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第3次中東戦争/六日間戦争(六日戦争)

1967年6月、イスラエル軍がエジプトなどに侵攻、わずか6日間の戦争でイスラエルが圧倒的勝利を収め、シナイ半島、ガザ地区、ゴラン高原などを占領した。勝利したイスラエルは占領地をパレスチナで拡大して軍事大国化し、敗北したエジプト・ナセルの中東での指導力が衰えることとなった。

 第二次世界大戦後の中東での、アラブ諸国とイスラエルの間でパレスチナをめぐって展開された、4次にわたる中東戦争の中での三番目の戦争として1967年6月5日に起こった。イスラエル側の奇襲作戦が成功して勝利を収め、周辺にその支配領域を拡大したため、さらに大量のパレスチナ難民が生まれることとなった。敗れたアラブ諸国側では、当時その指導者であったエジプトのナセル大統領の権威が失われ、混迷していくこととなった。 → 中東問題(パレスチナ問題)

第2次中東戦争後の情勢

 1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したことから始まった第2次中東戦争(スエズ戦争)では、イスラエルはイギリスなどと共に出兵し、戦争では勝利したが、国際世論では米ソを初めとして厳しい非難を受けて撤退し、ナセルはアラブ世界を率いる英雄として脚光を浴びることとなった。イスラエルは建国以来、最初の窮地に立たされることとなった。情勢打開を狙ったイスラエルは、エジプトおよびアラブに対する攻勢を機会を狙っていた。
 一方、1950年代からイスラエルの北部に接するシリアは、ヨルダン川の水利用をめぐってイスラエルに対する不満を強めるようになった。また1960年代から、パレスチナ難民の中にイスラエルと戦いパレスチナの解放を目指す動きが強まり、1964年5月パレスチナ解放機構(PLO)が組織され、その中で最も過激な武装闘争を主張するアラファトに率いられたファタハなどが台頭し反イスラエルのゲリラ活動を頻発させるようになった。
 1967年4月にシリアとイスラエルの国境で両軍が衝突の恐れが高まると、ナセルはエジプト軍をシナイ半島に集結させ、5月22日にアカバ湾の入り口のティラン海峡を封鎖した。ティラン海峡封鎖はイスラエルにとって死活問題であるので態度を硬化させた。ただ当時はベトナム戦争の最中でありイスラエルを支援する余力の無いアメリカのジョンソン政権はイスラエルに自重を要請、戦争は回避されるかに見えた。

イスラエルの奇襲成功

 1967年6月5日イスラエル軍はエジプト軍によるアカバ湾の封鎖に対する反撃を口実として、エジプトに一気に侵攻、空軍がエジプト空軍基地を爆撃し、わずか3時間で破壊した。エジプト空軍の反撃を無力化した上で、イスラエル陸軍はシナイ半島ガザ地区を制圧し、スエズ運河地帯まで進撃した。北方ではシリア領ゴラン高原と、ヨルダン領ヨルダン川西岸地域と東イェルサレムを占領し、全イェルサレムを実効支配した。

六日間戦争(六日戦争)

 6月10日、イスラエルとエジプトは国際連合の停戦決議を受諾し、停戦に合意した。戦闘はわずか6日間で、イスラエルの圧倒的な勝利となった。イスラエル側は「六日間戦争」とも言っている(アラブ側では6月戦争という)。
 イスラエル軍の電撃作戦を指揮したのは隻眼のダヤン将軍であった。戦死者はアラブ側が3万人であったのに対し、イスラエルは670人にとどまり、イスラエルは領土を4倍近くに増やした。また首都としてきたイェルサレムの旧市街を含む東イェルサレムはヨルダンが支配していたが、イスラエル軍が占領し、これで東西併せた全市を支配した。なお、国際連合および国際社会はイェルサレムをイスラエルの首都とは認めていない。
 またこの戦争によってパレスチナ難民が100万人以上発生、そのほとんどがヨルダンに避難した。国連は安保理決議242でイスラエルの撤退を決議したが、実行されなかった。エジプトのナセル大統領は敗戦の責任をとって辞任を決意したが、国民の辞任反対の声が強く、辞意を撤回した。 → 第4次中東戦争 
イスラエル軍のイェルサレム占領 第3次中東戦争で、イェルサレムの神殿の丘がイスラエル軍の手に落ちた。神殿の丘は、ハラム=アッシャリーフ(高貴な聖域)といわれ、1187年にサラディンに率いられたイスラーム教徒軍が十字軍から奪回した場所だった。以来780年もの間、イスラーム教徒の手にあったこの丘が、イスラエル軍、つまりユダヤ人の手に落ちたのだ。イスラーム教徒の落胆と怒りは激しかった。<藤原和彦『イスラム過激原理主義 なぜテロに走るのか』2001 中公新書 p.92>

