オスロ合意
1993年、ノルウェーの仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意し、パレスチナ暫定自治協定が成立した。翌年にパレスチナ自治政府も発足し、中東戦争以降のパレスチナ問題が二国家共存の原則で解決に向かうと期待された。しかし、交渉は進展せず、双方の内部に反対勢力が台頭し、90年代後半から衝突が激しくなり、事態は悪化することとなった。
ノルウェーの外相の仲介でイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との和平に関する交渉がオスロで進められ、1993年9月初めに合意に達した。この合意によって、1948年のイスラエル建国以来、4度にわたる中東戦争(第1次)となり、テロと報復の繰り返しによって多くの犠牲者をだしてきたパレスチナ問題(中東問題)は、解決の方向に動き出した。合意は同年9月13日、アメリカのクリントン大統領が立ち会い、ワシントンでイスラエルのラビン首相、パレスチナのアラファトPLO議長が握手し、パレスチナ暫定自治に関する原則宣言に調印、オスロ合意として確定した。間違えてはいけないことは、これで問題が解決したわけではなく、初めて相手を認めて交渉を開始することに合意したと言うことであり、交渉の期間として5年間の暫定自治が決まったことである。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.313-324 などにより構成>
交渉は1993年春ごろからオスロ近郊で秘密裏に進められ、ノルウェー外相ホルストなどを仲介役としてイスラエルのペレス外相、PLOの事務局長アッバス(アラファトの腹心で後のその後継者となる)との間で始まり、8月20日には合意に達した。9月9日、「オスロ合意」として発表された要旨は、両者がはじめて相互に相手を承認し、イスラエルは占領地から撤退しパレスチナ人が自治政府を造ることを認めた上で、和平交渉に入ることに合資した、という画期的なものであった。
アメリカはこの交渉には一切関与していなかったが、前年11月の選挙で当選して1993年初めに就任したクリントン大統領の仲介という形をとり、最終的な合意を国際的に明示することとなった。
1993年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、クリントン大統領が間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が握手し、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」に調印した。一般に、この宣言をオスロでの秘密交渉の結果生まれたものであるので、「オスロ合意」(オスロ第1合意、オスロⅠ)といっている。
オスロ合意の意義 オスロ合意はまず、おたがいに相手の存在を認めたことに意義があった。イスラエルの公式な立場は、パレスチナ人という民族は存在しない(アラブ人の一部にすぎない)、したがってパレスチナ国家も存在しない(交渉相手は既存のアラブ国家だけだ)と言い、PLOはテロリスト組織にすぎないとしていた。一方、PLOはパレスチナにはユダヤ人が入り込む余地はない、勝手に造られたイスラエルはパレスチナから出て行くべきである、というものであったから、同じテーブルについて交渉することはあり得ないことであった。イスラエルの建国以来、45年間、互いに相手を認めることなく、その排除を目標としていた両者が、互いに相手の存在を認めたことが、最大の変化であった。
合意への期待感 オスロ合意の成立は世界中に中東問題が解決に向かって進むであろうという期待を抱かせた。日本ではあたかも合意が解決そのものと勘違いして、中東問題はケリが付いたという空気が流れ、冷戦終結後、世界各地で新たな地域紛争が生じたこともあって、パレスチナへの関心が薄れたかの傾向があった。しかし、それが全くの誤解であったことが、2001年の9.11で中東問題が未解決の問題として世界の底流にあることが明らかになった。
積み残された問題 オスロ合意で、パレスチナの自治が曲がりなりにも始まったが、積み残された重大な問題があった。それは次の三点であった。合意成立から3年の間に交渉することになっていたが、これらは最終地位交渉といわれ、先送りされた。
自治拡大と三段階区分 ガザとエリコの先行自治が開始され、次はどのように自治を拡大して行くかについての交渉が行われ、1995年9月28日に「パレスチナ自治拡大協定」(オスロ第二合意、オスロⅡ)が締結された。オスロⅡでは、次のような重要な合意がなされた。
パレスチナ側では「オスロⅡ」によって自治が実質的に開始されることとなったことをうけ、1996年1月20日、議会議員と議長の選挙が実施され、自治政府代表にアラファトが選出され、議会は約七割をファタハが占めてアラファト=ファタハ主導で自治政府が動き出した。
