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デモステネス

アテネの政治家でマケドニアへの徹底抗戦を主張したが、カイロネイアの戦いで敗北した。

 マケドニアのフィリッポス2世の進出を前にして、アテネでは、フィリッポスによるギリシア諸ポリスの結集とペルシアへの復讐の実現を期待するイソクラテスの主張と、ポリスの自由と独立を守る立場からそれに反対するデモステネスらの主張が対立していた。この論戦ではデモステネスらの主張が通り、マケドニアの進出に抵抗することとなって、テーベを味方に引き入れ、前338年カイロネイアの戦いでマケドニア軍とアテネ・テーベ連合軍が戦った。アテネ・テーベ連合軍は完全に敗北、マケドニア王フィリッポス2世のギリシアへの覇権が確立した。

参考 デモステネスのその後

 マケドニアに対する主戦論を主導したデモステネスは、前338年、カイロネイアの戦いでアテネなどポリス連合軍が敗れたため、立場は悪くなった。マケドニアのアレクサンドロス大王が、前334年に東方遠征を開始した後もアテネにとどまり、反マケドニアの論陣を張っていたが、アテネに亡命しようとしたマケドニアの高官から賄賂を受けとったとして非難され、前324年、国外に亡命した。ところが翌年、アレクサンドロス大王が急死したためアテネ帰国が許され、ふたたび反マケドニアの決起を呼びかけた。その主張に動かされて前322年、アテネ軍はマケドニア軍を攻撃したが、またも敗れてしまった。親マケドニア派が優勢となり、デモステネスは死刑に処せられることになった。デモステネスはカラウリア島に逃れたが、更に追跡を受け、ついにポセイドン神殿で服毒自殺した。
 祖国の自由と独立を最後まで守ろうとした英雄の悲劇的最後とみるか、ポリス時代から帝国の時代という時勢の変化を理解できなかった無謀な好戦的指導者の末路とみるか、どちらが正しいだろうか。このような評価の分かれる例は、歴史上いくつかケースがある。思い出されるのは、女神に攻撃された南宋で、講和を主張した秦檜に対して、徹底抗戦を主張した岳飛であろうか。
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ノートの参照
第1章2節 ク.ポリスの変質