け70年代から活動をしており、その当時はイスラエルはアラファトの勢力を抑えるためにヤシン師を利用しようとして支援していた。しかし、インティファーダが始まる2ヶ月前、「占領と入植への抵抗組織をつくる」と同志に告げ、イスラエルと内通するスパイの殺害や麻薬密売人、売春婦の拘束などを方針に掲げ、活動を開始、インティファーダにも幹部が関わった。89年5月、ヤシン師は武器密輸を理由に逮捕され、終身刑を言い渡されたが、殉教者として支持を受けるようになり、ハマスはPLO内のアラファトの権力基盤ファタハと勢力を争うようになった。<船津靖『前掲書』 p.63-64>

その後の中東和平の動き

 その後は、1988年にイラン・イラク戦争の停戦後、イラクの動きが中東問題の焦点となり、1990年にフセイン大統領がクウェート侵攻に踏み切ったことから、翌年湾岸戦争が勃発、さらに平行して1989年の東欧革命から一気に冷戦の終結へと進み、国際情勢が大きく変化した。
 1991年10月のアメリカ主導によるマドリードでの中東和平会議は、アメリカ・イスラエルがPLOを交渉相手から排除したため失敗、その後初めてイスラエルとPLOが直接交渉に入り、1993年のオスロ合意の締結へと向かっていく。第一次インティファーダはパレスチナにおける和平への動きの第一歩だった。

インティファーダ(第2次)

2000年9月、イスラエルのリクード党党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教神殿に立ち入ったことからパレスチナ人が反発し、一斉に反イスラエルの民衆蜂起が起こった。オスロ語彙に基づく二国共存の和平路線は暗礁に乗り上げ、21世紀の新たな対立へと向かうことになった。

 2000年9月28日イスラエルの野党リクードの党首、軍人出身で、第4次中東戦争やイスラエルのレバノン侵攻の立役者だったシャロンは護衛の警官1000人とともにイェルサレムの「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」(ユダヤ教では「神殿の丘」と言われるところ)に登った。ここにはアルアクサ・モスクと岩のドームがあり、イスラーム教徒にとっては聖地とされていた。多くの反対の声を無視した、明らかな挑発行為だった。

第2次インティファーダの高揚

 これまでもイスラエルの右翼過激派によるアルアクサ・モスク放火事件や、爆破未遂事件などが起こっており、極右勢力は、イスラームの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していたという経緯があるため、パレスチナ側は警戒心を強めていたのである。首相バラクはこのシャロンの行動を阻止しなかった。翌29日に二万人のイスラーム教徒が抗議行動を開始し、「嘆きの壁」に祈祷に来ていたユダヤ教徒に投石した。この民衆蜂起は「第二次インティファーダ」あるいは「アルアクサ・インティファーダ」と呼ばれる。10月1日までに死者は30人以上に上った。・・・<広河隆一『パレスチナ』新版 2002 岩波新書 p.171>
 この運動を指導したハマス(非PLOでイスラーム原理主義を掲げる組織)が民衆の支持を得て、2006年1月には選挙で圧勝、パレスチナ自治政府の政権の座に就いた。インディファーダは、アラブ世界の反イスラエル闘争の中心勢力がPLOからハマスに移っていく契機となった。
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書籍案内

広河隆一
『パレスチナ(新版)』
2005 岩波新書

船津靖
『パレスチナ――聖地の紛争』
2011 中公新書

ジャーナリストとして現地を見、激動のパレスチナの実景に迫る。

DVD案内

古居みずえ監督
『ガーダ パレスチナの詩』
2007 日本映画

ガザで暮らす女性ガーダを通して描く現実。迫真のインティファーダの映像も含まれているドキュメンタリー。