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アテネ

古代ギリシアの代表的なポリス。典型的な民主政治が展開され、ペルシア戦争勝利後にはデロス同盟の盟主となる。その後もギリシア文明の中心都市として存続したが、15世紀にオスマン帝国に征服された。1830年にギリシア王国が独立、34年にその首都となり、現在もギリシア共和国の首都である。

 ギリシア語表記ではアテナイ。古代ギリシアの代表的なポリスであり、ギリシア南部のアッティカ地方にあり、アクロポリスの丘を中心にした市域は城壁に囲まれ、その周辺地域を領有し市民の耕作地が広がっていた。またサラミス湾に外港を持ち、海外貿易でも大きな富を築いた。領内にはラウレイオン銀山があり、貨幣を発行し、経済的にも他を圧していた。
 アテネが支配したアッティカ地方は、広さは佐賀県ぐらい、人口は最盛期で市民は家族を含み12万(そのうち、市民権を持つ成年男子は3万)。さらにメトイコイといわれた在留外人が3万、奴隷が8万人、合計で23万(前432年の推計)とされる。 → アテネ民主政

アテネの成立と発展

 アテネはドーリア人の征服を受けず、以前から居住していたイオニア人が、集住(シノイキスモス)によってポリスを形成させたと考えられている。前7世紀ごろ王政から貴族政にかわり、続いてポリスの平民重装歩兵・密集部隊の中核となって台頭して前7世紀初めのドラコンの立法と前6世紀初めのソロンの改革で民主政の法的整備が進み、前6世紀中ごろのペイシストラトスによる僭主政を経て、前508年のクレイステネスの改革で典型的なアテネ民主政を成立させた。
ペルシア戦争  アケメネス朝ペルシア帝国の支配に対してイオニア人の植民都市がイオニアの反乱を起こすとアテネはその支援に乗り出したことからペルシア戦争が勃発した。アテネは,有力ポリスのスパルタとともにギリシア軍の中核として戦った。苦戦を強いられながらマラトンの戦いではアテネの重装歩兵が活躍、サラミスの海戦ではアテネのテミストクレスの指揮する三段櫂船が活躍し、最終的にはスパルタ陸軍が前479年のプラタイアの戦いでペルシア軍を破り、ペルシア帝国に併合される危機から脱した。これはアテネの民主政の勝利ともいうことができる。
ペリクレス時代  ペルシア戦争後、アテネではテミストクレスが独裁者となる恐れがあるとして陶片追放(オストラシズム)によって追放され、その後も貴族寡頭政や僭主政にもどる危機があったが、ペリクレスが前462年にクーデタで実権を握り、ペリクレスは、クレイステネスの民主政をさらに発展させ、民会を最高機関とする民主政治の徹底を図り、アテネ民主政の全盛期を出現させた。その一方で、アテネは強大な海軍力を背景に、他のポリスに対する優位を確定し、デロス同盟を結成、その盟主として主導権を握った。
デロス同盟と「アテネ帝国」化  ペルシア戦争後もペルシア帝国の再襲来の恐れがあるなか、強大な海軍力を持つアテネの存在は重くなると、アテネはエーゲ海域の諸ポリスとの間でデロス同盟を結成した。その本部をデロス島に置き、当初は同盟の金庫もデロス島に置かれたが、アテネの優位が強まる中で、金庫はアテネに移されてアテネが管理するようになり、またアテネは他のポリスに対してアテネの守護女神アテナに対する貢納金という形で課税し、統制を強めた。またデロス同盟では市民権を有するのはアテネ市民のみとされ、他のポリス市民は外国人として扱われるなど、アテネの一強支配が成立、「アテネ帝国」といわれる状態となった。

ペロポネソス戦争

 このようなデロス同盟を通したアテネの強大化に対して、ギリシア本土のペロポネソス半島南端に位置する大国であるスパルタは強く警戒するようになった。スパルタはすでに前6世紀にペロポネソス半島内のほとんどのポリスとの間でペロポネソス同盟を成立させていたが、アテネとデロス同盟の強大化に反発を強め、両陣営はついにペロポネソス戦争(前431年~404年)で衝突した。
 ペリクレスは籠城作戦を採って防衛に当たり、民主政の危機であることを訴え、アテネの奮起を促した。その時の演説は全文がトゥキディデスの『戦史』にシルされている。しかし、疫病が流行して市民の3分の1が死ぬという危機に見舞われ、自らも罹患して開始翌年に死去した。戦争が長期化する中、前421年には一時、和平が成立(ニキアスの平和)したが、アルキビアデスが主導した冒険的なシチリア島遠征作戦に失敗し、アテネは不利な戦いに追いこまれた。戦争が長期化する中、アテネ民主政の基盤であった平民層が没落、またデロス同盟諸都市も離脱して行き、一方のスパルタは、ペルシア帝国の経済支援を受けて海軍を増強したため、戦争継続は困難となっていった。ついに前404年、アテネ海軍はスパルタ海軍に敗れ、全面降伏してペロポネソス戦争は終結した。アテネの一市民として戦争に従軍したトゥキディデスは、この戦争の経緯を詳細な歴史書『戦史』に記録した。

