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僭主政

古代ギリシアのポリス民主政の過程で現れた権力の集中。

 非合法な手段で権力を奪いながら、市民の支持を受けて独裁的な支配を行ったポリスの政治のあり方。僭主はTyrant (ギリシア語のテュランノス。権力を相続によってではなく得ることが非合法とされ、そのような権力者を意味した。現在では暴君の意味に使われる)という。その政治が僭主政 Tyrany
 古代ギリシアの各ポリスで出現したが、典型的なのは前6世紀中頃のアテネペイシストラトスの政治である。アテネではソロンの改革によって市民の没落は防止されたが、市民間の貴族派(寡頭政治派)と平民派(民主政治派)の対立は続いた。前者を平野党、後者を海岸党といった。アルコン(執政官)の地位をめぐっても争いが続き、アルコン職を立てることができないこともあった。そのような政争の中で、非合法な手段で権力を握り、平民や貧民に迎合した人気取り政策をかかげ独裁的な政治を行う者が現れた。そのような政治のあり方を僭主政という。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.122~124 などによる>
 ペイシストラトスの次にその子ヒッパルコスとヒッピアスが僭主となったが、その暴政はアテネ市民の反発を強め、前510年に追放され、僭主政は倒された。ついで前508年にクレイステネスの改革が行われて僭主の出現の防止策がつくられ、民主政が確立した。

Episode 独裁者になる方法

 ペイシストラトスが僭主となったいきさつはヘロドトスの『歴史』ではこう説明されている。
(引用)自分で自分の体と驢馬を傷つけておき、アゴラに車を乗り入れて、敵方が田舎へ行こうとした自分を襲って殺そうとしたが、その手を逃れてきたところだといった。そして、自分が以前・・・幾多の殊勲を樹てたことを引き合いに出して、何らかの護衛を付けてほしいと国民に訴えたのである。アテナイ国民はまんまとペイシストラトスの術中に陥って、市民の中から選抜して護衛をつけることを認めたが、ただしこの護衛はペイシストラトスの場合、通常の「槍持ち」ではないくいうなれば「棒持ち」であった。なぜかといえば、護衛たちは槍ならぬ棍棒を携えて、彼に随行したからである。ところでこ「棒持ち」たちが、ペイシストラトスと共に共謀して、アクロポリスを占拠したのである。こうしてペイシストラトスはアテナイの支配者となったのであるが、彼は既存の官制を乱したり、法律を変改したりはせず、従来の国制に遵(したが)って国を治め、見事な政治をしたのであった。<松平千秋訳『歴史』上 巻1 61節 岩波文庫 p.47>
 犠牲者を装って自衛のためだと称して武装し、力ずくで権力を奪う。国民の人気取り政策を打ち出す・・・。ヒトラーの権力掌握術となんと似ているのでしょうか。このような権力奪取がまた出現しなければいいのですが。
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ノートの参照
第1章2節 カ.民主政へのあゆみ
書籍案内

ヘロドトス/松平千秋訳
『歴史』上 岩波文庫