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民衆裁判所/陪審制

古代ギリシアのアテネで行われていた、市民が陪審員として参加する裁判所。アテネ民主政の重要な役割を担い、陪審員を抽籤で選出して日当を支給するなどのなどの制度が、前5世紀後半のペリクレス時代には完成した。

 古代ギリシアのポリス、アテネ民衆から抽選で選ばれた陪審員が行う裁判。民衆法廷とも言う。ソロンの改革に始まり、前462年のエフィアルテスの改革で、通常の訴訟のほか、役人(公職者)に対する弾劾裁判などの最終審として位置づけられ、アテネのアテネ民主政の重要な機関となった。

陪審制

 陪審員は30歳以上の市民から抽選制で選ばれた6000人が任命され、裁判ごとに籤で担当を決めた。ペリクレスの時から陪審員には日当が支給されるようになった。これは、陪審員が買収されないための措置と考えられる。専門の裁判官や弁護士をおかず、いわばアマチュアの市民が裁判を行うことによって「参加と責任」という民主主義の精神を実践していたといえる。また民衆裁判所は、アテネ民主政を維持する重要な役割を果たしたものであり、僭主政(独裁政治)や、貴族寡頭政治を主張し、民主政を否定する行動に対しては厳しい処罰がなされた。有名なソクラテスの裁判も、ソクラテスの言説の中に民主政の衆愚的な面を批判するところがあったため有罪とされ、ソクラテスがその節を曲げなかったため、死刑の判決が下されたらしい。<橋場弦『丘のうえの民主政』-古代アテネの実験 1997 東大出版会 p.107~>

陪審員の抽籤

 アリストテレスは『アテナイ人の国制』で、裁判所の陪審員抽籤について述べている。陪審員となるのは「三十歳以上で国家に債務がなく、また市民権喪失者でない者」とされ、資格なくして陪審員となった者は罰金が科せられる。その抽籤手順についてはアリストテレスはことこまかく説明しているが、それはもともとメモ書きだったようで整理されておらず、じゅうふくもあって非常に判りづらい。次のような分で、イメージをつかみ、抽籤が厳格に行われていたことを知ればよいだろう。なそ、村川堅太郎氏訳の岩波文庫には外国の学者が書いた抽選器の復元図がある<p.283>
(引用)裁判所の陪審員たちは九人のアルコンが部族ごとに抽籤し、テスモテタイ(アルコンの中の6人で法と裁きのことを司る)の書記は第十部族のそれを抽籤する。裁判所の入口は各部族のために一つずつ都合十あり、抽選器は各部族ごとに二つずつ都合二十、また小箱は各部に十ずつ都合百ある。また当籤した陪審者たちの小木札の投ぜられる別の小箱があり、また二つの壺がある。各々の入口の傍には陪審者の数と同じだけの杖が立てられ、壺には杖と同数の「樫の実」が投げ入れられる。樫の実にはアルファベットの中の第十一字、すなわち から始めて満たされるべき法廷の数だけの文字が書き込まれている。……<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.104>

ソクラテス裁判

 前399年にアテネで行われたソクラテス裁判も、民衆裁判所で陪審制によって裁かれた。ソクラテス裁判がどのように行われたか、次のように説明されている。
陪審員 ソクラテスの裁判が行われた時点における法廷(ディカステーリオン)は陪審法廷であり、陪審員には、30歳以上の市民権を持つ市民で志願し他ものの中から、毎年、6000人が抽選で選ばれ、宣誓した上で一年、その任についた。公法上の犯罪では500人からなる10組の法廷が構成されたらしい(残りの千人はよびであったろう)。陪審員にはペリクレスの改革以後、日当が支払われたが、ソクラテス裁判時にはその額は3オポロスで、熟練職人の一日の平均賃金(1ドラクマ=6オポロス)の半分にあたり、陪審員となったため仕事ができなくなった分の補償の意味があった。中には貧しい老人が日当目当てに陪審員になるという事態もあったらしい。
告訴 今日のような検察官・弁護人の制度はなく、訴えたいと思う市民は誰でも告訴できた。そのため告訴を脅迫や金銭をだまし取るための手段とする「告訴常習者」が現れた。不当告訴を防ぐため、違法に告訴したものが逆に被告から告訴された場合には、この方を先に審理することになっていた。また陪審員の5分の1以上の有罪投票数を獲得できなかった場合は、告訴人には重い罰金が科せられていた。
弁論 ソクラテスに対する告訴状はメレトス、アニュトス、リュコンという三人の市民からバシレウス(ポリス草創期の王意味する言葉が残っていた)に提出され、原告・被告の事前審査(予審)が行われた上で、訴状の適法性が認められ法廷に回付された。法廷では原告・被告がそれぞれ弁論を行う。弁護士はいないが、弁論原稿を代わって用意する弁論代作人はいた。ソクラテスは自ら訴状が事実に反することを逐一「弁明」した。弁論が終われば合議することなく評決が行われた。
評決 ソクラテス裁判の場合は、量刑が決まっていない事例であったので、まず有罪か無罪かの評決が行われ、500人の陪審員のうち、280が有罪、220が無罪という30票差で有罪となった。ついで量刑が審理され、原告は死刑、ソクラテスは罰金刑(無罪は否定されているので)を主張したが、死刑が360対140で確定した(票数には異説もある)。
刑の執行 判決後、通常はただちに刑が執行されるが、ソクラテス裁判の場合は、たまたまアテネからデロス島の神殿への神託を伺いに使節が派遣されていたため、使節の船が蛙までは死刑という不浄は割けなければならないと言うことで延期された。その間、獄中のソクラテスに弟子たちが獄吏を買収するなどして脱獄を勧めたが、ソクラテスは不正な手段で国法を破ることを拒否した。処刑は、毒人参の液を飲みほすことで行われた。<ソクラテス裁判の経緯は、加来彰俊『ソクラテスはなぜ死んだのか』2004 岩波書店 p.84 以下を参照>
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ノートの参照
1章2節 キ.ペルシア戦争とアテネ民主政
書籍案内

アリストテレス
/村川堅太郎訳
『アテナイ人の国制』
1980 岩波文庫

橋場弦
『民主主義の源流
―古代アテネの実験』
2016 講談社学術文庫
旧題『丘のうえの民主政』
1997 東大出版会

加来彰俊
『ソクラテスはなぜ死んだのか』
2004 岩波書店