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マレーシア(マレーシア連邦)

1963年、マレー半島のマラヤ連邦とシンガポールに加え、北ボルネオ、サラワクを含む国家となる。インドネシアが反発し、国交断絶となる。また国内の民族対立から、1965年にはシンガポールが分離した。その後もマレー人と華人の民族対立が続いたが、1970年代からマレー人優遇策(ブミプトラ)に踏みきり、80年代以降はマハティール首相の主導するルック・イースト政策で工業化を遂げることに成功した。

マレーシア GoogleMap

 1963年9月、マレー半島マラヤ連邦シンガポールボルネオの二州(サラワクとサバ)で構成することとなった新たな連邦国家。いずれも旧イギリス領であったところ。マレーシアはイギリス連邦には加盟した。
 正式な国号は単にマレーシア Malaysia であるが、一般にマレーシア連邦と言われることも多い。現在は13州からなる連合国家で、国王をいただく立憲君主政国家であるが、国王は、9州の土着的なスルタン(君主)の中から選挙で選出される(実質的には輪番になっている)。それぞれの君主は世襲であるが、国王は任期(5年)で交代するという世界的に珍しい体制をとっている。
注意 「連邦」ではない 山川出版社の詳説世界史や用語集では、従来「マレーシア連邦」としていたが、現行版から「マレーシア」となった。たしかに英語表記を訳せばそのままマレーシアなので、連邦をつける必要は無い。ただしそのままの参考書もあり、またマレー半島とボルネオ島北西部という離れた地域のいくつもの州による連合国家なので、実際上「連邦」というイメージも強い。マハティール政権以来、中央集権体制を強化しているので「連邦制」ではないことを強調していることから日本の教科書の表記が変化しているのかもしれない。
マレーシア国旗

マレーシア国旗

 首都はマレー半島の西側のクアラルンプールにおかれた。人口は約3200万。最大の特色は、マレー人、華人(中国系)、インド系からなる多民族国家であることと、イスラーム教を国教としていることである。公用語はマレー語(政府はマレーシア語といっている)であるが、1967年まで公用語であった英語は現在も凖公用語とされている。

インドネシアとの紛争

 東南アジアの半島部にあるマレー半島の大部分と、その最先端の貿易港シンガポールに加え、島嶼部のボルネオ島に及ぶ連邦国家が成立したことは、東南アジア情勢に大きな影響を与え、特にボルネオに領有権を主張するインドネシア共和国にとっては大きな脅威と受け止められた。そのため、インドネシアのスカルノは、マレーシア成立と同日に国交を断絶した。さらに、国際連合がマレーシアを非常任理事国に選出すると、反発して1965年1月、国際連合の脱退を表明した(ただし、同年にクーデタでスカルノが失脚したため、翌年復帰した)。

マレー人と中国系の対立

マレー半島の本来の住民であったのはマレー人であったが、東南アジアという中国とインドに挟まれた地域で、それらとの交易も昔から活発だったので、マレーシアを構成した民族はマレー人以外にも中国系(華僑)とインド系(印僑)も多かった。特にシンガポールは資本を握る華僑の力が強く、たびたびマレー人と衝突、建国間もない1965年に、シンガポールは分離独立することとなった。これは、シンガポールが華人への利益分配を強く主張したことに反発したマレーシア政府ラーマン首相が、シンガポールを追放したというのが実態だった。
 ベトナム戦争が本格化したことを受けて反共軍事同盟として1967年に発足した東南アジア諸国連合(ASEAN)には、当初からメンバーとして加わった。また、マレーシア成立後もイギリス軍の駐留が続いていたが、1968年にイギリスのウィルソン内閣が、スエズ以東からの撤兵を表明、それに従って1971年までに撤退し、マレーシアは名実ともに自立した。ただし現在もイギリス連邦には残留している。<以下、岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 によって構成>

マレー人と華人の衝突 5月13日事件

 1969年5月10日、シンガポール追放後の最初の総選挙では、政府の民族宥和政策を批判して華人の利益保護を訴えた野党の華人政党である民主行動党が大幅に議席を伸ばし、マレー人の間に経済だけでなく政治までも華人に支配されてしまうとの危機意識が生まれた。5月13日に、マレー人与党の統一マレー人国民組織を支持するマレー人と、民主行動党を支持する華人との間で衝突が起こり、200人を超える死者がでるという暴動事件が発生した。この5月13日事件は、死者の多くは華人であり、取り締まる警官の多くはマレー人だったことに一因があった。それまでの民族宥和政策が破綻したことで、翌年9月、ラーマン首相は辞任した。5月13日事件は多民族国家としての統合の困難さを示した悲劇であり、マレーシアが「マレー人の国家」へと転換する契機となった。

