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メソポタミア文明

ティグリス・ユーフラテス両河流域に前3000年頃、都市文明が成立。エジプトと並んでオリエント文明の中心地域となる。シュメール人、セム系、インド=ヨーロッパ語系などの民族が興亡し、バビロニア、アッシリア、ペルシア帝国などの古代国家が成立した。

 ティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミアに成立した現在人類最古と考えられている文明。最初の農耕・牧畜が始まり、その中から青銅器を持ち、楔形文字を用い、多神教に基づく神殿(ジッグラト)を中心とした都市文明が生まれ、六十進法や太陰暦などの文化が形成された。このメソポタミア文明はエジプト文明とともに、ひろくオリエント文明を構成してる。

農耕牧畜の発生から潅漑農業へ

前7000年紀 前7000年紀とは前6000年代のこと。その前半(つまり約9000年前~8500年前)、肥沃な三日月地帯ジャルモ遺跡などに見られる初期の農耕文明が生まれた。これは新石器革命と言われている人類にとっての大きな変革であった。これらの遺跡から、土器の使用、ムギの栽培と日干し煉瓦による住居を持ち、定住生活を開始したことがわかっている。この段階の初期農耕は灌漑ではなく降水に依存する天水農業であり、また周辺での羊などの牧畜も行われるようになった。この時期のシュメール以前の人種の系統は不明である。
前6000年紀 前6000年紀の初め頃、まずメソポタミアの北部のジャジーラ(島の意味)と言われる比較的降水量の多い地域でも農耕が開始され、その中頃にさらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。その最初はティグリス中流のサマッラ遺跡で、年間最低降水量が200mm以下の地域であるので、灌漑に依存したと思われる。さらに前5500年頃、メソポタミア南部の乾燥地帯にウバイド文化が登場するが、これもサマッラ文化の灌漑技術を継承したと考えられる。このころメソポタミア南部に大規模な定住が進んで都市が形成されていった。

都市文明の形成

前4000年紀 前4000年紀の初め頃、最初の都市文明が形成された。その代表がユーフラテス下流の左岸にあるウルク(現在のワルカ)である。またウルク遺跡から楔形文字を記した粘土板が大量に見つかっており、これが最古のまとまった楔形文字資料である。このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)と言われている。
シュメール初期王朝 前3000年紀のシュメール初期王朝(前2900~2335年頃)時代には、ウルクラガシュウル、ニップルなど20ほどの都市国家が形成された。シュメール人は青銅器楔形文字を用い、多神教信仰、ギルガメッシュ叙事詩などの文化を産みだした。

メソポタミアの統一

アッカド王国 前2300年頃、メソポタミアの都市国家を統一し領域国家を形成したのはセム系のアッカド人であった。アッカド王国(前2334~前2193頃)初代のサルゴン1世はシュメールの都市国家を支配下におき、知事を派遣して、都市国家の枠を超えた領域支配を行った。シュメールの都市は時に反乱を起こしたが、それを鎮圧した後、さらに強大となり、第4代ナラム=シンは「四方世界の王」(四海の王ともいう)と言う称号を使い南北のメソポタミアとその周辺を支配した。しかしアッカド王国は前2193年、北東の山岳民族の侵入を受けて滅んだと言われている。
ウル第3王朝 アッカド王国が滅んだ後、シュメール人の都市国家が復興し、その中からウル=ナンムが起こしたウル第3王朝(前2112~前2004)がメソポタミアを支配した。ウル=ナンムと後継者シュルギは財政基盤を確立し、常備軍を創設し、中央集権体制をとり、シュメール法典といわれる法律を制定した。シュルギも「四方世界の王」を称しみずからを神格化した。しかし次第に他の都市も力をつけて独立し、ウル第3王朝は分裂状態となり、東方はエラム人に侵攻され、また西方ではアムル人の領内への移住が激しくなった。その結果、前2004年にエラム人によってウル第3王朝は滅ぼされ、その後南部メソポタミアにはシュメール人の残存勢力のイシン王国、アムル人のラルサ王国が現れた。またそのころバビロンにアムル人のバビロニア王国が成立した。この三国は抗争を続け、イシンがラルサに滅ぼされた後、前1763年にバビロニア王国のハンムラビ王に倒された。
古バビロニア王国 アムル人バビロニアバビロンを都にして建てた国がバビロン第1王朝で、後の新バビロニアと区別するため、古バビロニア王国という。前18世紀の後半、その第6代の王ハンムラビ王は、ラルサ王国など周辺の諸国を倒してメソポタミア全域を統一した。ハンムラビ王は交通網を整備し、また有名なハンムラビ法典を制定して国家の形態をととのえた。しかしハンムラビ王死後は東方山岳民族のカッシートの侵攻を受けるなどして衰退に向かい、前1595年、小アジアに興ったヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。

オリエントの統一(世界帝国の出現)

民族移動期 前2000年ごろから前1500年ごろまでは、西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた時代であった。インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどが西アジアに侵入し、メソポタミアにもカッシート王国やミタンニ王国が生まれた。彼らは西アジアに鉄器文化をもたらし、この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
アッシリア帝国 メソポタミア北部にすでに活動していたアッシリアは、この間、鉄器文化を受容して強大な軍事力を有するようになり、前9世紀には西アジアで最有力となり、前7世紀にエジプトを征服してオリエントを統一し、アッシリア帝国西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。
4国分立時代 アッシリア帝国は前612年に滅亡して、4国分立時代となり、メソポタミアにはバビロンを都にしてカルデア人が自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が成立し、有力となった。新バビロニアのネブカドネザル王は前6世紀前半にパレスチナのユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行してバビロン捕囚を行った。その他、小アジア西部にはリディア王国、イラン高原にはメディア王国それぞれ成立し、エジプトも独立を回復した。
ペルシア帝国 しかしイランでメディアに代わってアケメネス朝が起こると、前6世紀中頃、その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。アケメネス朝ペルシアは、楔形文字に代表されるメソポタミア文明を継承し、オリエント文明を開花させたが、前4世紀になるとギリシア人であるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされた。

メソポタミア文明の継承と忘却

 アレクサンドロス大王の帝国の成立によって、メソポタミア文明とエジプト文明をあわせたオリエント文明がさらにギリシア文明と融合してあらたなヘレニズム文明を形成することとなる。アレクサンドロス大王の帝国が崩壊した後には、メソポタミアの地はギリシア系国家のセレウコス朝シリアに支配されるが、オリエント的要素はギリシア系文化と融合しながら継承され、その後のパルティアササン朝ペルシアへと続くが、ペルシア帝国から始まったイラン人の文化的要素(その中心がゾロアスター教)が次第に強くなる。そして7世紀にアラビア半島の興ったイスラーム教とその文明が、一気に西アジアを席巻し、オリエント的・メソポタミア的文化要素は忘れ去られていく。