交渉の遅延と自爆テロ 合意した3年のあいだに具体的交渉を行うという規定は守られず、イスラエルでは1996年5月の初めての首相公選でリクードのネタニヤフが当選、パレスチナ和平交渉の進展が危惧されるようになった。事実、ネタニヤフ政権はユダヤ人のパレスチナへの入植を増大させ、各区地でパレスチナ人との衝突事件がつづいた。背景にはソ連崩壊後、旧ソ連からユダヤ系の人々への移住が増えたことがあげられる。
パレスチナ側では、PLO主流派ファタハの和平路線に反対するイスラーム主義組織ハマスが1996年頃からイスラエルに対するテロを活発にしていった。しかもそれは自爆テロという手段をとるようになり、イスラエル人はさらに恐怖心を募らせていった。ハマスの狙いは、オスロ合意はユダヤ人のシオニズムと妥協することで敗北を意味することを白日にさらすためだ、という言い分で、凄惨な自爆テロを繰り返した。
こうしてオスロ合意の暫定自治期間の5年は終わり、最終的話し合い(最終地位協定といわれた)が行われないまま、イスラエルの事実上の軍事占領下でのパレスチナ人の不確かな自治、という状況が続くこととなった。
1997年1月、イスラエルはようやく懸案のヘブロンからのイスラエル軍の撤退に合意(ヘブロン合意)したものの、翌98年10月にイスラエル軍追加撤退に合意(ワイ・リバー覚書)は閣議の了承が得られず、前倒しで首相公選となり、99年5月に和平交渉再開を公約とした労働党のバラクが選出された。バラク首相はオスロ合意締結六周年を契機として和平交渉を再開すること目指した。
キャンプ・デーヴィッド会談の決裂 2000年7月、再びクリントン大統領の仲介でイスラエルのバラク首相とPLOアラファト議長がワシントン郊外のキャンプ・デーヴィッド首脳会談に臨んだ。結論から言うと、この二人は妥協するという勇気を持たなかったため、決裂し、中東和平の最後のチャンスは失われた。
交渉の詳細は明らかになっていないが、決裂の原因は、イェルサレム問題とパレスチナ難民帰還問題だったという。アメリカとイスラエル側の情報では、バラク首相が大幅な譲歩をしたにもかかわらず、アラファトが受け入れなかったからと言われているが、アラファト側には受け入れがたい内容であったことも想像できる。パレスチナ難民はヨルダン川西岸とガザ地区だけでなく、中東各地に離散しており、彼らがイスラエル支配地域に帰還することは、イスラエル人の民族国家を目指すイスラエルにとっては許容しがたいところである。またパレスチナ難民の解放を掲げるPLOはその目的を外すわけにはいかないが、パレスチナ自治政府を代表することとなった現在ではパレスチナ以外に離散しているパレスチナ人をどうするのか、難しい問題である。
秘密交渉開始の背景
湾岸戦争後の1991年に米ソが共同議長国となって始まったマドリードでの中東和平会議は、PLOを参加させない形であったため、パレスチナ問題では具体的な進展がないまま終わり、その後のワシントンを舞台とした交渉も進展なかった。アメリカ主導による和平仲介が暗礁に乗り上げる一方、1991年12月にソ連が解体し、国際的後ろ盾がなくなったPLOは、外交交渉での事態打開の必要に迫られた。一方のイスラエルでもリクード党内閣(シャミル首相、シャロン国防相)の対パレスチナ強硬政策が行き詰まり、1992年の総選挙で25年ぶりに労働党が政権を奪取し、ラビンが首相となる、という変化が起きた。ラビン首相は、はかねて親交のあったノルウェーのホルスト外相に仲介を求め、首都オスロでPLOとの秘密交渉を開始することに踏み切った。オスロでの交渉
パレスチナ暫定自治協定締結
左からラビンイスラエル首相、クリントン大統領、アラファトPLO議長
アメリカはこの交渉には一切関与していなかったが、前年11月の選挙で当選して1993年初めに就任したクリントン大統領の仲介という形をとり、最終的な合意を国際的に明示することとなった。
1993年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、クリントン大統領が間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が握手し、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」に調印した。一般に、この宣言をオスロでの秘密交渉の結果生まれたものであるので、「オスロ合意」(オスロ第1合意、オスロⅠ)といっている。
オスロ合意の内容と意義
合意内容は次の二点であった。- PLOはイスラエルを国家として認め、イスラエルはPLOをパレスチナを代表する自治政府として認める。
- イスラエルは占領した地域から暫時撤退し、5年間にわたりパレスチナの自治を認める。暫定自治開始3年目までに最終交渉に入り、5年後には暫定自治を終了する。