マレー人優遇策(ブミプトラ)への転換

 1971年から、マレー人が主導権を握ったマレーシア連合党政府は、マレー人の不満を解消するため、マレー人の経済社会的地位を向上させる政策を政府主導で展開した。その主な内容は、アレー人を農業部門から工業部門へ誘導して所得を上げることであり、華人が株式100%所有する企業の設立を認めず、最低限マレー人に30%の所有を義務づけたほか、大企業の雇用でもマレー人の採用枠の設定、大学入学でもマレー人枠を設けて優遇するなどの措置が取られた。これをブミプトラ政策(ブミプトラとはマレー人のこと)という。

マハティール

マハティール

Mahathir bin Mohamad

マレーシアの経済発展を主導

 マレーシアは、マレー人と華人などの民族対立を抱えていたために、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどに見られる開発独裁ともいわれる開発主義の出現が遅れたが、1971年にマレー人優遇策(ブミプトラ)と同時に20年間の新経済政策がはじまったことで本格化した。
 1981年7月、首相となったマハティール(=ビン=ムハンマド) Mahathir bin Mohamad 1925~ は、医師出身で1946年に統一マレー国民組織(UMNO)の独立運動に加わり、マレーシア成立の翌年1964年に下院議員に当選、政治活動を開始した。UMNOは他の政党と国民戦線(BN)を組織して一貫して与党の立場にあったが、1969年の5月13日事件を契機にマレー人優遇策を掲げるようになり、その中でマハティールは指導者としての地位に近づいていった。1981年7月、マハティールは首相に選出され、マレーシアで初めて王族以外の平民出身の首相となった。それ以後、マハティールは与党統一マレー国民組織(UMNO)を率いて、2003年までの22年間、首相を務めた。
 マハティールは政治の近代化と経済開発を掲げた。政治改革では、立憲君主政ながら憲法改正の拒否権を持っていた国王の権限を制限するとともに首相の権限を強化した憲法を改正、それまで自立性が高かったボルネオ島のサバ州とサラワク州政府に対する中央政府の統制を強化するなど、中央集権体制を確立した。その過程では改革に反対する王族などの伝統的支配者、与野党の批判勢力を逮捕するなどの抑圧的手段をとった。

ルック・イースト

 その名声を世界的に高めたのは、「ルック・イースト」という言葉に示された経済政策に成功し、マレーシアを資源輸出国から工業国へと転換させ、東南アジアの優等生とも言われるようにしたことであった。それは、60~70年代にアジアで進められた、強権的な権力を持つ政府が主導して開発政策を進め、外国資本を積極的に導入するというの開発独裁の延長線にある。具体的には重化学工業化を進めるにたって、マレーシア重工業公社と外資系企業の合弁を含む、鉄鋼・セメント・自動車などの産業を政府主導で推進、その際に1983年にマレーシア重工業公社と日本の三菱自動車社の合弁で国産車メーカー・プロトン社に象徴されるような、従来の欧米諸国ではなく、日本や韓国をモデルにした「ルック・イースト政策」を基本戦略とした。
 開発主義を進めた他の国の独裁政権の多くは、その強権的体質が国民的な支持を維持できずに、力によって退陣に追いこまれているが、マレーシアのマハティールは、シンガポールのリー=クアンユーとともに、例外的に暴力的な政権交代に至らなかった。マハティールは2003年に退任するまでマレーシアの工業発展を推進し、植民地時代のゴム、スズ、独立後に発展したパーム油などの一次産品産業に加えて重化学工業を興し、農業国から工業国に転換させた。その結果、マレーシアは深刻な民族対立にもかかわらず、東南アジアでシンガポール、ブルネイ(産油国)につぐ、一人あたり国民所得(GNI)の高い国となった。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.190-162>
アジア通貨危機を克服 1997年7月、タイの通貨バーツの暴落から始まったアジア通貨危機はマレーシアにも及び、経済の急成長はストップしたが、マハティールはその原因をアメリカのジョージ=ソロフなどのヘッジ・ファンドと呼ばれる海外投資家による過剰な投資にあると厳しく批判し、IMFによる通貨管理を拒否、投機取引規制や為替相場に対する管理強化などで危機を乗り切った。

