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ペリクレス

古代ギリシアのアテネの政治家でペルシア戦争後の前5世紀後半、民主政の完成期を指導した。

ペリクレス
ペリクレス像
 ペリクレスはペルシア戦争後のアテネの民主政を完成させた人物。前443~429まで毎年将軍職(ストラテーゴス)に選出され、「ペリスレス時代」と言われるアテネの全盛期を指導した。彼は民衆裁判所の陪審員に給料を出すこととし、さらに給料制をアルコンや評議員にも拡大し、また役人の抽選制を徹底した。抽選制の徹底によって貧民が役人に選ばれても、給料が支給されたのでその仕事に専念できた。また給料制度を取るようになったため、市民権の範囲を限定する必要が生じ、前451/450年には「ペリクレスの市民権法」といわれる、両親ともにアテネ生まれの人だけに市民権を認める法律を制定した。いずれにせよ、ペリクレスはアテネ民主政の全盛期を象徴する政治家となった。その政治思想は、ペロポネソス戦争に際して行ったペリクレスの演説によって知ることができる。

将軍職ペリクレス

 ペリクレスはアルコンではなかった。アルコンはクジ引きで選ばれ、任期は1年で再任は認められず、9人の合議制なので、民主的ではあったが継続的に政策を実行するには不向きだった。それに対して専門職と考えられた将軍職(ストラテーゴス)はクレイステネスの時に設置され、10人が民会で選挙で選ばれ、再任が可能だった。ペリクレスは前443年に選挙で将軍職に選出され、15年間再任をつづけたのだった。トゥキディデスは「名においては民主政、実は第一人者の支配」と評しているという。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰』1993 後段が学術文庫 p.103>

ペリクレスの政治

 アリストテレスの『アテナイ人の国制』では、ペリクレスの提案で市民権法が制定されたことに続いて、次のように触れている。
(引用)この後ペリクレスが民衆の指導者となって、若年にもかかわらずキモンの将軍としての執務報告を糾弾してはじめて名声を揚げ、国制はここに一層民主的となるに至った。何となればまたアレイオパゴス会員からその特権の或るものを奪い、特に国家を海軍力の方向に向かわしめ、その結果大衆は自信を得て全政権をますます自分の手に収めるに至ったのであるから。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.53-54>
 ここにあるアレイオパゴス会議とは貴族の終身会員からなる元老院にあたる機関で貴族の牙城であった。ペリクレスはアレイオパゴス会議のもっていた公金管理の権限をとりあげた。また、海軍力を高めたことによって一層民主的になったとは、サラミスの海戦において大衆が水夫として戦い、勝利を得たことが民主政の進展の因となったことであり、アリストテレスは『政治学』でも同様の指摘をしているという。<アリストテレス『同上書』村川氏訳注 p.193,197>

資料 アテネの民主政についてのペリクレスの演説

(引用)われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに制肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。<トゥキディデス『戦史』上 久保正彰訳 岩波文庫 p.226>
解説 ペロポネソス戦争の開戦1年目の前430年に、戦死者の国葬の際にペリクレスがアテネ市民に向かって演説したものの一節。アテネの民主政治の本質をよく示している演説としてよく知られている。

アテネの全盛期とペロポネソス戦争

 ペルシア戦争後は、アテネをデロス同盟の盟主としての地位に高め、その象徴としてのアクロポリスのパルテノン神殿を再建した。しかし、アテネの隆盛はスパルタの反発を買うことになり、前431年にはペロポネソス戦争が勃発し、戦闘の続く中、前429年に疫病(ペスト)にかかって死亡した。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.151などより>

ギリシア古典文化の全盛期

 ペリクレスの時代は民主政がもっとも安定し、アテネも強国として繁栄した。それを背景にしてこの時期はアテネにおけるギリシア古典文化の繁栄ももたらされた。その代表例としてのパルテノンの再建はペリクレスが主導し、その友人であったフェイディアスが総監督となって実施され、その姿を現在に伝えている。またペリクレスは三大悲劇詩人の一人ソフォクレスなどとも交遊し、文化の保護者としての役割も果たした。

Episode 子どもの非行に悩んだペリクレス

 ペリクレスは私欲を捨ててアテネの民主政の確立に尽くした人物であったが、実は私生活上では深刻な悩みを抱えていた。妻とのあいだに二人の男の子をもうけたが、夫婦仲はうまくいかず、40歳頃に離婚した。しばらくしてミレトス生まれのヘタイラという、いわば高級遊女と愛し合うようになった。彼女は才色兼備の女性だったが、世間は将軍のスキャンダルを非難した。先妻とのあいだの子ども二人には熱心に教育をさずけ、厳格に育てたが、二人とも父の期待にそむいて、グレてしまった。離婚への反発、厳しい父親への反抗でもあったらしい。おりからペロポネソス戦争の勃発という難局に当たっていたが、子どもは遊び歩き、父の名をかたって勝手に借金するなど、目に余るものがあった。アテネの将軍としては厳格さは信頼となって市民からゼウスとまで言われたが、こと家庭においては父親の権威は失墜していたのだった。戦争の二年目に、疫病が発生し、市民の3人に2人が死ぬという深刻な事態になると、人々は厭戦気分に襲われ、戦争を指導したペリクレスを恨むようになり、公金横領の疑いで弾劾裁判に訴えた。ペリクレスは将軍職を辞した。そして二人の息子も疫病にかかり、あっけなく死んでしまった。遂に和解できずに息子を死なせた父ペリクレスは、遺体にすがって泣いたと、プルタルコスは伝えている。<橋場弦『丘のうえの民主政』-古代アテネの実験 1997 東大出版会 p.71~> → 市民権法

ペリクレス後

 再びアリストテレス『アテナイ人の国制』から引用する。
(引用)さてペリクレスが民衆を指導している間は国制はまだ善かったが、ペリクレスの死後はずっと悪くなった。というのはこの頃になってはじめて民衆はしかるべき人々の間で評判の好くない者をその指導者としたから。これより以前には絶えずしかるべき人々が民衆の指導者であった。そもそも最初の民衆指導者となったのはソロンであり、第二にはペイシストラトスで、共に名門に生まれ知名の士であった。(以下略。アリストテレスが続いて民衆指導者としてあげているのはクレイステネス、クサンティッポス、ミルティアデス、テミストクレスなど。)<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.55>
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ノートの参照
1章2節 キ.ペルシア戦争とアテネ民主政
書籍案内

トゥキディデス『戦史』上
久保正彰訳 岩波文庫

アリストテレス
/村川堅太郎訳
『アテナイ人の国制』
1980 岩波文庫
太田秀通『スパルタとアテネ―古典古代のポリス社会』1970 岩波新書
橋場弦『丘のうえの民主政―古代アテネの実験』1997 東大出版会

橋場弦
『民主主義の実験
―古代アテネの実験』
2016 講談社学術文庫

1997年に東大出版会から刊行された『丘の上の民主政』を文庫化した。作家の高橋源一郎氏も民主主義論で言及している。