オスロ合意の意義 オスロ合意はまず、おたがいに相手の存在を認めたことに意義があった。イスラエルの公式な立場は、パレスチナ人という民族は存在しない(アラブ人の一部にすぎない)、したがってパレスチナ国家も存在しない(交渉相手は既存のアラブ国家だけだ)と言い、PLOはテロリスト組織にすぎないとしていた。一方、PLOはパレスチナにはユダヤ人が入り込む余地はない、勝手に造られたイスラエルはパレスチナから出て行くべきである、というものであったから、同じテーブルについて交渉することはあり得ないことであった。イスラエルの建国以来、45年間、互いに相手を認めることなく、その排除を目標としていた両者が、互いに相手の存在を認めたことが、最大の変化であった。
合意への期待感 オスロ合意の成立は世界中に中東問題が解決に向かって進むであろうという期待を抱かせた。日本ではあたかも合意が解決そのものと勘違いして、中東問題はケリが付いたという空気が流れ、冷戦終結後、世界各地で新たな地域紛争が生じたこともあって、パレスチナへの関心が薄れたかの傾向があった。しかし、それが全くの誤解であったことが、2001年の9.11で中東問題が未解決の問題として世界の底流にあることが明らかになった。
合意の困難さ
オスロ合意にはそもそも、イスラエル・パレスチナの双方に、根強い反対があった。それぞれの最も尖鋭な反対勢力には、イスラエルでは「大イスラエル主義」を掲げるシオニストの過激派・ユダヤ教原理主義者とそれに近いリクードに代表される右派政党があり、ラビン労働党政権には敵対していた。パレスチナ・PLO側にはアラファトの属する主流派のファタハは世俗主義に立っていたが、イスラーム原理主義を信奉するハマスやイスラーム聖戦などのイスラーム主義勢力があり、ファタハ主導の和平路線はアラブの大義に反するとして反発していた。なによりもその頃アラファトはパレスチナを追われ、チュニスにいたので、ガザとヨルダン川西岸の現地にとどまっていたパレスチナ人の間には微妙な隙間があったという。現地のパレスチナ人は、オスロ合意はチュニスのPLO幹部が勝手に進めたことだ、という思いがあったようだ。積み残された問題 オスロ合意で、パレスチナの自治が曲がりなりにも始まったが、積み残された重大な問題があった。それは次の三点であった。合意成立から3年の間に交渉することになっていたが、これらは最終地位交渉といわれ、先送りされた。
- イェルサレムの帰属:イスラエル、パレスチナいずれも首都はイェルサレムと主張している。特に東イェルサレムはユダヤ教、イスラーム教、さらにキリスト教にとっても聖地であり、いずれに属することにするかが難問。
- パレスチナ難民の帰還権:中東戦争で発生したパレスチナ人の難民の故郷であるイスラエルの地に戻ることを認めるかどうか。イスラエルはどうしても認めたくない。
- ユダヤ人の入植地:ヨルダン川西岸、ガザ地区に入植しているユダヤ人をどうするか。パレスチナは入植を認めず撤退を要求。イスラエルは入植者が国内に戻ってくる余地はないと考えている。
オスロ第二合意(オスロⅡ)
オスロ合意に基づくパレスチナ暫定自治は、1994年5月4日に締結された「カイロ協定」で、ガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで先行実施されることになった。この「ガザ・エリコ先行自治協定」にもとづいて、5月11日にパレスチナ警察の第一陣がパレスチナに入り、さらに7月1日にはアラファトPLO議長がまずガザに入り、パレスチナ帰還を実現させた。自治拡大と三段階区分 ガザとエリコの先行自治が開始され、次はどのように自治を拡大して行くかについての交渉が行われ、1995年9月28日に「パレスチナ自治拡大協定」(オスロ第二合意、オスロⅡ)が締結された。オスロⅡでは、次のような重要な合意がなされた。
- 自治区を拡大(ヨルダン川西岸のジェニーン、ナーブルス、トゥールカルム、カルキーリヤ、ラーマッラー、ベツレヘムと450の町村)する。ただし、ヘブロンはムスリムとユダヤ教徒が共通の聖地としているため自治の対象から除外された。
- 自治政府の議会とパレスチナ統治機構議長(大統領にあたる)を選出することなった。
- 安全保障に関してはイスラエル軍がパレスチナ人自治区とユダヤ人入植者双方の安全を担っている、としてヨルダン川西岸を次の三地域に分類した。
- A地域:自治政府が治安及び民政に関して責任を負う地域。
- B地域:自治政府が民政に関して責任を負うが、治安に関してはイスラエル軍が管轄する。
- C地域:民政・治安ともイスラエル軍が責任を負う地域。
パレスチナ側では「オスロⅡ」によって自治が実質的に開始されることとなったことをうけ、1996年1月20日、議会議員と議長の選挙が実施され、自治政府代表にアラファトが選出され、議会は約七割をファタハが占めてアラファト=ファタハ主導で自治政府が動き出した。