イスラーム勢力との関係

 マレーシアのムスリムは与党の統一マレー人国民組織(UMNO)も野党の汎マレーシア・イスラーム党の二つがあるが、選挙では世俗主義を掲げる統一マレー人国民組織が圧倒的な得票率で議席を得ており、マレー人国民の間に世俗主義は浸透している。マハティールは世俗主義の枠の中で、大学生を中心とするイスラーム復興運動も容認し、その団体であるマレーシア・イスラーム青年運動の指導者アンワルをUMNOに入党させて取り込み、一時は後継者に指名するほど関係を深めた。しかし、アジア通貨危機への対応をめぐって、与党内での権力闘争が始まり、若手の中にはマハティールの政治手法を縁故主義として批判する者も現れてきた。
 1990年代から、東南アジアでもイスラーム過激派の活動が始まっていた。当初はインドネシアがその根拠地であったが、彼らは逃亡先のマレーシアで1998年、ジェマ・イスラミア(JI)を結成し、インドネシア、マレーシア、ブルネイ、シンガポール、フィリピン南部、タイ南部などのイスラーム社会権でイスラーム国家の樹立を目指してテロ活動を続けている。2002年10月にはバリ島で202人の犠牲が出た爆弾テロを起こしている。
 マハティールは2001年の9・11同時多発テロ直後、イスラーム教国のリーダーとしてはいち早くテロを非難した。イスラーム過激派ターリバーンに対して厳しい批判的立場であったが、一方でアメリカの「テロとの戦争」に対しても「無関係の市民に対する攻撃だ」と非難している。<朝日新聞 2021/9/15 記事>

Episode 92歳、世界最高齢で首相に返り咲く

 マハティールは2003年に政界を引退したが、その後の与党連合(BN)は改革の遅れや政権の腐敗などが続き、急速に国民の支持を失っていった。一方、野党は次の選挙に向けて、引退したマハティールの担ぎ出しをはかりった。長い間指導してきた与党の統一マレー人国民組織(UMNO)を脱退したマハティールはマレーシア統一プリブミ党(PPBM)を結成し、野党連合の希望連盟(PH)に加入、2018年5月には野党統一候補として立候補して当選、PHも113議席を獲得して79議席のBNを上まわり、茲にマレーシア発足以来初めての政権交代が実現した。マハティールはすでに92歳になっていたが、推されて首相の座に返り咲いた。これは選挙で選ばれた政権では、最高齢での就任であり、世界を驚かせた。
消費税を廃止 2018年5月の総選挙で、マハティールは消費税の廃止を公約し、政権を取るとそれを実現した。それは2015年4月に導入されたていた6%の消費税(Goods and Services Tax: GST)を6月から0%にし、9月からそれ以前の売上サービス税(SST、税率はサービスが6%、財が5~10%)を「再導入」するというもの。サービス税はホテルの宿泊料や外食などで、財は10%と高い税率だが、一部品目は5%、生活必需品を中心に5443品目が非課税となっているので、消費者の負担感は軽くなっている。消費税は税収の石油依存を脱却して財政を安定させ、財政赤字を抑制したいという前政権の意図から導入されたが、マハティールはそれによって国民の消費活動が落ちこみ、生活の質を落とすことの方が長い目で見れば国家財政の不安定につながる考え、その廃止を打ち出し、より負担の少ない売り上げサービス税(SST)に戻すことを公約し、選挙に勝ったことで実行に移したのだった。
 移行期の6月~8月は消費税が0%となったのでマレーシアでは消費が急増し、特に外国から消費税0を目当てに買い物に来る客が増え、経済効果は確かにあがった。その後、売り上げサービス税(SST)が復活してからは消費は落ち着き、税収も減ったので早くも消費税の復活がうわさされているが、財政安定の前提を国民生活の安定に置くという発想に基づくこのマレーシアの政策が成功するかどうか、興味深いところである。 → 参考 IDE-JETRO 日本貿易振興機構(ジェトロ)ホームページ「世界を見る眼」「消費税を廃止した国、マレーシア」は本当か?
 2019年5月30日、マハティールはマレーシア首相として日本を訪問、記者会見で質問に答え、アメリカと中国の対立のなかでマレーシアをどう舵取りするのか、さらに日本へのアドバイスなどをかたっている。 → 参考 ヤフーニュース 2019/5/30

ようやく引退声明

 15年ぶりに政権に復帰したマハティールであったが、すでに92歳であったので、すぐにその後継問題が表面化した。マハティールはアンワルを後継に指名していたが、与党内で禅譲を批判する声が強まり、2020年2月、マハティールは混乱の責任を取って国王に辞表を提出、受理されたため首相の座を反対派のムヒディン=ヤシンに譲った。8月には新党を結成して現政権を追及するという姿勢を見せたが、さすがに9月に記者会見で次の総選挙での不出馬と政界引退を公言した。しかし、95歳(2021年5月現在)になった今も、その後も激しい現政権批判や国際関係についての発言を続けている。アジア情勢に関しては、中国を怒らせるべきでない、というスタンスの発言が目立ち、習近平からは力強い理解者と見られているようだ。<2021/11/18記>
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岩崎育夫
『入門東南アジア近現代史』
2017 講談社現代新書

川崎有三
『東南アジアの中国人社会』
世界史リブレット39
1996 山川出版社