アテネの文化の繁栄

 前5~前4世紀を文化史上は古典期と言われ、アクロポリスのパルテノン神殿などの建築や彫刻、演劇、ソクラテス以下の哲学などギリシア文化がアテネを舞台に展開された。毎年3月に行われたディオニュソス神の祭典では演劇が上演されたこともあってギリシア演劇が盛んになり、三大悲劇作者といわれるアイスキュロスソフォクレスエウリピデスや、アリストファネスなどの喜劇作者が輩出した。
 アテネでは多くのソフィストの活動があり、さらに後世に大きな影響を与えたソクラテスプラトンアリストテレスらもアテネで活動した。その活躍した時期はペロポネソス戦争後のアテネ民主政のむしろ衰退期であった。それでもアテネにはプラトンが創設したアカデメイアや、アリストテレスが創設したリュケイオンがあった。アカデメイアはビザンツ帝国時代の529年まで存続するなど、その後も学芸都市としてヘレニズム時代にかけて繁栄が続いた。ヘレニズム時代にはギリシア語(コイネー)はその世界の共通語として用いられたが、コスモポリタニズム(世界市民主義)の成立とともにアテネのポリス社会が文化の基盤としての位置づけは弱まった。ローマ支配に組み込まれてからもギリシア語やギリシア哲学、また美術などはローマ文化に直接的影響を及ぼし続けたが、アテネそのものは経済の中心がアレクサンドリア(エジプト)、政治の中心がビザンティウム(コンスタンティノープル)に移るとともに文化的にも衰退していった。

マケドニアに屈服

 アテネはペロポネソス戦争の後も一ポリスとして存続したが、三十人僭主といわれる寡頭制支配が行われ、デマゴーゴスによる政治によって混乱が続いた。ギリシアのポリス世界におけるアテネの覇権も失われ、主導権はスパルタに移った。一時期アテネは海上支配の復活を試みコリント・テーベと同盟してコリント戦争(前395~387)でスパルタと戦ったが、覇権を回復することはなかった。ギリシアの諸ポリスに対するペルシア帝国の干渉が強まる中、覇権はさらにテーベに移った。
 マケドニアフィリッポス2世が南下してくると、アテネではマケドニアへの抵抗を主張するデモステネスと、むしろマケドニアに協力してペルシアに当たろうと主張イソクラテスの二説が対立、結局軍事的抵抗を試みたが、前338年、カイロネイアの戦いで敗れてその支配を受けることとなり、実質的独立を失った。これらのポリスの抗争も、市民を主体とした重装歩兵ではなく、傭兵に依存する戦争に変質していった。

アテネのその後

 ペリクレス時代が最盛期となった古典古代のアテネが、そのまま現在のアテネにつながっているのではない。アレクサンドロス帝国の支配(ヘレニズム)の時代を経てギリシア世界がローマに支配されるようになると、その中心はビザンティオン、つまり後のコンスタンティノープル、現在のイスタンブールに移る。
 1453年、ビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされ、ギリシアのイスラーム化が始まり、ギリシア全土がオスマン帝国の支配下に入ったことにより、アテネの町は大きく変貌した。1830年代のアテネは、人口4千人ほどの寒村になっていた。
 アテネが復興するのは、独立後のギリシア王国の首都となった1834年以降のことことだ。1896年には古代オリンピックの精神を復活させた第1回の国際オリンピック大会が開催された。それ以後、古典文化の中心地として大学などの文化施設も作られ、2004年には再びオリンピックが開催される大都市に発展した。<クロッグ『ギリシアの歴史』2004 創土社 など>
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ノートの参照
第1章2節 オ.アテネとスパルタ
書籍案内

太田秀通
『スパルタとアテネ』
1970 岩波新書

橋場弦
『民主主義の源流
―古代アテネの実験』
2016 講談社学術文庫
旧題『丘のうえの民主政』
1997 東大出版会