世界史の転換点となった第三次中東戦争

 臼杵陽氏の『世界史の中のパレスチナ問題』では、第三次中東戦争の説明を『世界史用語集』(山川出版2008年版p.323)を引用した上で、次のように述べている。
(引用)わざわざ受験生が使う世界史用語集のような定義から(説明を)始めたのは、それだけこの戦争が世界史を理解する上で重要であり、世界史的な転機になっているからです。この戦争を機会に、アラブ・イスラエル紛争の変質が始まり、パレスチナ問題のあり方が現在直面している政治的状況に直接的につながることになります。イスラエルはこの戦争の大勝利によって名実ともども中東の軍事大国であることを証明することになるのです。その後の「中東和平」と呼ばれrようになるイスラエルとアラブ諸国との間の和平交渉も、この戦争前の「原状」への復帰を目標としています。第三次中東戦争が現在に至るまでの和平交渉の出発点とみなされているのです。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.278>
国連安保理決議決議242号 第三次中東戦争が終結した後、1967年11月22日、国連安保理は全会一致(賛成15、反対・棄権0。非常任理事国であった日本も含む)で決議242号を採択、中東戦争を終わらせた後の安全保障原則として次の5項目をかかげた。
①占領地からのイスラエル軍の撤退、②安全と承認された国境の下で脅威や力の行使から自由で平和に生きる権利、③航行の自由、④難民問題の公正な解決、⑤非武装地帯の設置
 それに対し、イスラエルは1968年5月1日、決議を受諾することを表明した。
 この決議のポイントはイスラエルが戦争で占領したアラブ諸国(エジプト、レバノン、シリア、ヨルダン)の領土から撤退して返還すれば、その見返りとしてアラブ諸国もイスラエルという国家の生存権を承認する、というもので、その原則は「領土と平和の交換」といわれた。<臼杵『前掲書』 p.280>
中東問題の変質 この安保理決議を受け入れて戦争を終結させたイスラエルであったが、シナイ半島・ヨルダン川西岸・ゴラン高原の占領地は容易に返還されなかった。イスラエルの言い分は、安保理決議242号の英文原文では「すべての占領地」とは書いていないから、一部の占領地からは撤退しない、というものだった。その後、第4次中東戦争後に、シナイ半島・ヨルダン川西岸は返還したが、ゴラン高原は依然として占領を続け、ヨルダン川西岸にはイスラエル人の入植を進めている。また焦点となっているイェルサレム東部でもたびたびアラブ側の精神的な拠点となっているモスクへの侵入などを繰り返している。
 国連の安保理決議にもかかわらず、占領地からの完全撤退を拒否し続けている事に対し、パレスチナ人は強い反イスラエル感情を持ち続けることとなり、PLOに代表されるゲリラ組織が活動するようになる。第三次中東戦争後は、中東戦争の対立軸はイスラエル対アラブ諸国からイスラエル対パレスチナ(ゲリラ)へと転換した。
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書籍案内

臼杵陽
『世界史の中のパレスチナ問題』
2013 講談社現代新書

古代から現代までをカバーしてパレスチナ問題の歴史的経緯を詳細に解説。新書版にしては大部だが便利。