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バビロン第1王朝/古バビロニア王国

紀元前1900年頃、アムル人がメソポタミア南部に築いた古バビロニア王国のこと。前18世紀、ハンムラビ王の時代が全盛期でその支配はメソポタミア全域に及んだ。約300年続き、前16世紀初めにヒッタイトによって滅ぼされた。

アムル人がバビロンに建国

 セム系遊牧民アムル人が西方からティグリス・ユーフラテス川中下流域のバビロニアに侵入し、紀元前1900年頃、バビロンを都に建設し、メソポタミア文明を発展させ、前18世紀のハンムラビ王の時に全盛期となった王朝。オリエントにおける、本格的な領域国家である。
 バビロニアは地域名としてはメソポタミア中部地域をさす。王朝名としては、後の新バビロニアと区別して「古バビロニア王国」ともいう。アムル人はシュメール人(ウル第3王朝)を征服したが、楔形文字などその文化を取り入れ、メソポタミア文明の最盛期を生み出した。

ハンムラビ王が統治

 その全盛期の前18世紀ごろの王がハンムラビ王で、彼は周辺の諸国を次々と征服してメソポタミア全域に支配を及ぼし、交通網を整備するなど、広域支配を実現した。さらにハンムラビ法典をつくったことで有名である。ハンムラビ法典は、シュメール人の法典を継承して総合化し、初めて体系的な法治国家としての形態を整えた。その内容も「目には目を」などの復讐法の規定などが、後世のオリエント世界に強い影響を及ぼした。

バビロン第一王朝の滅亡

 バビロン第1王朝はハンムラビ王の死後急速に衰え、カッシートなどに圧迫され、最終的には小アジアから進出したヒッタイトによって前1595年ごろに滅ぼされた。ここまでを「古バビロニア時代」ともいい、その後はメソポタミア地域だけの時代が終わり、オリエントの統一という世界国家の段階にはいる。
 バビロン第一王朝が滅亡した後、ヒッタイトは小アジアに引き上げたので、バビロンにはカッシートが入り、建国する。バビロンはその後も西アジアの政治・文化の中心都市として存続し、新バビロニア王国の都となる。  
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