交渉の遅延と自爆テロ 合意した3年のあいだに具体的交渉を行うという規定は守られず、イスラエルでは1996年5月の初めての首相公選でリクードのネタニヤフが当選、パレスチナ和平交渉の進展が危惧されるようになった。事実、ネタニヤフ政権はユダヤ人のパレスチナへの入植を増大させ、各区地でパレスチナ人との衝突事件がつづいた。背景にはソ連崩壊後、旧ソ連からユダヤ系の人々への移住が増えたことがあげられる。
パレスチナ側では、PLO主流派ファタハの和平路線に反対するイスラーム主義組織ハマスが1996年頃からイスラエルに対するテロを活発にしていった。しかもそれは自爆テロという手段をとるようになり、イスラエル人はさらに恐怖心を募らせていった。ハマスの狙いは、オスロ合意はユダヤ人のシオニズムと妥協することで敗北を意味することを白日にさらすためだ、という言い分で、凄惨な自爆テロを繰り返した。
こうしてオスロ合意の暫定自治期間の5年は終わり、最終的話し合い(最終地位協定といわれた)が行われないまま、イスラエルの事実上の軍事占領下でのパレスチナ人の不確かな自治、という状況が続くこととなった。
1997年1月、イスラエルはようやく懸案のヘブロンからのイスラエル軍の撤退に合意(ヘブロン合意)したものの、翌98年10月にイスラエル軍追加撤退に合意(ワイ・リバー覚書)は閣議の了承が得られず、前倒しで首相公選となり、99年5月に和平交渉再開を公約とした労働党のバラクが選出された。バラク首相はオスロ合意締結六周年を契機として和平交渉を再開すること目指した。
オスロ合意の決裂
最終的地位交渉 イスラエルとパレスチナの交渉で残された難問は、イェルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権、ユダヤ人の入植地の三点であり、それが解決されたあとの最終的な国境画定であった。オスロ合意(原則宣言)で定めらた5年間の暫定自治期間は終わったが、そのままなし崩し的に延長となり、ようやく「最終的地位交渉」が行われることとなった。最終的地位交渉とは、困難な問題は後回しにしよう、ということであり、互いに合意できなければ次の交渉はないことを前提に、いずれもが大きな妥協を覚悟して交渉に臨むことが必要だった。キャンプ・デーヴィッド会談の決裂 2000年7月、再びクリントン大統領の仲介でイスラエルのバラク首相とPLOアラファト議長がワシントン郊外のキャンプ・デーヴィッド首脳会談に臨んだ。結論から言うと、この二人は妥協するという勇気を持たなかったため、決裂し、中東和平の最後のチャンスは失われた。
交渉の詳細は明らかになっていないが、決裂の原因は、イェルサレム問題とパレスチナ難民帰還問題だったという。アメリカとイスラエル側の情報では、バラク首相が大幅な譲歩をしたにもかかわらず、アラファトが受け入れなかったからと言われているが、アラファト側には受け入れがたい内容であったことも想像できる。パレスチナ難民はヨルダン川西岸とガザ地区だけでなく、中東各地に離散しており、彼らがイスラエル支配地域に帰還することは、イスラエル人の民族国家を目指すイスラエルにとっては許容しがたいところである。またパレスチナ難民の解放を掲げるPLOはその目的を外すわけにはいかないが、パレスチナ自治政府を代表することとなった現在ではパレスチナ以外に離散しているパレスチナ人をどうするのか、難しい問題である。
第二次インティファーダへ
2000年のキャンプデーヴィッド会議の決裂は、オスロ合意の破綻を意味しており、それが明確な形で表面化したのが2000年9月28日にイスラエル右派のリクードの党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教徒が管理する「神殿の丘」(ハラーム=アッ=シャリーフ)に立ち入ったことに対して、パレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こったことである。また湾岸戦争、イラク戦争と続いた中東情勢の底流にパレスチナでのアラブとイスラエルの対立があることは、翌2001年9月の同時多発テロとなって現れ、全く新たなステージへと問題を転換させた。 → パレスチナ問題/中東問題(2000年代~)参考 オスロ合意の問題点
以上の経緯から、オスロ合意そのものの問題点はどこにあったか、次のような指摘がある。- 最終的地位交渉といった難問の解決を先送りにした。
- 自治区の拡大はイスラエルの恣意のままで、自治区の領域が拡大しなかったことがパレスチナ人の不満につながった。
- そもそもイスラエルという国家主体(=強者)とPLOという非国家主体(=弱者)という非対称的な当事者の交渉で、弱者にしわ寄せがきた。
- 一番深刻な問題は、オスロ合意後もヨルダン川西岸でのユダヤ人入植地の建設は少しも止まらなかったことである。